108 outlaws
矜持
二
梅展と張開は、奇妙な光景に出合った。
大きな黒馬が背に人を横たえさせ、闊歩していた。そしてそのやや後ろに、たくさんの兵が行進していたのだ。
梅展と張開が口を半開きにし、顔を合わせた。
これは、何だ。何を見ているのだ。
だが次の瞬間、目の前の兵たちが梁山泊軍である事に気付いた。黒馬の後ろの馬にも、人が寝かせられていた。それが韓存保だったからだ。
韓存保の顔は赤紫に腫れあがり血に塗れているが、辛うじて息をしているのが分かった。
梅展と張開が得物を抜き放つ。張開が馬を飛ばした。だが背後で梅展の悲鳴が聞こえた。
梅展が、馬から落ちそうになっていた。顔を覆う手の隙間から、血が流れていた。
「龔旺、丁得孫。呼延灼どのとこいつを頼んだぞ。必ず本寨へ」
張清が叫ぶ。
「わかったぜ、大将。おい手前ら」
龔旺の指示で、梁山泊軍が速度を上げ、その場から離れる。
張清の礫を喰らった梅展は、まだ呻いていた。張開は弓を取り出し、即座に構えた。
「項元鎮ほどの腕じゃあねえが、喰らえ」
矢が放たれる寸前、丁得孫が飛叉を放った。張開が体勢を崩し、矢の狙いは張清から外れた。だが矢は馬の首元に突き立った。
馬が暴れ、張清が振り落とされる。
もっけの幸い、と襲いかかる張開。
「大将」
丁得孫の声がした。馬がこちらへ駆けてくる。丁得孫の馬だった。
「お前はどうするのだ。無茶をするな」
「無茶は大将の方です。こっちは大丈夫ですから」
と飛叉の鎖を引き戻し、その勢いで張開を攻撃する。張開がそれを避けようと馬を止めた。その隙に、張清は新しい馬に飛び乗った。
「すまん、丁得孫。あとは」
頼んだぞ。
と、張開に向きなおる。
「大した将ではなさそうだが、名前だけは聞いておいてやる。この独行虎(どっこうこ)の張開さまに討ち取られることを名誉に思えるようにな」
「あんた独行虎ってのか、奇遇だな。あいつらも虎なんだぜ」
龔旺と丁得孫を顎でしゃくってみせる。
「あいつらの事など聞いてはいない。名乗らぬまま死にたいようだな」
「ああ、勝手にするさ」
張清は右手を腰の袋に添えた。だが近すぎる。礫を放てる距離ではない。張清は槍を手に、張開とぶつかった。
数合、打ち合った。どうやら張開の刀の方が上のようだ。
龔旺たちの方へ、回復した梅展が向かっていた。
このままではまずい。
張清は左手で槍を持ち、突きを放った。片手での槍は、明らかに威力も速度も落ちる。
苦し紛れの奇策か。張開は思い、これを好機と見た。
だがそれは違った。いや、奇策には違いなかった。張清の右手から、ほんの少し遅れて礫が放たれていたのだ。
のけぞるようにして槍と礫をかわした。そして上体を戻した時、目の前の張清はそこにいなかった。
張清は売店に向かって馬首を返していたのだ。
張開はすぐにそれを追った。
梅展の隊が韓存保を奪い返すのが、遠目に見えた。よし、あとは礫野郎を仕留めるだけだ。張開が馬の腹を蹴った。
一陣の風が吹き抜けた。張開にはそう思えた。
騎馬隊だった。梁山泊の旗印が幾つも目の前を過ぎてゆく。
韓存保は、再びその騎馬隊に奪われた。梅展も手を出せぬまま、彼方へと運び去られてしまった。
騎馬隊の後方を一騎が、ゆっくりと歩いていた。まるで戦場ではないかのような馬の歩みだったが、馬上の将はしっかりと張開を見据えていた。
かつては山賊として暴れ回り、独行虎という渾名を持つ張開が、ぞくりとするような視線だった。
馬上の将、それは関勝であった。
騎馬隊を指揮していた郝思文が大きく迂回し、関勝の元へと戻ってきた。
「呼延灼どのは意識を失っておりますが、命に別条はないようです。あとは張清たちに任せておけば安心でしょう」
うむ、と満足そうに関勝が呟いた。
ぎろりと張開が目を剥いた。梅展も部隊を合流させ、横に並ぶ。
「無事か、梅展」
「ああ。忌々しい山賊どもめ」
梅展はいささか興奮しているようだ。
「だが奴らは失策をした。いま来た騎馬隊の三分の一ほどを、礫野郎の護衛に回してしまったことだ」
「なるほど。我らを見くびっているようだが、それが命取りとなったか」
「違いない」
梅展と張開が兵を率い、突っ込んでくる。関勝の隊は、およそ半数といったところだ。数に物を言わせようというのだろう。
関勝と郝思文が二手に分かれ、それを避ける。そして直接ぶつからずに、攻撃をしては離れて防御に徹し、また敵の隙を突いてそれを繰り返す。
徐々に張開が苛立ってきた。ちょこまかと逃げ回りおって。
梅展は辛うじて冷静さを保ちつつ、隊を動かしてゆく。しかし一向に敵将の首どころか、梁山泊軍を減らすこともできないでいた。圧倒的に有利な兵数であるのにだ。
すると右軍の方が乱れた。右軍の半数ほどが倒されたという報告が入る。その後も次々と、各隊の長が討たれていった。
梅展らの目の前に、郝思文の隊が現れた。防御態勢を取るが、刃さえ向けずに駆け抜けていった。
「あいつら、もう我慢ならん」
憤り、追おうとする張開。
まて、と梅展が止めた。
「もしや」
「何だというのだ、梅展。これだけやられているのだぞ。まだ数で勝(まさ)ってるとはいえ」
「それだ、張開」
討たれた将の名を、討たれた順に思い出してゆく。
そして結論に思い至り、顔を青ざめさせた。
「急いで兵を集めろ。固まるのだ」
梅展は戦鼓を鳴らさせ、隊を密集させてゆく。
集まった兵数は、関勝の隊と同じほどになっていた。
どうして、という顔の張開に梅展が言う。
討たれた将は五名ほどだった。それは率いてきた兵の中でも能力のある、上から五人だ。
数で劣る敵は、こちらの強いところを的確に、ひとつひとつ潰していったのだ。そしてひとりの将が討たれた損害は、決してひとり分ではないのだ。
「まさか。偶然だろ」
「俺もそう思いたい。だが」
それ以上は言い淀み、歯嚙みをする梅展。
梁山泊軍は整然と動き、張開らを取り囲むように布陣した。
関勝と郝思文が、正面に現れた。
これで互角か。ならばまだ勝機はある。梅展はそう考えた。しかし、その考えをすぐに取り消した。
囲んでいる梁山泊軍の方が、明らかに多いのだ。梅展の頬に汗がひと筋流れた。
「おのれ、謀ったな」
「面白い冗談を言う」
関勝が赤兎馬を止め、官軍を見据えた。
「これは戦。謀る、謀らぬなどと、何を今さら」
言葉に詰まる梅展。正論だ。
郝思文の隊は、張清について行ったのではない。梅展にそう見せておき、戦闘が始まると少しずつ戻ってきていたのだ。
「さて、決着といこうか」
関勝が渾名の由来ともなった大刀を脇に挟んだ。
それは何気なく行った動作だった。だが無駄のなさ、隙のなさを感じさせ、関勝の強さがそれだけで充分に伝わるものだった。
駆けまわっている副将の方に気を取られていたが、お飾りの大将ではなかったという訳か。
「梅展」
「うむ」
張開が囁き、目で合図をした。梅展も分かっていた。敵陣に一か所、突破できそうなところがあるのだ。
これも誘いか。いや、しかしこのままでは全滅である。
梅展の号令で、官軍が一気に駆けだした。梁山泊軍の一点に向かって突進する。
官軍は、特に苦戦することなく包囲を突破した。そしてそのまま済州に向けて駆けた。
梁山泊軍は梅展らを追ったが、済州城が見えた辺りで引き返していった。
小高い丘の上で、関勝と郝思文がその様子を見ていた。
「呼延灼どのは、張清と共に本寨へ着いたとの事です」
「うむ」
郝思文の報告に、関勝が頷く。
「見事だったな」
丘からの去り際、関勝がぽつりと漏らした。
その言葉は、張清に向けられたものなのか、自分へなのか。また呼延灼の事なのか。
いや、違う。誰に向けられた言葉か、どうでもよいではないか。
自分に対してではなかったら、どうだというのか。
首を振り、迷う事をやめた。
郝思文は関勝を追い、丘を駆け下りた。
「なあ、兄貴」
「何だ、慶」
蔡慶が眉間に深く皺を刻み、兄の蔡福をすがるように見る。
「何とかならねぇのかよ、あいつ」
「わかっている。わしも、そろそろ我慢の限界なのだ。だが」
そう言って、困った表情で牢の奥を見る。
そこは灯りもなく、暗い闇だけが佇んでいた。その暗闇の中から声が聞こえてくる。
怒りとも、恨みとも、悲しみともとれる声が聞こえてくる。
殺せ。殺せ。殺せ。
早く、殺せ。殺せ。殺せ。
声の主は、韓存保であった。
安道全の治療を受けた後、牢へ入れられた。その時はまだ意識がなかったのだが、目覚めた途端に騒ぎ出した。捕囚となってまで生きながらえたくはない。とっとと殺せ、と喚き散らし出したのだ。
蔡兄弟はもちろん、他の囚人たちも困り果てた。
どこにそんな体力があるのか、というほど昼夜問わず叫び続けている。
やがて梁山泊は自分を殺す気はないと知った。すると韓存保はこれまでが嘘のように静かになった。そして叫び声の代わりに、大きな衝撃音が何度も聞こえてきた。
何事かと駆けつけた蔡慶は、思わず後ずさった。
頭から血を流した韓存保が倒れていた。牢内の壁が崩れている箇所があった。自らの頭を何度も打ちつけたのだ。自ら死のうとしたのだ。
「馬鹿野郎が」
唾を吐き捨て、蔡慶が飛び込む。辛うじて脈はあった。命果てる前に、意識を失ってしまったのだろう。
それから韓存保は縄でしっかりと縛られ、猿轡(さるぐつわ)をされた。
それでも聞こえてくる気がするのだ。
韓存保の、殺せという声が。
ゆらりと蔡慶が立ちあがった。
「おい、慶」
蔡福の声は聞こえないのか、蔡慶はふらふらと牢の奥へと歩いてゆく。
「そんなに言うなら、願いをかなえてやろうぜ、兄貴」
「待て」
と慌てて追う蔡福。
「わしたちの仕事は、ただ殺す事ではない。罪を犯した者を、罰するのが本分だ」
「大丈夫さ。自然に死んだように見せる方法は、知ってる」
虚ろな笑みを浮かべる蔡慶。
駄目だ。蔡福は思う。
ここは北京大名府ではない。ここには神医が、安道全がいるのだ。死因など、ひと目で知れてしまう。
「蔡福、蔡慶」
ふいに声が、背後からした。裴宣が、そこにいた。
「韓存保を牢から出す。宋江どのの元へ」
その言葉に、二人が安堵の表情を浮かべた。蔡福と蔡慶、それぞれ理由は違ったようだが。
宋江の前で、韓存保は縄を解かれ、猿轡を外された。
言葉が出なかった。頭領に会ったならば、梁山泊の非道ぶりをあげつらうつもりでいた。もちろん命など捕らえられた時から捨てている。
だが、これはどういう事だ。
「話があります」
宋江は真剣な顔で、静かに話し始めた。
逆賊の話など聞けるものか。はじめはそう思っていた韓存保だったが、話が進むにつれ、身を乗り出すようになってしまった。
梁山泊は、招安を望んでいる、というからだ。
「馬鹿なことを言うな。現に招安の使者を追い返しているではないか」
「その使者に問題があったからです」
聞けば、使者の陳宗善はともかく、張幹辦という者がすこぶる無礼だったというのだ。確か、蔡京が無理やりついて行かせた男だったはずだ。
詔書の文言も、梁山泊を見くびる内容で、さらに御酒というのは名ばかりで中身は田舎で飲めるような濁酒(どぶろく)だったというのだ。
さすがの韓存保も黙るしかなかった。
それが本当ならば、梁山泊の連中が怒るのも当然と思えた。語る宋江の目は、嘘ではないと告げている。
確かに、宰相(さいしょう)の蔡京は梁山泊に恨みを持っているという噂だ。
生辰綱を奪った晁蓋がいたのだ。さらに息子の蔡得章が治める江州を、梁山泊に散々荒らされてしまったのだ。まさか、招安を受けぬように仕向けたのでは、と勘繰ってしまう。
宋江は真摯な態度で韓存保に酒をもてなし、済州へ送り返した。先に捕らわれていた党世雄も一緒だった。
帰還した韓存保は、招安の件も含め、事の次第を高俅に報告した。
だが高俅は聞く耳を持たず、韓存保と党世雄を斬り捨てようとした。士気を鈍らせようとする敵の計略だというのだ。
ほかの節度使たちや部下たちが必死になだめ、二人は斬首を免れた。ただし官位を剥奪され、東京開封府へと送り返されることとなった。
護送車の中で遠ざかる済州城を見ていた韓存保は目を瞑り、大きく息を吐いた。
宋江が言っていた事。
それが何度も何度も繰り返し聞こえてくるようだった。