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蘇生

「おい、今なんて言った」

 金沙灘である。張横の怒鳴り声が響いた。穆春に向かって睨んでいた。

「何って、その、張順ひとりで大丈夫なのか、と思って」

「俺の弟を何だと思ってやがるんだ、貴様」

「なっ、貴様ってなんだよ」

「よせ、春」

 一触即発の所へ、穆弘が割って入った。

「おや、没遮攔が人のいざこざを止めようとはな。まあ、あんたの顔を立てるとするよ」

 張横は手を振って金沙灘を後にした。穆春はその後ろ姿に向かって駆けだそうとしたが、穆弘に止められた。

「何だよ、兄貴。あんなこと言われて黙ってるのかよ。いくら潯陽江で一緒にいたからって」

「そう言えば、お前はあまり知らなかったのだな」

 何の事だ、という顔をする穆春。

 張順のことをだ、という。

 確かに穆春が兄について回り出した頃には、張横と張順は一緒ではなかった。すでに江州で魚問屋を営んでいたのだ。

「昔は二人で追い剝ぎ船頭をしていたんだったよな」

 穆春は、その話は聞き及んでいた。だが実際に張順に会うと、その過去があったとは思えない好青年ぶりなのだ。

「まあ、張順は本物だ。ここだけの話、追い剝ぎ船頭を辞めたのは、張横がそうさせたからなのだ」

「張横が、だって」

「二人で組んでの仕事は、それは鮮やかだった。だが張横はある時、張順の将来を思ったらしい。いつまでも追い剝ぎなどやらせてはいられないと。張順は人当たりも良いし、商才がある。だから張横の方から辞めさせたのだ」

 決して張順が弱かったからではない。

 穆春は黙って聞いていた。珍しく、兄が饒舌だった。

 それに滅多に、いやほとんど人を褒めることのない兄だ。その兄がここまで言うとは。

「すまない、兄貴。また恥かかせちまって」

「ふん、俺は良い。そう思うなら、張横のところへ行ってきな」

 すまねぇ、そう言って穆春が駆けて行った。

 その背を、穆弘が腕を組み、見送った。

 気付くとそこに李逵がいた。

 話を聞いていたのか、うんうんと思いだすように頷くと、穆弘に笑顔を見せた。子供のような笑顔だった。

 穆弘もつられて、笑った。

 この男が、神医と称される安道全だとは、どうしても信じらなかった。

 王定六と別れ、建康府へ着いた。

 張順は安道全の治療所へ向かったが、あいにく留守であった。使用人が言うには、ほとんどここに来ず、酒屋にいるのだという。そして教えられた店へ行くと、そこに安道全がいたのだ。

 だが張順は目を疑った。母の病気を治療してくれた時の、凛とした威厳のある医者の面影が見当たらなかった。いま目の前にいるのは、ただの白髪の初老の酔っ払いであった。

「なんの用だ。わしは忙しいのだ」

 酒臭い息を吐き、安道全は張順を睨んだ。安道全の横には、美しい女が肩にしな垂れかかるように座っていた。

 安道全の杯が空くと、再び杯に酒を満たす。安道全は嬉しそうに笑みを浮かべると、杯にちびりと口をつけた。

 李巧奴という娼妓だという。年のころは二十歳くらいだろうか。

 張順は丁寧に礼をし、ここへ来た理由を話した。すると安道全は笑った。

「おお、お主は張家の二男坊か。思い出したぞ。母親は健勝かな」

「ええ、先生のおかげです。それで、お話ししましたように、今日は先生の腕を頼るためにやって来た次第。どうかご足労いただけませんか」

「どうして、わしが山東まで行かなきゃならんのだ。それにその病人を診てやる義理もない」

 張順は苛立ちを覚えながらもそれを押し殺して、なおも頭を下げる。

 その粘り強さと真剣さに、安道全もついに杯を置いた。

 しかし、李巧奴が優しく杯を差し出した。

「先生、まさか遠くへ行ってしまうのではありませんよね。どうか、私を置いて行かないでくださいまし」

 そして妖艶な笑みで、杯にまた酒を注ぐ。安道全も、またそれを飲んでしまう。

 張順は堪えた。静かに、だが怒りを込めて李巧奴に告げる。

「すまないが、先生と話がしたいのです。席を外してくれませんかね」

「あら、お話ならすれば良いじゃない。先生は私とお酒が飲みたいんですって。ね、先生」

「どうか」

 張順の目つきが変わった。

 さすがの李巧奴も、それを感じ取ったのか、分かったわよ、と言いながら奥へと下がった。

「おい、穏やかじゃないな。あ奴がいてもいいだろうに」

 張順は握った拳を、思い切り卓に叩きつけた。

 びくりと安道全が肩をすくめた。

「どうしてしまったんです、先生。私の知っている神医は、どこへ行ったんです」

 その言葉に、安道全は長く深いため息をついた。

「疲れたのだ」

 張順は聞き間違いかと思った。

 安道全は聞こえないと思ったのか、今度ははっきりと言った。

「疲れたのだよ。医者であることに、人を助けることに」

 どうして、と問う前に安道全の方から語り始めた。

「妻が死んだ」

 安道全は、張順に座るよう目で促し、卓の上の杯を見つめた。

 安道全はでき得る限り病人の元へ行き、自ら診察をして、治療をした。そしてそのほとんどが快癒した。熱や腹痛だけではなく、骨を折った者、怪我をした者。そして原因不明の病まで、である。人々は感謝し、神医の腕を褒めたたえた。

 その名声が広まるにつれ、己の身だけでは間に合わないことを恐れ、弟子をとり、育ててもいたという。

 だが一年ほど前、旅から戻ると、長年連れ添った妻が死んでいた。もう少し早く戻っていれば治せていた。弟子も、遠くへ行っていて居なかった。

 どうやら風邪をこじらせて、肺腑を病んだようだ。血を吐いた跡が、残されていた。

 近所の者も、妻が病だとは知らなかった。

「医者の妻が病気など、それこそあなたの信用にかかわります」

 妻ならばそう言うだろう。気丈で、高潔な妻だった。

 安道全は痛哭した。なぜ、妻が死なねばならんのだ。自分がいれば助かったものを。

 酒を浴びるように飲み、天を罵った。

 そして医者を辞めた。弟子も故郷へ帰した。

「どうしてわしがこんな目に会わねばならない。自分で言うのもおこがましいが、わしがどれだけ人を救ってきたと思っている。なのに、どうして。だから辞めたのだよ。わしももう年寄りだ。余生を面白おかしく生きようと決めたのだよ」

「それで酒浸りですか。女まで」

「良い女だろう、李巧奴は。他人にはもう充分に尽くした。あとは自分が楽しむ番だ」

 からからと笑い、安道全が酒を飲む。置いてあった杯に酒を注ぎ、飲めという風に張順に向けた。

 張順はそれを飲まず、じっと安道全を見つめた。

「あんたは、人殺しだ」

 安道全の顔がきょとんとする。

「なにを言っているのか、分からん。誰が人殺しじゃと」

「わかりませんか。あなたですよ、安先生」

 ずいと張順が詰め寄る。何か言おうとする安道全を遮り、張順が吼えた。

「先生は、神医と呼ばれるほどの人だ。自分で言ったように、多くの命を救ってきた。私の母もその一人です」

 しかし、と張順は杯を取り、酒を一気に呷った。

「先生はもう辞めた。今この時にも、あなたを求める声が、数え切れないほどあるのに。先生しか救えないのに、救わないと言う。だから、先生は人殺しだと言っているのです」

「無茶苦茶なことを言う奴だ」

「違いますか、先生」

「うるさい。何と言われようと、わしは行かんぞ」

「お願いです。その方を救わねば、多くの命が失われることになりかねません」

「大層な言いぶりだが、一体誰なんだ、そのお方とやらは」

「梁山泊の及時雨こと宋江どのです」

 今度は安道全が憤った。

「梁山泊だと。ふざけるんじゃあない、山賊の親玉を治療するだと。わしは、そこまで落ちぶれちゃいない。殺されたって、行くものか」

 張順は意外そうな顔をした。医者を辞めたと言っておきながら、秘めた矜持(きょうじ)が顔をのぞかせたのだ。張順は声を低くした。

「国が病んでいる。宋江どのはそう言っています」

「国が、だと」

「はい。宋江どのはもともと役人です。その時から及時雨と呼ばれ、梁山泊にいる今でも、民が幸せになる事だけを考えている。国はいま病気だというのです。先生はそう思いませんか」

 安道全は沈黙した。患者を診るため、あちこちに旅をした。そして、各地で感じるのは、やはり腐敗した役人の横暴さだった。

 国が病んでいる。その言葉は安道全にとって新鮮だったが、腑に落ちるものでもあった。

 しかし、だからこそ思う。

「国が病など、妄言もいいところだ。たとえそうであっても、国の病を治すことなどできるものか」

「私も、そう思いました。しかし宋江どのは、それが不可能ではないと思わせる何かがあるのです。江州(こうしゅう)で出会った時も器の大きい人だと思いましたが、最近では特に」

 だが安道全は取り合わず、酒を飲んだ。張順は根気強く説得をするのだが、行かないの一点張りだった。

 そしてついには、安道全は酔いつぶれて眠ってしまった。

 張順は大きくため息をついた。会いさえすれば簡単なことだと思っていた。しかし困ったことになったものだ。

 寝息を立てる安道全をじっと見つめる張順。

 このまま麻袋にでも詰めて攫ってしまおうか、などと考えてしまう。張順の手が、安道全に伸びてゆく。

 だが安道全の寝言が聞こえてきた。

 手が止まる。張順の目が、普段の優しいそれに戻った。

 はっきりとは聞こえなかったが、妻の名前を言っていたようだった。

 張順は安道全を寝床へと運ぶと、思案した。

 と、誰かが店に入ってくる音がした。

 張順は灯りを消し、戸の陰に隠れると、隙間に目を当てた。

「おい、李巧奴。俺さまが来たぞ。早く顔を見せろ」

「まったく、こんな時分に来るなんて。今日は先客がいるんですよ」

 怒ったように酒屋のやり手婆が出迎えた相手は、見間違えるはずもない。張順を殺そうとした船頭、張旺(ちょうおう)だった。

 また会えるとは。

 にやりと笑った張順の瞳が、鋭く光った。

  

 張旺が袋から金子をとり出し、婆さんに放った。

「いいだろう。今日はたんまりあるんだ。そいつはあんたの分だ。さあ、李巧奴に会わせてくれ」

 ぶつくさ言いながらも、婆さんが奥へと案内してゆく。張順は物陰に隠れながら、張旺を追った。

 張旺は婆さんの部屋に通され、やがて李巧奴が現れた。李巧奴は金子を手にすると嬉しそうに、張旺に酌を始めた。

 足を踏み出しかけたが、張順はそのまま機をうかがう事にした。逃がす訳にはいかない。

 二人の会話が聞こえてくる。

「今日はおひとりなんですの。いつも一緒にいるあの若いのはどうしたのさ」

「ああ、孫五のことか。具合が悪いって家に帰ってるよ。そんな事より、あの爺さんはまだ入り浸っているのか。いい加減、俺に決めろというのに」

「あら、あの人はあんたよりもお金持ちなのよ。奥さんを亡くしたか知らないけど、ちょっと甘えたらすぐに財布の紐を緩めるんだから」

「こいつ、ひでえ女だな」

 爺さんとは安道全のことだろう。孫五も自分で殺しておいて、よく言えたものだ。怒りで飛びこみそうになる張順だったが、なんとか堪えた。

 やがて日が変わろうという刻限。

 店が静まり返っている。どうやら起きているのは張旺と李巧奴だけになってしまったようだ。

 頃合いか。

 張順はそっと部屋を離れ、厨房へと忍び込んだ。案の定、使用人たちも眠りこけていた。

 張順は包丁を探し出すと、ゆっくりと忍び足で部屋まで戻った。

 部屋からは張旺のぼやく声だけが聞こえてくる。張順は静かに戸を引き、中へと足を滑らせた。張旺はぶつぶつと何か言いながら、船を漕いでいた。

 張順が包丁を逆手に持ち、張旺に狙いをつけた。

「あんた、どうしてここに」

 李巧奴だった。張旺の背後の戸から入ってきたようだ。李巧奴のその声で、張旺が飛び起きた。

 張順が包丁を振り下ろした。張旺はすばやく李巧奴の襟をつかみ、包丁の前へと突き飛ばした。

 あ、という嗚咽が聞こえた。張順と李巧奴、二人のものだった。

 刃が李巧奴の胸に深々と突き刺さっていた。

「貴様、待て」

 張順の言葉もむなしく、張旺は奥の戸から逃げて行ってしまった。

 床には割れた徳利とこぼれた酒、そして血に濡れた李巧奴が残された。

「何事だ」

 安道全が部屋に駆けこんできた。張順と目が合った。張順は何か言おうとしたが、安道全は聞かなかった。

 一瞬にして状況を把握したのだろう。さすがと言うしかなかった。安道全は必要なものを素早く指示し、張順はそれを求めて駆けた。

 だが手遅れだった。

 李巧奴は恨めしそうに安道全を見つめたまま、息絶えた。

 安道全は、その瞼をそっと閉じさせた。

「毎晩、妻を夢に見る」

 張順が声をかけようとした矢先、安道全がそう呟いた。

「妻が死んで、医者を辞めようと決めた。だが毎晩、夢に妻を見るのだ。死なせてしまったことを恨んでいるのか、そう思った。だが、だが違うのだ。妻はいつも、生きていた頃と同じく優しく微笑んでいるのだ」

 安道全の目から涙が一筋流れた。そしてもう一筋。やがて涙がとめどなく溢れだした。

 どうして責めてくれんのだ。安道全はそう言った。

 妻を救えなかった己が許せなかった。だからもう医者としての資格はない、と酒と女に溺れようとした。李巧奴が、金目的だという事など知っていた。それでも良かったのだ。

 だが、いつも夢の妻は微笑んでいた。そしてその度(たび)に、安道全は居たたまれない気持ちで目を覚ますのだ。

「あなたは、やはり医者です。それ以外では生きられない人です」

 張順は優しくそう言った。李巧奴が倒れているのを見た安道全は、すぐさま処置を施そうとした。なにも逡巡することなく。

 安道全は血に濡れた両手を見た。李巧奴の血だ。

「わしを連れて行け、張家の二男坊」

「いま何と」

「連れて行けと言ったのだ。こうなってしまったからには、ここにはおられん」

「先生、それでは」

「勘違いするなよ。お主のせいなのだからな。責任を取ってもらうぞ。わしを無事にここから連れ出せ」

「分かりました、先生」

 もう、どんな理由でも良かった。

 安道全を、神医をやっと、梁山泊へ連れて行けるのだ。

 張順と安道全は急いで荷物を取りまとめ、店を後にした。やり手婆や使用人たちが気付いて騒ぎ出す前に、急いで離れなければならない。

 身を切るような風の中、二人は王定六の店へとたどり着いた。

 空が明るくなってくる頃合いであった。丁度、起きてきた王定六はすぐに二人を迎え、暖を取らせた。

 酒店での話を聞き、王定六は悔しがった。張旺を取り逃がしたことをである。

「仕方あるまい。先生を連れて行くという大事(だいじ)があるのだ。恨みはあるが、小者に構ってはいられん」

 張順はそう言って、酒を呷った。

 しばらくして、食事の準備をしていた王定六が、血相を変えて駆けこんできた。

「張旺の奴が、いました」

 なに、と張順が立ちあがった。

 ここで再び会うとは、奴も運の尽きだ。

 張順の目が、またも光った。

「おおい、張の旦那」

 王定六に声をかけられた張旺が顔を上げた。張旺は船の側で火に当たっていた。

「なんだ、お前か」

「なんだはないじゃないですか、旦那。お客を連れて来たんですぜ」

 張旺は面倒くさそうな顔をしたが、王定六が何度も頼み、ようやく首を縦に振った。

 王定六の案内で身なりの良い若者と、その従者らしき初老の男が乗り込んだ。この身なりの良い若者、実のところ張順である。そして従者は安道全だ。張旺にばれないよう、衣服を取りかえたのだ。

 張順の顔は大きな笠で見えない。張旺は、その笠の下で張順が笑みを浮かべている事を知る由もなかった。

 張旺が竿を操り、船が岸からゆっくりと離れた。

 張順は荷物を置くふりをして船の胴へと入る。そこを探すと案の定、板刀が見つかった。

 張順はそれを隠し、何食わぬ顔で戻ると、張旺の後ろに陣取った。そして、すっと刀を張旺の首元に添える。

 張旺はびくりとして、振り向きかけた顔を止めた。目の端で張順を捉えていた。

「この顔を覚えているかい、旦那」

 張順が笠を脱ぎすて、その顔を見せる。張旺は身動きできぬまま、頬に汗を垂らした。

「お前、まさかあの夜の。確か河に落ちたはずじゃあ」

「落ちたさ。だが泳ぎは得意な方でね」

 馬鹿な、という顔をする張旺。縄で体も縛られていたはずだ。

 だが目の前にいる男は、確かにあの時の男だ。

「化けて出やがったか」

「冗談を言う余裕があるんだな」

 そう言って、張順は刀をぐいっと押しつけた。

「昨日の夜も会ってるんだがな。気付かなかったかい」

 は、と張旺の目の色が変わった。昨夜、李巧奴に会いに行った時の騒ぎか。あれはこいつだったのか。

「へ、それで、俺をどうする気だい」

「板刀麺が喰いたいか。それとも別のが良いかな」

 張順の瞳が、危険な光を孕んだ。ごくりと張旺が唾を飲む。

 その答えを待たず、刀を持つ手に力を入れた時、大きく張順の体が傾(かし)いだ。

 船が揺れたその隙を突き、張旺が刀から遠ざかった。そしてそのまま、従者の姿をした安道全を盾にした。

「何をする、こいつめ」

「おっと、あんた安道全の爺さんじゃねぇか。どうして、あいつと」

 と思ったが、いまはそれはどうでも良かった。

 張旺が脚絆から小さな刀を取りだした。そしてそれを安道全の首に当てる。

「逆転だな」

「先生。貴様」

 体勢を整えた張順が向きあう。張旺は余裕そうな表情だった。

 もしかしたら、今の揺れは偶然ではなかったのかもしれない。そう考えている所へ、もう一度揺れがあった。

 尻もちを突きそうになった張順だったが、それを堪えた。張旺は身じろぎもせず、安道全を捕まえたまま悠然としていた。

 やはり。この長江の流れを知り尽くしているのだ。截江鬼と呼ばれるだけのことはある。

 兄貴だったなら、こんな失態はしていなかっただろう。張順は兄の張横を思い浮かべた。

 張順は腰を落とし、足を広く取って、揺れに備えた。

「さあどうするね、若造」

「先生、動かないでくださいよ」

 張順が刀を構え、一か八か突っ込む構えだ。

「おい、待て、早まるんじゃない。わしを無事に連れて行けと言ったろうが」

 張順が目を細め、狙い澄ます。

 だが次の瞬間、その目を大きく見開いた。

 なんだい、あれは。

 張順の視線の先を、張旺も見た。

 船を追うように、少し高くなっている岸辺の道を駆けている者がいた。

 活閃婆の王定六だった。

 

 張順と安道全を見送り、遠目で船を眺めていた。だが、なんと安道全が人質に取られてしまったではないか。

 王定六は、すぐに走りだした。

 自分が行って何ができるというのか。しかし、それでも王定六は駆けるしかなかった。

 河の流れは穏やかだったが、船は下りである。

 王定六は走った。おおお、と自然と声が出ていた。

 腕をもっと振れ。足をもっと動かせ。

 自分に言い聞かせるように、王定六は必死に走った。

 距離が、徐々にではあるが、縮まってきた。王定六はさらに足に力を入れた。

 息が苦しい。胸が痛いくらいに、鼓動が速い。だがここでやめる訳にはいかない。

 そして追いついた。

 王定六が船に並んだ。距離は一丈ほどだろうか。

 張順がこちらに気付いたようだ。王定六は走りながら、こくりと頷いて合図をした。

 王定六が身体を傾け、一気に岸から斜めに駆けおりた。

 まさか、という顔を張順がしている。張旺も気付いたようだ。

 河が目の前にある。だが王定六は止まらない。

 そのままの速度で、河に足を踏み込んだ。

 張順も安道全も、張旺さえも目を疑った。

 王定六は走っていた。河の上を、走っていたのだ。

「嘘だろ」

 張順がそう呟いた。

 王定六が、信じられぬ速度で船との距離を詰めた。

 そのまま王定六は拳を握り、呆気にとられる張旺の顔面を打ちぬいた。

 船が大きく揺れたあと、勢いよくひっくり返り、張順たちが河へと投げ出された。大きな水飛沫(みずしぶき)が幾つも上がった。

 水の中で張順は、白目を剥いて漂う張旺を見た。それで充分だった。あとはこいつの運次第だ。

 張順はすぐに向きを変えると、安道全と王定六を救いに向かった。張旺は瞬く間に河の底の方へと、流れて行った。

 助けだされた安道全と王定六が岸で、咳きこんでいた。

「王の倅よ、お前こんな芸当ができたのか」

 安道全の問いに、王定六が咳をひとつふたつしてから答えた。

「初めてですよ。水の上を走ったことなんて、ありません。でも、やるしかないと思って」

 張順も安道全も驚くやら呆れるやら、微妙な顔をしていた。

 だがやがて、張順が弾けるように笑った。

 船に追いつくほどの速さで走る事も常人離れしているが、まさか、水の上まで走るとは。

 活閃婆、稲妻の神か、なるほど。面白い男もいたものだ。

「はは、おい王定六。お前も、梁山泊に来ないか」

 王定六は、張順の誘いに一も二もなく頷いた。

「まったく、これからどうなることやら。悪い予感しかしないわい。やめた方がよかったかもしれんな」

「もう引き返せませんよ、先生。乗りかかった船なんですからね」

「その船も、沈んだがな」

「じゃあ、うちの店の船を出しますよ。ちょっと待っててください」

 そう言うと王定六は、来た道を走りだした。

 やはり信じられぬ速さで、すぐに見えなくなってしまった。

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