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水火

 珍しく苦い顔を、蔡京がしていた。

 北京大名府が梁山泊に蹂躙された。

 留守司の梁世傑は、聞達や李成という武将に守られて、命からがら脱したという。その梁世傑が上奏文を送ってきた。

 祝家荘、高唐州そして今回の大名府である。大名府まで襲われてしまっては、上奏文をもみ消す事も帝に隠しだてする事も、もはや不可能であった。

 朝議の場で、梁山泊に対して恩赦の詔勅を下し、国のための兵として召し、辺境の防備などにあたらせましょう、という意見が出た。

 だが、蔡京はそれを一喝した。

「綱紀を乱す賊どもをのさばらせるとは、貴様それでも国の禄を食む者の言葉か。梁山泊は、何としても叩き潰さねばならぬ」

 どちらかと言えば冷静で知られる蔡京の怒りに、場が静まり返った。

 蔡京は徹底抗戦を主張し、国と臣民を憂慮する宰相を演出した。帝に、蔡京はやはり頼りになると思わせねばならないからだ。

 しかし問題は誰を討伐に向かわせるか、だ。

 呼延灼、関勝、と名の知れた武将はことごとく敗れた。

 童貫は目を逸らし、大きな体を縮めるようにして気配を消すのに必死だった。

 使えぬ男だ。

 蔡京は、しばし目を閉じ、記憶の中からある名を呼び起こした。

 凌州団練使の魏定国、そして同じく単廷珪である。この二将、強さだけではなく、それぞれに得意とする計略があるという。

 帝が退出し、一同が顔を上げる。

 童貫は指名を免れ、ほっとしたような顔をしていた。

 それを、蔡京は蔑んだ目で見ていた。

 

 やはりというか、盧俊義は頭領の座を固辞した。

 河北の三絶と呼ばれるほどの人物であり、晁蓋とは若い頃からの親友であったという。 梁山泊の頭領となるのに充分な資質だった。

 宋江も、盧俊義がなるべきだと主張したが、晁蓋の遺言があった。

 仇を討った者が頭領となるのだ。そしていまは、仮にであるが宋江が頭領という事になっている。

 盧俊義も、

「今、わしが就くことは、晁蓋の遺志ではない」

 と言った。

 確かに正論であり、宋江は引き下がらざるを得なかった。

「なんだよ、宋江の兄貴が天子になって、盧俊義どのが宰相になって、都へ攻め上がってやろうじゃありませんか。そして腐った国を潰しちまえば良いんでさあ」

 李逵がはしゃいでそう叫んだ。

 宋江はたしなめたが、少なからず賛同の声が上がるのを、聞き逃してはいなかった。

 ともかくという事で、盧俊義救出を祝す大宴会が催された。李逵は先程の言葉など、どこかへ忘れて来たように大杯を傾けて、楽しそうにしていた。

 李固と賈氏は、盧俊義が直々に手を下した。

「李固よ、最後に聞いておこう。銀十両のことは覚えているか」

「え、銀だと。何を今さら」

「お前が銀子をくすねたことは分かっていた。手癖の悪い男だとは思ったが、まさか妻までくすねるとはな」

「お、お許しを。心を入れ替えます。何でもします、だから」

「李固よ。銀十両、命の代償にしては高くついたな」

 どちらも長年連れ添ってきた番頭と妻である。だが二人の臓腑をえぐった刀を持つ盧俊義の目には、そのような情は少しも感じられなかった。

 李固と賈氏の首を刎ねた蔡福と蔡慶は、いささか緊張した面持ちだった。

 目の前に、かの高名な病関索がいるのだ。

「大名府では義弟が、大変世話になったと聞きました。ありがとうございます」

 首斬人として憧れでもあった楊雄の言葉に、天にも昇るような蔡兄弟である。

「あ、いえ。わしらは大したことはしておりません。なあ、慶」

「あ、はい。その、石秀どのの方が、牢内とは思えぬほど落ち着いておりまして」

 などと、頭を掻く二人に、石秀が言う。

「いや、兄貴。お二人は、あの李固の誘いにも屈しなかったのです。このような好漢と知り合えたのですから、捕まって本望でしたよ」

 その言葉に、やっと蔡兄弟も笑顔を見せた。

「仕方ありません。面倒ですが、迂回するしかありませんや」

 段景住がそう言い、索超が頷いた。

 北の国、遼から軍馬を仕入れた帰りの道である。二人が凌州に近づくにつれて、巡回の兵が増えてきていたのだ。

「また戦が始まりそうだな」

 索超は兵の様子を見て、そう言った。

「梁山泊と、ですかね」

「分からんが、もしかしたら」

 ううむ、と段景住が唸った。

 凌州から離れる道をとるが、段景住は不安な顔のままだった。ここは曾頭市に近いのだ。

 段景住は、以前に馬を奪われている。金から盗み出し、宋江に献上しようとした照夜玉獅子を、この辺りで奪われた。

 それがきっかけで曾頭市と戦が起こり、晁蓋が身罷るという事態になったのだ。

 段景住が不安を抱くのも当然だろう。索超は気を引き締めた。

 梁山泊に捕らわれた索超は、段景住の護衛を労役として課された。労役とはいえ、務めは果たさねばならない。一本気な索超はそう思っていた。

「索超の旦那、あれを」

 段景住の不安が当たった。

 不穏な一団が、土煙を上げながら駆けてくるのが見えた。やはり曾頭市の方向からである。いまから逃げても追いつかれるだろう。

 やがて一団が、道を塞ぐようにした。段景住に馬をまとめさせ、索超が前に出た。

「そこをどいてくれないか。急いでいるのだ」

 一団はにやにやとするばかりで、動こうとしない。

「では勝手に通るが、良いのだな」

 索超は荷車の中から金蘸斧を取り出し、構えた。空気が一瞬にして変わった。

 そこで一団がざわつき出した。

 索超が歩きだした。

 すると、一団が真ん中から割れた。索超らを通すため、ではない。

 その中から一人の男が出てきた。男がこちらへ歩いてくる。

「なんだい、あいつは」

 段景住が思わず漏らした。

 索超も近づいてくる男を見ていた。近づくにつれ、索超の視線が上へ上へと向いた。

 男が目の前に来た。索超は天を見上げるようにしていた。

 巨漢な方である索超よりも、頭三つ分、いやそれ以上の大きさかもしれない。立てた金蘸斧の先よりも、頭が上にあった。

 段景住が馬を守るように下がった。

 梁山泊にも杜遷や宋万という巨漢がいる。彼らも索超より大きいが、この男はそれよりもさらにでかい。背の高さだけではない、手も足も、すべてがでかかった。

「馬を、置いてってもらおうか」

 だが索超は怯まない。

「邪魔なんだが、どいてくれないかな」

 巨漢は索超を見下ろし、不思議そうな顔をしている。

「聞こえなかったのか。邪魔だと言っているのだ」

「俺に言ってるのか。お前」

「さっきから、そう言っているだろう」

 索超が金蘸斧を振り上げようとした。だが、その手がぴたりと止まった。金蘸斧の斧の部分を、巨漢が指でつまむようにしていたのだ。

 全身の力を使い、金蘸斧を引き剥がそうとするが、できなかった。

「貴様、離せ」

「邪魔なのは、お前の方だなあ」

 巨漢がにやりと笑みを浮かべ、巨大な脚を浮かせた。足の裏が、索超の上半身ほどもあった。その蹴りが、正面から索超を襲った。

「索超の旦那」

 段景住が叫ぶ。

 巨漢がおや、という顔をした。

 巨漢がつまんでいる金蘸斧に、まだ索超がぶらさがっていた。

 段景住が、また叫んだ。その声で索超が、顔を上げた。ちらりと段景住を見やる。

 一瞬だけ意識が飛んでしまった。

 鉄鎚を打ちこまれたような、鈍い痛みが腹の底から上がってくる。手は離さなかった。だが肩が千切れるようだ。折れはしなかったようだが、外れてしまったか。

「しつこい野郎だなあ」

 巨漢がまた脚を上げ、蹴りを何度も打ちこんだ。そのたびに索超の体が浮き上がる。だが、その手はしっかりと金蘸斧を握りしめて離さない。

 口からは血がしたたかに流れている。しかし索超は不敵な表情であった。

「おい、手を放して、とっととそこをどけ。痛い目に会う前に、とっとと消えるのだ」

 索超がそう言い放つ。

 巨漢の髪がわさわさと逆立つように見えた。これでは立場が逆ではないか。

 巨漢は巨大な拳を握りしめた。その拳は、巨大な岩のように見えた。

「馬鹿にするな」

 巨漢が拳を振りおろそうとする、その時、風が吹き抜けた。

 後ろに控えていた巨漢の手下たちが悲鳴を上げ、吹き飛ばされる。

 馬だ。無数の馬が、まっすぐに突っ込んで来たのだ。

「索超の旦那、こっちです」

 馬に乗った段景住が叫ぶ。まっすぐに索超に向けて駆けてくる。

 させるか、と巨漢が手を広げ、索超を掴もうとする。

 うっ、と巨漢が唸った。背中に、馬の後ろ蹴りをもろに喰らった。

 斧を掴む手が緩んだ。

 そこへ飛び込んだ段景住が、索超を奪うようにして駆け去った。

「お前ら」

 巨漢が振り向くが、手下たちは押し寄せる馬から身を守るのに、精一杯だった。

 土煙が収まった後、索超と段景住の姿はすでに遠くにあった。残されたのは、無数の蹄の跡と、逃げ遅れた馬。

「まあ、良しとするか」

 すべてではないが、梁山泊の馬を奪ってやった。

 これを曾頭市に持ち込めば、仲間に入れてもらえるだろう。

 凌州からも梁山泊討伐軍が出されると聞いた。

 時流は梁山泊ではなく、曾頭市だ。現に一度、勝利しているのだ。

 巨漢はもう一度、索超たちが駆け去った方角を見た。

 何度蹴っても屈しなかった索超の顔が、しばらく頭から離れなかった。

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