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矜持

 梅展と張開は、奇妙な光景に出合った。

 大きな黒馬が背に人を横たえさせ、闊歩していた。そしてそのやや後ろに、たくさんの兵が行進していたのだ。

 梅展と張開が口を半開きにし、顔を合わせた。

 これは、何だ。何を見ているのだ。

 だが次の瞬間、目の前の兵たちが梁山泊軍である事に気付いた。黒馬の後ろの馬にも、人が寝かせられていた。それが韓存保だったからだ。

 韓存保の顔は赤紫に腫れあがり血に塗れているが、辛うじて息をしているのが分かった。

 梅展と張開が得物を抜き放つ。張開が馬を飛ばした。だが背後で梅展の悲鳴が聞こえた。

 梅展が、馬から落ちそうになっていた。顔を覆う手の隙間から、血が流れていた。

「龔旺、丁得孫。呼延灼どのとこいつを頼んだぞ。必ず本寨へ」

 張清が叫ぶ。

「わかったぜ、大将。おい手前ら」

 龔旺の指示で、梁山泊軍が速度を上げ、その場から離れる。

 張清の礫を喰らった梅展は、まだ呻いていた。張開は弓を取り出し、即座に構えた。

「項元鎮ほどの腕じゃあねえが、喰らえ」

 矢が放たれる寸前、丁得孫が飛叉を放った。張開が体勢を崩し、矢の狙いは張清から外れた。だが矢は馬の首元に突き立った。

 馬が暴れ、張清が振り落とされる。

 もっけの幸い、と襲いかかる張開。

「大将」

 丁得孫の声がした。馬がこちらへ駆けてくる。丁得孫の馬だった。

「お前はどうするのだ。無茶をするな」

「無茶は大将の方です。こっちは大丈夫ですから」

 と飛叉の鎖を引き戻し、その勢いで張開を攻撃する。張開がそれを避けようと馬を止めた。その隙に、張清は新しい馬に飛び乗った。

「すまん、丁得孫。あとは」

 頼んだぞ。

 と、張開に向きなおる。

「大した将ではなさそうだが、名前だけは聞いておいてやる。この独行虎(どっこうこ)の張開さまに討ち取られることを名誉に思えるようにな」

「あんた独行虎ってのか、奇遇だな。あいつらも虎なんだぜ」

 龔旺と丁得孫を顎でしゃくってみせる。

「あいつらの事など聞いてはいない。名乗らぬまま死にたいようだな」

「ああ、勝手にするさ」

 張清は右手を腰の袋に添えた。だが近すぎる。礫を放てる距離ではない。張清は槍を手に、張開とぶつかった。

 数合、打ち合った。どうやら張開の刀の方が上のようだ。

 龔旺たちの方へ、回復した梅展が向かっていた。

 このままではまずい。

 張清は左手で槍を持ち、突きを放った。片手での槍は、明らかに威力も速度も落ちる。

 苦し紛れの奇策か。張開は思い、これを好機と見た。

 だがそれは違った。いや、奇策には違いなかった。張清の右手から、ほんの少し遅れて礫が放たれていたのだ。

 のけぞるようにして槍と礫をかわした。そして上体を戻した時、目の前の張清はそこにいなかった。

 張清は売店に向かって馬首を返していたのだ。

 張開はすぐにそれを追った。

 梅展の隊が韓存保を奪い返すのが、遠目に見えた。よし、あとは礫野郎を仕留めるだけだ。張開が馬の腹を蹴った。

 一陣の風が吹き抜けた。張開にはそう思えた。

 騎馬隊だった。梁山泊の旗印が幾つも目の前を過ぎてゆく。

 韓存保は、再びその騎馬隊に奪われた。梅展も手を出せぬまま、彼方へと運び去られてしまった。

 騎馬隊の後方を一騎が、ゆっくりと歩いていた。まるで戦場ではないかのような馬の歩みだったが、馬上の将はしっかりと張開を見据えていた。

 かつては山賊として暴れ回り、独行虎という渾名を持つ張開が、ぞくりとするような視線だった。

 馬上の将、それは関勝であった。

 騎馬隊を指揮していた郝思文が大きく迂回し、関勝の元へと戻ってきた。

「呼延灼どのは意識を失っておりますが、命に別条はないようです。あとは張清たちに任せておけば安心でしょう」

 うむ、と満足そうに関勝が呟いた。

 ぎろりと張開が目を剥いた。梅展も部隊を合流させ、横に並ぶ。

「無事か、梅展」

「ああ。忌々しい山賊どもめ」

 梅展はいささか興奮しているようだ。

「だが奴らは失策をした。いま来た騎馬隊の三分の一ほどを、礫野郎の護衛に回してしまったことだ」

「なるほど。我らを見くびっているようだが、それが命取りとなったか」

「違いない」

 梅展と張開が兵を率い、突っ込んでくる。関勝の隊は、およそ半数といったところだ。数に物を言わせようというのだろう。

 関勝と郝思文が二手に分かれ、それを避ける。そして直接ぶつからずに、攻撃をしては離れて防御に徹し、また敵の隙を突いてそれを繰り返す。

 徐々に張開が苛立ってきた。ちょこまかと逃げ回りおって。

 梅展は辛うじて冷静さを保ちつつ、隊を動かしてゆく。しかし一向に敵将の首どころか、梁山泊軍を減らすこともできないでいた。圧倒的に有利な兵数であるのにだ。

 すると右軍の方が乱れた。右軍の半数ほどが倒されたという報告が入る。その後も次々と、各隊の長が討たれていった。

 梅展らの目の前に、郝思文の隊が現れた。防御態勢を取るが、刃さえ向けずに駆け抜けていった。

「あいつら、もう我慢ならん」

 憤り、追おうとする張開。

 まて、と梅展が止めた。

「もしや」

「何だというのだ、梅展。これだけやられているのだぞ。まだ数で勝(まさ)ってるとはいえ」

「それだ、張開」

 討たれた将の名を、討たれた順に思い出してゆく。

 そして結論に思い至り、顔を青ざめさせた。

「急いで兵を集めろ。固まるのだ」

 梅展は戦鼓を鳴らさせ、隊を密集させてゆく。

 集まった兵数は、関勝の隊と同じほどになっていた。

 どうして、という顔の張開に梅展が言う。

 討たれた将は五名ほどだった。それは率いてきた兵の中でも能力のある、上から五人だ。

 数で劣る敵は、こちらの強いところを的確に、ひとつひとつ潰していったのだ。そしてひとりの将が討たれた損害は、決してひとり分ではないのだ。

「まさか。偶然だろ」

「俺もそう思いたい。だが」

 それ以上は言い淀み、歯嚙みをする梅展。

 梁山泊軍は整然と動き、張開らを取り囲むように布陣した。

 関勝と郝思文が、正面に現れた。

 これで互角か。ならばまだ勝機はある。梅展はそう考えた。しかし、その考えをすぐに取り消した。

 囲んでいる梁山泊軍の方が、明らかに多いのだ。梅展の頬に汗がひと筋流れた。

「おのれ、謀ったな」

「面白い冗談を言う」

 関勝が赤兎馬を止め、官軍を見据えた。

「これは戦。謀る、謀らぬなどと、何を今さら」

 言葉に詰まる梅展。正論だ。

 郝思文の隊は、張清について行ったのではない。梅展にそう見せておき、戦闘が始まると少しずつ戻ってきていたのだ。

「さて、決着といこうか」

 関勝が渾名の由来ともなった大刀を脇に挟んだ。

 それは何気なく行った動作だった。だが無駄のなさ、隙のなさを感じさせ、関勝の強さがそれだけで充分に伝わるものだった。

 駆けまわっている副将の方に気を取られていたが、お飾りの大将ではなかったという訳か。

「梅展」

「うむ」

 張開が囁き、目で合図をした。梅展も分かっていた。敵陣に一か所、突破できそうなところがあるのだ。

 これも誘いか。いや、しかしこのままでは全滅である。

 梅展の号令で、官軍が一気に駆けだした。梁山泊軍の一点に向かって突進する。

 官軍は、特に苦戦することなく包囲を突破した。そしてそのまま済州に向けて駆けた。

 梁山泊軍は梅展らを追ったが、済州城が見えた辺りで引き返していった。

 小高い丘の上で、関勝と郝思文がその様子を見ていた。

「呼延灼どのは、張清と共に本寨へ着いたとの事です」

「うむ」

 郝思文の報告に、関勝が頷く。

「見事だったな」

 丘からの去り際、関勝がぽつりと漏らした。

 その言葉は、張清に向けられたものなのか、自分へなのか。また呼延灼の事なのか。

 いや、違う。誰に向けられた言葉か、どうでもよいではないか。

 自分に対してではなかったら、どうだというのか。

 首を振り、迷う事をやめた。

 郝思文は関勝を追い、丘を駆け下りた。

「なあ、兄貴」

「何だ、慶」

 蔡慶が眉間に深く皺を刻み、兄の蔡福をすがるように見る。

「何とかならねぇのかよ、あいつ」

「わかっている。わしも、そろそろ我慢の限界なのだ。だが」

 そう言って、困った表情で牢の奥を見る。

 そこは灯りもなく、暗い闇だけが佇んでいた。その暗闇の中から声が聞こえてくる。

 怒りとも、恨みとも、悲しみともとれる声が聞こえてくる。

 殺せ。殺せ。殺せ。

 早く、殺せ。殺せ。殺せ。

 声の主は、韓存保であった。

 安道全の治療を受けた後、牢へ入れられた。その時はまだ意識がなかったのだが、目覚めた途端に騒ぎ出した。捕囚となってまで生きながらえたくはない。とっとと殺せ、と喚き散らし出したのだ。

 蔡兄弟はもちろん、他の囚人たちも困り果てた。

 どこにそんな体力があるのか、というほど昼夜問わず叫び続けている。

 やがて梁山泊は自分を殺す気はないと知った。すると韓存保はこれまでが嘘のように静かになった。そして叫び声の代わりに、大きな衝撃音が何度も聞こえてきた。

 何事かと駆けつけた蔡慶は、思わず後ずさった。

 頭から血を流した韓存保が倒れていた。牢内の壁が崩れている箇所があった。自らの頭を何度も打ちつけたのだ。自ら死のうとしたのだ。

「馬鹿野郎が」

 唾を吐き捨て、蔡慶が飛び込む。辛うじて脈はあった。命果てる前に、意識を失ってしまったのだろう。

 それから韓存保は縄でしっかりと縛られ、猿轡(さるぐつわ)をされた。

 それでも聞こえてくる気がするのだ。

 韓存保の、殺せという声が。

 ゆらりと蔡慶が立ちあがった。

「おい、慶」

 蔡福の声は聞こえないのか、蔡慶はふらふらと牢の奥へと歩いてゆく。

「そんなに言うなら、願いをかなえてやろうぜ、兄貴」

「待て」

 と慌てて追う蔡福。

「わしたちの仕事は、ただ殺す事ではない。罪を犯した者を、罰するのが本分だ」

「大丈夫さ。自然に死んだように見せる方法は、知ってる」

 虚ろな笑みを浮かべる蔡慶。

 駄目だ。蔡福は思う。

 ここは北京大名府ではない。ここには神医が、安道全がいるのだ。死因など、ひと目で知れてしまう。

「蔡福、蔡慶」

 ふいに声が、背後からした。裴宣が、そこにいた。

「韓存保を牢から出す。宋江どのの元へ」

 その言葉に、二人が安堵の表情を浮かべた。蔡福と蔡慶、それぞれ理由は違ったようだが。

 宋江の前で、韓存保は縄を解かれ、猿轡を外された。

 言葉が出なかった。頭領に会ったならば、梁山泊の非道ぶりをあげつらうつもりでいた。もちろん命など捕らえられた時から捨てている。

 だが、これはどういう事だ。

「話があります」

 宋江は真剣な顔で、静かに話し始めた。

 逆賊の話など聞けるものか。はじめはそう思っていた韓存保だったが、話が進むにつれ、身を乗り出すようになってしまった。

 梁山泊は、招安を望んでいる、というからだ。

「馬鹿なことを言うな。現に招安の使者を追い返しているではないか」

「その使者に問題があったからです」

 聞けば、使者の陳宗善はともかく、張幹辦という者がすこぶる無礼だったというのだ。確か、蔡京が無理やりついて行かせた男だったはずだ。

 詔書の文言も、梁山泊を見くびる内容で、さらに御酒というのは名ばかりで中身は田舎で飲めるような濁酒(どぶろく)だったというのだ。

 さすがの韓存保も黙るしかなかった。

 それが本当ならば、梁山泊の連中が怒るのも当然と思えた。語る宋江の目は、嘘ではないと告げている。

 確かに、宰相(さいしょう)の蔡京は梁山泊に恨みを持っているという噂だ。

 生辰綱を奪った晁蓋がいたのだ。さらに息子の蔡得章が治める江州を、梁山泊に散々荒らされてしまったのだ。まさか、招安を受けぬように仕向けたのでは、と勘繰ってしまう。

 宋江は真摯な態度で韓存保に酒をもてなし、済州へ送り返した。先に捕らわれていた党世雄も一緒だった。

 帰還した韓存保は、招安の件も含め、事の次第を高俅に報告した。

 だが高俅は聞く耳を持たず、韓存保と党世雄を斬り捨てようとした。士気を鈍らせようとする敵の計略だというのだ。

 ほかの節度使たちや部下たちが必死になだめ、二人は斬首を免れた。ただし官位を剥奪され、東京開封府へと送り返されることとなった。

 護送車の中で遠ざかる済州城を見ていた韓存保は目を瞑り、大きく息を吐いた。

 宋江が言っていた事。

 それが何度も何度も繰り返し聞こえてくるようだった。

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