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蘇生

 手のひらから、はみ出すほどの瘤だった。

 それが首の付け根にできていた。

 宋江はうつ伏せにされ、うんうんと唸るばかりだ。高い熱が出ているのは、その瘤のようなできもののせいだと思われた。

 呉用が携えていた医書を調べた。

「これは癰(よう)か疔(ちょう)の類でしょう。菉豆の粉が毒気を防ぎ、心の臓を守ると書いてあるので、さっそく手配しましょう」

 たとえ小さくとも、傷口から毒が入りこみ、腫れてしまう事がある。それをいわゆる癰とか疔という。そしてそのできものを放っておくとさらに酷くなり、膿が出たりする事もあるのだ。

 呉用は手配しろと言ったが、ここは敵地である。河北近辺に詳しい楊林が、近くの村からやっと材料を手に入れてきた。さっそく調合し、服用させた。

 だが効果が出ているようには思われなかった。宋江は変わらず熱にうなされていた。

 呉用は医書を片端から調べ、効き目のありそうな薬草などを解珍と解宝に採りに行かせ、医師を呼ぶため戴宗を梁山泊へと向かわせた。

 まんじりともしないと時間が流れた。

 その間にも宋江の病状は悪化していくようで、できものも大きくなった気がした。

 戴宗が戻り、医師に見せたがここまでの癰は見たこともなく、手の施しようがないと言われた。

「もっと良い医者を連れてきてださい。無理やりでも構いません。宋江どのの命がかかっているのです」

 無茶な、と戴宗は思ったが、走るしかなかった。

 宋江が倒れたと聞き、武松が見舞いに来ていた。

「宋江どのは大丈夫なのか」

 そう急きこむが、呉用の表情で察したようだ。

 武将は宋江に恩があった。柴進の屋敷にいた頃、突如瘧(おこり)の発作が再発した。その時、宋江が持っていた特効薬で救われたのだ。

 はた、と武松は閃いた。たしかどこぞの名医の処方薬と聞いていた。宋江の父親の知り合いとかで、名は何と言ったか。宋清なら知っているのだろうが。

「それは、安道全先生ではないかな」

 同じく見舞いに来ていた張順がそう言った。

「知っているのか、その医者を」

「ああ、潯陽江にいた頃、母に同じようなできものができてね。当時、建康府にいた安先生に診てもらったところ、たちまちに快癒したんだ。それ以来、いまでも金に余裕ができたら先生に送っているんだ」

 呉用も身を乗り出した。

 早速、出発の準備が整えられた。戴宗が不在なので、張順のひとり旅となる。

「頼みましたよ、張順」

「急いで戻ってきます」

 外へ出ると、武松が待っていたように、そこにいた。

 武松は無言だった。

 張順も黙って軽く頷いた。

 雲は相変わらず厚かったが、幸いにも雪は降っていなかった。

 しかしやはり冬。

 雪のない日は雨、と張順の道行は難渋した。

 旅を続け十日あまり、張順はやっと潯陽江へとたどり着いた。

 その日も風が強く、吹雪となった。荒涼たる景色だが、やはり張順は潯陽江に懐かしさを覚えた。

 しかし辺りに船は一艘も見当たらない。この天候ならば当り前か。

 細くたなびく煙が、張順の目に入った。船頭が寒さしのぎに火に当たっていた。

「すまないが、川を渡って建康府まで行きたいのだ。船を出してくれないか」

 筍皮の笠をかぶった船頭はいぶかしげに張順を見た。

「あんた、この雪だぜ。それにもう日も暮れちまう。無理だ、他を探してくんな」

「そう言わずに。急いでいるのだ。金ならばはずむから、何とか出してくれないか」

 金、という言葉に船頭が反応した。しばし思案した後、やおら腰を上げた。

 面倒くさそうではあったが、張順について来いという仕草をする。

 葦の茂みに船が舫ってあった。雨露をしのぐ篷の下に男がいた。笠の船頭よりも若いようだ。

「兄貴、そいつは誰だね」

「お客だ。とっとと準備しな」

「客って、こんな雪の日に船を出すのかい。無茶だぜ」

「とりあえず風がおさまるまで船で休んでもらう。月が出たら船を出す。いいな」

 若者はしぶしぶ船頭に従った。

 張順は胴の間に入り、濡れた着物を脱ぎ、新しいものに着替えた。船頭が、若い男に着物を火で乾かすよう言いつけた。

 酒はないが、飯はあるという。張順はそれを分けてもらい、少しだけ落ち着くことができた。

 火の爆ぜる音が、耳に心地良かった。

 ここまでの強行軍でさすがの張順も疲れ切っていた。身体がじんわりと温かくなると、瞼(まぶた)がすぐに重くなった。

 寝息を立てはじめた張順を、若者が横目で見ていた。

 す、と若者の手が伸びる。その手は張順の枕の下を探る。

 若者がにやりと笑った。手には小袋。しっかりと感じる重みが、その中身を連想させるのに充分だった。

「兄貴」

「よし、船を出せ」

 若者はにやついた顔のまま、竿を操った。

 ゆっくりと、静かに、船が岸から離れた。

 風は止み、月明かりが川面を照らしていた。

 目を覚ますと、体に縄が巻かれていた。

 しまった、と張順が気付いた時には後の祭りだった。

 船頭と若い男が手に板刀を持っている。どうやらそこそこ慣れている様子だ。

「兄貴と同じか。うっかりしていたな」

 ぽつりと張順が漏らした。

「何か言ったか」

「いや、何も」

 若い男が金の入った袋を持っていた。金は取られてしまったか。さてどうするか。

「兄貴、なんだかこいつ、妙に落ち着いていやしませんか」 

「はん、そんな訳があるか。びびっちまって、魂が抜けそうなのさ」

 張順はその言葉に呆気にとられた。そんな風に見えているのか。ならば丁度良い。

 張順が、突然叫んだ。

「助けてください。命だけは、命だけは助けてください。金目のものは全部差し上げますので、どうか命だけは。郷でおっ母さんが待ってるんです」

 おいおい、と張順が泣き崩れる。だが船頭は張順に向かって詰め寄る。

「駄目だ。金も命も置いて行け」

 船頭は板刀を、張順の首めがけて横に払った。

 ひぃっ、と張順はのけぞるように刀を避けた。そしてそのまま船の縁を乗り越え、川の中に落ちてしまった。

 慌てて若い男が駆け寄って、水の中を見る。だが張順の姿は見えなくなっていた。

「まあいい。縄で縛ってあるんだ、溺れ死んで終わりだ」

 刀を持ったまま船頭は、若い男から袋を預かる。

 中を覗き見た船頭の目の色が変わった。

「おい、少し休もうや。酒があったろう」

「へへへ、やりましたね、兄貴」

 若い男は笑いながら篷(とま)へと潜り込む。

 そして酒を持ち、顔を出した時である。男の首元に風が走った。

 次の瞬間、真っ赤な血が首から噴き出した。

 若い男の顔は見る間に白くなり、そのまま突っ伏した。

 船頭は、若い男を足で水の中へと蹴落とした。

「ちっ、汚れちまったな」

 唾を吐き、刀を服の端で拭う。

 刀をしまい、船頭は袋の重さに改めて満足そうに笑った。

 

 若い男が上から落ちてきた。

 水の中で、首からの血が靄のように広がった。すでに事切れているようだ。

 可哀想に。船頭が金に目が眩んだのだろう。

 張順は死体を避けるように潜り、そのまましばらく進んだ。縄はすでに自力で解いてある。

 船から充分に離れたと思われるあたりで、やっと頭を水上に出した。

 どのあたりだろうか。やや下流に明かりが見えた。張順はそこを目指し、鮠のように泳いだ。岸に上がった張順が、震えながらそこへ向かって駆ける。

 幸運だった。どうやら居酒屋のようだ。

「申し訳ありませんが、火に当たらせてくれませんか。川で身ぐるみを剥がれてしまって」

 飛びこんできた張順を見て、店の主人が驚いた。着替えを用意してくれ、暖かい飯と酒を用意してくれた。

 王(おう)という主人は人の良さそうな目をして張順を見ていた。

「まったく難儀な目に会いましたな」

「まったくです。幸いにも泳ぎができたので命拾いしました。それにご主人が優しいお方で助かりました」

 酒が喉を通るのが分かる。腹に沁み渡るとは、この事だ。

 張順は主人に事の次第を語った。

 山東からこの健康まで、安道全に会いに来たのだと。

「なんと山東からはるばると。山東と言えば、梁山泊はご存じかね、若い人」

 梁山泊の名に、張順は少し警戒をした。もしや役人に告げられるかもしれない。だがそれは杞憂だった。

 なんと、主人は梁山泊や宋江のことを褒めだしたのだ。

 梁山泊には多くの好漢が集っていて、民を苦しめる国と戦っている、とか。その好漢たちは義理に深く、人情に厚い者ばかりで、他の賊などのように決して民草に手は出さない、とか。聞いていた張順が、思わずほころんでしまうほどの褒めっぷりだった。

 張順は、正体を明かしても大丈夫だろうと踏んだ。

 またも主人が驚いた。

「誠ですか。梁山泊のお人だったとは、これはお恥ずかしい」

 そう笑って、主人は息子を紹介したいと言った。

「これは不肖の倅です。六番目なので、定六と言います。いつも梁山泊の話をしておるのですよ」

 主人に言われ、王定六が頭を下げた。元気のありそうな若者だった。

 何でも足が早く、稲妻の神である活閃婆と渾名されているという。また泳ぎや棒術なども得意だという。

「張順どののお名前は聞いていましたが、こんな所でお目にかかれるとは」

 王定六が目を輝かせている。

 王主人が寝室へと行った後、

「先ほど父上が盛んに梁山泊を褒めていたが、何かあったのかい。お前が、言いふらしていただけではなさそうだが」

 と張順。

「ええ、実は」

 王定六の顔が曇った。

 近ごろ、江南地方に不穏な空気が漂っているというのだ。

 方臘という者が賊徒を集め、各地で蜂起の狼煙を上げているのだ。花石綱に対する反抗だった当初は、王定六も応援をしていた。江南の梁山泊とまで、讃えられることもあった。だがその様子がいつしか変貌し、ただの賊徒のようになってきたのだ、と王定六は言う。

「俺の兄弟たちも、参加しちまって。いまはどうなってるか分からねぇんです」

 そう言えば北京大名府の辺り、河北でも田虎という賊徒が暴れ回っていると聞いた。

 むらむらと怒りがわいてきた張順は、胸を叩いた。

「心配するな。そんな連中、俺たち梁山泊が叩き潰してやるさ」

「本当ですかい」

「ああ、当たり前だ」

 張順と王定六が杯を鳴らし、酒を飲み干すと笑い合った。

 ところで、と王定六が話題を変えた。

「張順の兄貴、そう呼ばせてもらいますよ。兄貴を襲ったのは截江鬼の張旺って奴と、手下の油裏鰍の孫五って奴です。ここいらでもそこそこ有名な連中で、大方どこに姿を見せるか分かってるんですが、お礼参りといきますかい」

「すまないが、急いでいてな。すぐにでも安先生に会わなくちゃいけないんだ」

 そうですか、と王定六がしょげたようだ。

 奴らに会った時は頼むよ、と張順が言うと弾けるように笑った。

 久しぶりの江南で、張順も心の奥が温かくなる感じがした。

 母は元気だろうか、と張順が杯をちびりとやった。

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