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矜持

 突然の訪問者に、鄭居忠は驚いた。

 東京開封府の邸宅である。そこへ韓存保がやってきたのだ。

「梁山泊討伐に加わっていたと聞いていましたが」

 その言葉に、韓存保は渋い顔を見せた。そしてここに至った経緯を、静かに語った。

「貴殿にお話しするのが、一番と思いまして」

 鄭居忠は腕を組み、唸った。心中では、頼られて嬉しいという思いと、厄介な事になりそうだという相反する思いが渦を巻いていた。

 しかしほかならぬ韓存保である。無碍にする訳にはいかなかった。

 鄭居忠は、韓忠彦という元太尉の門下であった。家塾の教師に過ぎなかった彼の才を見込んでくれた。そして鄭居忠は、いまでは御史大夫にまでになったのだ。

 韓存保は、その韓忠彦の甥なのである。だが鄭居忠と韓忠彦のつながりを知っていて、という訳ではないようだ。知っているからこそ、却って話し難かったのだろう。鄭居忠も韓存保を知っている。そういった駆け引きを嫌うような、実直な軍人なのである。

 だからこそ、その問題は大きかった。

 梁山泊は、実は招安を望んでいるという。頭領である宋江本人が、そう言ったというのだ。

 鄭居忠は唸り続ける。

 自分は、百官の不正を取り締まる御史大夫。たとえそれが宰相の蔡京であっても、だ。

 知ってしまったからには、動かねばなるまい。

 尚書を伴い、鄭居忠は宰相の元を訪れた。

 蔡京は静かに鄭居忠の言葉を聞いていた。皺の奥の瞳に、妖しい光が湛えられているように見えた。

 いつも思う。この老人は、はたして本物の化生の者なのではないかと。

「しかるに、宰相さまがお付けになりました、張という幹鞭が、居丈高な態度で招安に水を差したと。その張という者はおりますかな。よければ話を聞きたいのですが」

「おらぬよ」

「おらぬ、とは」

「その話は、勅使の陳宗善からも聞いていた。だから処断したのだ。勅使の助けになれば、と送ったのだが。わしの目が節穴だったようだ。反省しておるよ」

「処断、ですと」

 ああ、と言いながら蔡京が黄色い歯をのぞかせて微笑んだ。

 鄭居忠は胃の中がねじくれるような感じを覚えた。

 蔡京の指示通りにした張は意気揚々と帰還したに違いない。まさかそのまま殺されるとも知らずに。

 やはり化け物だ。この男は。

「丁度、高太尉からも使いが来ておってな。招安の件と、合わせて奏上するとしよう。それで良いかな、鄭どの」

 良いも悪いもないではないか。黙って頷くしかなかった鄭居忠。

 蔡京の元を辞した鄭居忠は、軽い眩暈を覚えた。

 

 高俅は、安仁村に住む聞煥章という人物を参謀として送るように言ってきた。

 宿元景が、彼を迎えに行く役に手を上げた。訝しんでいた蔡京は知らない事だったが、二人は旧知の間柄であった。

「徐京本人ではないが、話を聞いてくれるかな、聞煥章どの」

「これはこれは、太尉自らがおいでいただけるとは、感激の至り。狭いところですがどうぞお上がり下さい」

 配下を外に残し、宿元景が客間に通された。二人は卓を挟んで座る。顔を見合せた後、笑い声が響いた。

「すまんすまん、聞煥章。他の者の目があったのでな」

「笑いを堪えるのに必死でしたよ。どの、などとむず痒くて仕方がない」

 宿元景が茶で喉を湿らせた。

「わしが来た訳は、分かっているな」

「ええ。いま戦っている高太尉の下で軍師をせよと言うのでしょう」

「高太尉から、そう通達があってな」

「私の存在を吹きこんだのは、徐京ですね。二度と関わらないと誓った記憶があるのですがね」

「それで腹いせに断ったのか」

 にこりと微笑み、聞煥章はそれを返事とした。

 聞煥章と宿元景は友だった。

 だがかつて徐京の逃亡に手を貸してしまった事から、聞煥章の命も危ういものとなった。

 そこで聞煥章のために奔走したのが宿元景だった。あらゆる手を回し、聞煥章を救った。そして聞煥章は、この村で静かに余生を送るものとなったのだ。

「まあ、ご覧の通り、隠棲の身です。この村で娘の成長を楽しみに、静かに暮しますよ。それを直接言いたかったのです」

「いいのか、それで。この村が悪いという訳ではない。だがこのまま埋もれてしまってよいのか、聞煥章」

 む、と聞煥章が言葉に詰まった。

 普段は訪ねて来ても、茶飲み話程度なのに、今日はやけに焚きつけるではないか。

 聞煥章も思うところはあった。若い頃から六韜三略(りくとうさんりゃく)を始め、古今の兵法を学んだ。武芸はできないが、知略では誰にも負けない自負があった。

 仕えるべき者を探し、各地を放浪した。だが聞煥章を満足させられる者はいなかった。

 やがて隠遁したことを機に、すっかりそういう想いとは決別してしまっていた。

 と思っていた。いまのいままで、宿元景に言われるまでは。

「ふふふ、焚きつけないでくれ。私もいい歳です。あの頃のような真似は、もうできんさ」

「姜子牙が文王に仕えたのは、もっと歳を重ねていたではないか。それに比べれば、お主などまだまだ若造だよ」

「どうしたというのです、宿どの。なぜ、今日はそんなにも」

 と言ったところで、聞煥章が何かに気付いた顔をした。

「梁山泊、ですね」

 高俅の軍師をさせることが目的ではない。宿元景は、むしろ高俅を含む宰相の一派とは犬猿の仲である。とすれば、宿元景訪問の意図は梁山泊にかかわるものだ。

 今度は宿元景が黙って頷いた。

 もう一度、茶を流しこみ、語る。

 華州にて梁山泊と、その頭領である宋江と出会った話だ。

 国を救いたいと語った宋江を、宿元景はいまだ忘れられない。その真剣な目は、いまの奸臣ではない者の中でも、ついぞ見た事のない真剣な眼差しだったからだ。

「高俅の参謀など、不本意なのは承知だ。だが、梁山泊を計れるのはお主をおいておらぬのだ」

 聞煥章は友の顔を優しい目で見た。だが困惑の色も見てとれた。

 もう一つ、理由がある。宿元景が言う。

「お主がこのまま埋もれてゆくのを、わしは黙って見ておれぬのだ」

 その言葉に、聞煥章は本当に嬉しそうな顔をした。

「そこまで言われてしまえば、承諾するしかありません。分かりましたよ」

 まったく素直ではない。宿元景は苦笑した。

 もし聞煥章がここで断れば、宿元景の経歴に傷が付いてしまう。そうすれば宿元景が邪魔で仕方がない蔡京にとっては願ったりだ。

 そこまで読んでいるのだろうか。自分が来たことにより、聞煥章に余計なことを考えさせてしまったのではないだろうか。

 そんな心配を余所に、聞煥章は満更でもない様子だった。

「勝てる、と断言はしませんよ。ただし私も全力を尽くして、宿どのの期待に応えます」

「ありがとう」

「お礼を言いたいのは私の方です」

 ぼそりと聞煥章が呟いた。

 聞こえていたかどうかは定かではない。

 だが宿元景はそれ以上何も言わず、湯呑みに手を伸ばした。

 高俅の元へ、牛邦喜が戻った。

「首尾はどうだ」

 問われた牛邦喜は淡々と報告をする。なんと近隣の州からも、合わせて千五百余艘の船を徴発できたという。

 先の水戦でおよそ五千の船は失った。それを補充するには足りないが、この短い間にしては上出来だと、高俅は思う。

 その結果さえあれば良い。どう徴発したかなど高俅は問わないし、知ろうとも思わない。

 開封府からはまだ返事がこないが、すぐに戦の準備をさせた。

「参謀が、聞煥章が来てからでも遅くないのでは」

 と進言する徐京に、

「お前が推薦するから使者を送ったのに、一度断られたではないか。本当に来るのか、その男は。それに軍師たり得る実力を持っているのか。聞煥章などと言う名は、聞いたこともないのだが」

 と言う高俅の言葉に黙るしかなかった。王煥も徐京と同じく、性急な戦を思いとどまらせようとした。

 しかし、

「軍師とやらが来ようが来まいが、全権はわしにある」

 と言う高俅に、それ以上何もできなかった。

 王煥は一抹の不安を覚える。いまの言葉通り、軍師が進言しようと聞く耳を持たないのではないか。

 確かに裸一貫で成り上がったという高俅らしい言葉ではあった。おそらくそれは自身を信じ続けて成功した、高俅の信条なのだろう。

 王煥は徐京を見る。

 その軍師というのは、本当にひとかどの人物なのだろうな。

 無言の問いかけに、徐京は力強く頷いた。

 ならば今は高俅に従うしかあるまい。その軍師が来てくれることを祈るだけだ。

 そこへ劉夢竜が進み出た。

「次こそは必ず勝ってみせます。どうか軍に加えていただきたいと」

「あれほどの負けを喫しておいて、まだ言うか」

「はい。なにとぞ」

「良いだろう。負けたとは言え、あの湖の経験は生かせるだろう。ただし、牛邦喜を水軍統制とする。劉夢竜、お主と党世英は牛邦喜を補佐せよ」

「ははっ」

 劉夢竜は必死だった。

 高俅の使い走りのような男の下にされたが、なんとか梁山泊に一矢報いなくてはならない。

 宋水軍ここにありというところを知らしめなければならないのだ。

 牛邦喜がふんぞり返って出ていった。

 王煥はそれを、毒虫を見るような目つきで見ていた。

 

「おい、また逃がしちまったのかよ」

 阮小五が憤慨していた。横では阮小七も同じ表情をしている。

「小二兄、何とか言ってやってくれよ。俺たちの手柄なんだぜ」

 腕を組み、阮小二は目を瞑っている。

 小五と小七が言っているのは高俅軍の将、党世雄の事だ。水軍が捕らえたのだが、韓存保という将とともに、解放されてしまったのだ。

 裴宣は、きちんと論功行賞に記す、と言っているが、そうではないのだ。

 うまく言葉にできないが、褒美だとかそういうものではないのだ。

 宋江が単なるお人好しでないことは分かっているつもりだ。だが小五、小七と同じように阮小二も、晁蓋と比べてしまうのだ。

「分かった」

 とだけ言い、小二は二人の元を去った。

 忠義堂へ行く前に、李俊を訪ねた。水軍の頭領である李俊に話を通しておこうと思った。

「俺も行こう」

 真剣な顔で李俊が言った。

 忠義堂には宋江をはじめ呉用、盧俊義がいた。

「どうしたのです、李俊」

「せっかく捕らえた敵将を解放され、あいつらは不満だとさ」

 宋江はそれに答えない。李俊は続けた。

「招安を受けようとした事で、あんたへ疑問を持ち始めている連中がいる」

 李俊が一歩、宋江へと近づく。

 混江竜と呼ばれ始めた当時の目になっていた。

「晁蓋どのはあくまでも国と戦うと宣言していた。あんたは、国を救うと言っている。一体、どうやって救うというのだ。具体的な方法はあるのかい。理想だけでは駄目だということは、あんたもよく知っているだろう」

 呉用が李俊の前に出た。

「いまは高俅軍と戦の最中。集中しなければならないのです」

「戦の最中、だからこそなんだよ。これ以上、兵たちの心の乱れが大きくなれば、どうなるか分かるだろう。ちゃんと言葉にしてほしいんだ。ちゃんとあんた自身の言葉ではっきりと伝えなくては駄目なんだ」

 反論しようとした呉用を、宋江が止めた。盧俊義は、宋江をじっと見つめている。

 宋江は心なしか笑みを浮かべていた。

「よい、呉用」

「しかし」

「お主は変わっておらんな、李俊。潯陽嶺で出会ってから」

 宋江がほのかに嬉しそうな顔をしていた。戸惑いながらも李俊は答えを求める。

「わかりました。高俅との戦に勝ってから、皆に伝えるつもりでしたが」

 宋江が立ちあがり、頭目たちを招集しようとした。

 そこへ伝令が駆けこんできた。

 高俅軍、進軍。再び水路を遡上中、と。

 呉用が宋江に確認し、応戦の命令を発した。

 宋江が李俊を見つめた。仕方ない、と李俊が無言で返す。

 宋江、呉用が出ていき、盧俊義も立ちあがった。李俊が盧俊義を呼びとめた。

「何か」

「盧俊義どの、あんたは晁蓋どのと友人だったんだろ。良いのかい」

「お主は、たとえば阮小二が言ったことを、何でもその通りだと受け止めるのか」

「なるほどな」

 李俊はみなまで聞かない。そして盧俊義もみなまで答えない。二人は意味ありげな笑みを浮かべるだけだった。

「すまん、阮小二。俺たちも行こう」

 何か言いたげな顔をする阮小二に、

「宋江どのは約束を守ってくれるさ」

 と笑った。

「わしはお主を信頼しているよ、李俊。それだけだ」

 忠義堂を飛び出す。梁山泊が慌ただしくなっていた。

 眼下に見える湖面には、すでに戦船が準備されていた。

「もちろん、あいつらもな」

 阮小二が、やっと笑みを見せた。

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