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矜持

 のどかな村だった。

 子供らが笑顔で駆け回り、大人たちも実に朗らかであった。

 東京開封府の城外にある、安仁村である。

 このおだやかな村に、突如馬蹄の音が響いた。土煙を上げ、馬が村へ飛び込んできた。

 馬は止まらず、村道を駆ける。村人は慌てて子供らを抱きよせ、端に寄った。

 一体なにごとだ。山賊の襲来か。

 だが騎乗していたのは見慣れていた姿。それは宋軍の兵であった。

 馬は駆け続け、村の奥でやっと速度を緩めた。

 兵は、馬が止まり切らぬうちに飛び降り、今度はその脚で駆けた。そして一件の家に駆け寄ると、戸を乱暴に何度も叩いた。

「聞煥章、いるのだろう。高太尉のお召しだ。すぐに私と共に来るのだ」

 姿を見せたのは、いかにも書生といった、痩せた男であった。

 徐京が言っていた、聞煥章その人である。

 四十頃に見えるが年寄りにも見える、どちらともつかない雰囲気だった。所どころ交じる白髪がそう見せているのかもしれない。

 聞煥章は兵を見据え、言った。

「行きません」

 兵は虚をつかれたように、呆けた顔をした。

 すぐに顔を赤くし、叫ぶ。

「な、何を言っている。これは命令だ。とっとと」

「だから行かないと言っているのです。しつこいですね」

「しつこい、だと」

 兵の顔が赤黒くなる。その手が刀の柄に伸びた。

 聞煥章は平然としている。

「どうして私を呼んでいるのか、理由くらい教えてください」

 むう、と唸り、兵が仕方なく伝える。

「なるほど、徐京が私の事を。分かりました」

「分かってくれたか」

「はい。では、徐京が自ら呼びに来たならば、行きましょう」

 は、と兵が間の抜けた声を出した。

 次の瞬間、兵が刀を抜き放った。

「貴様、愚弄するのもいい加減にしろ。来るのか、来ないのか。来ないならば、その首だけでも持っていってやる」

「愚弄などとんでもない」

 さあ、と兵が詰め寄る。すると聞煥章は首元を差し出した。

「この首でよければ、差し上げましょう。ただし任務を完遂できなかったあなたの首も、私の首と並ぶことになりますがね」

 さあ、と聞煥章がにじり寄る。兵は、青ざめた顔で嗚咽を漏らす。

「くそっ、徐京どのだな。徐京どのが来れば良いのだな」

 くそっ、ともう一度吐き捨てると、兵は刀を乱暴に鞘へ納め、馬に飛び乗った。

 馬蹄の音がすぐに聞こえなくなる。

 高太尉。梁山泊、か。

「覚えていてくれたのはありがたいのだがな、徐京よ」

 大きなため息をつき、聞煥章が戸を閉めた。

 確かにもう巻き込まないとは誓ったし、そう思っていた。

 しかし、窮地の時には駆けつけてくれるだろうとも、心のどこかで思っていた。

 甘かったか。聞煥章よ。

 やはり自分が迎えに行かねばならないのか。徐京はそう思ったが、それは果たせなかった。

 梁山泊の襲撃があったからだ。

 梁山泊の先頭の将、呼延灼を見て、高俅が吠える。

「のこのこと姿を見せるとは度胸があるな。誰か、あの裏切り者を討って来い」

 それに応じたのは韓存保であった。

「我が名は韓存保。ようやく戦えて嬉しいぞ。もと官軍として、せめてもの情け。わしが引導を渡してやろう」

 雄叫びをあげ、韓存保が馬を駆けさせる。

「情けをかけられる覚えなどないがな」

 呼延灼と韓存保が正面からぶつかった。

 呼延灼は二本の鞭、そして韓存保は鉄の戟である。並の兵ならば弾け飛んでいるほどの打撃だった。だが韓存保はしっかりとそれを受け止めていた。

 同時に馬を下げ、距離を取る。

 韓存保が睨みつける。呼延灼は静かに目で受け止める。

「何故だ」

 低く、韓存保が言う。

「何故、山賊の仲間になどなった。わしが聞いていた、誉れ高き忠臣というお主の名声はなんだったのだ」

 呼延灼は答えない。

 踢雪烏騅がゆっくりと、韓存保の周りを回る。韓存保も馬を歩かせる。届くか届かないか、微妙な間合いがしばらく続いた。

 たまりかねた韓存保が、距離を詰めようとした時だ。

「知りたいか」

 呼延灼の言葉に、思わず馬を止めてしまった。そこへ呼延灼が一気に詰め寄ってきた。

 しまった。機を外された。

 唸りを上げて迫る鞭。韓存保は、それでもなんとか戟を引き寄せ、それを防いだ。

 体の芯にまで衝撃が走った。目眩がするほどだった。

 馬ごとよろける韓存保に、さらに呼延灼が迫る。

「知りたくば、わしを倒してみろ、韓存保」

 誰もが、韓存保の敗北を予感した。

 だが、すでに自身でさえ負けを確信していた韓存保は、その言葉で蘇った。

 呼延灼の鞭を弾き返し、体勢を整える。

 背筋を伸ばし、戟の先を呼延灼に向けた。

 およそ宋の軍人ならば、呼延灼という名に憧憬を抱いている。

 梁山泊討伐の際、韓滔と彭玘という名も知らぬ将が招聘されたことに、韓存保は恨み、そして羨(うらや)んだ。

 だが、今。その呼延灼に名を呼ばれた。叛徒となってしまったが、呼延灼への憧れはやはりあったのだ。

 純粋に、嬉しかったのだ。そして、このまま終わる訳にはいかないと思ったのだ。

 再び対峙する二人。

 馬が駆け、呼延灼と韓存保が再びぶつかった。

 それを合図に、両軍もぶつかり、乱戦となった。

 呼延灼と韓存保は、戦場の中央から徐々に離れてゆく。梁山泊軍を指揮するのは、二人の将だ。揺れるのは韓の旗と、彭の旗。あれが韓滔と彭玘か。

 呼延灼はそちらを見もしない。よほど信頼を置いているということか。

 歯噛みをし、韓存保は腹を決めた。

 二騎がさらに離れてゆく。

 駆けながら打ち合い、また離れる。それを何度か繰り返した。

 いつの間にか、谷らしき場所へ来ていた。

 ここで韓存保が気付く。誘い込まれたのだ。

 ゆっくりと迫る呼延灼。

 右は遥かにそびえる山肌。左は谷川だ。

 韓存保が静かに息を整える。

 呼延灼の愛馬、踢雪烏騅が一歩近づいた。その蹄を地面につける前に、韓存保が仕掛けた。

 猛烈な風を巻きこみ、戟が突き出された。

 だが、渾身の突きを呼延灼がかわした。そして脇の下を通り抜ける戟を、左の腕で抱え込んでしまった。

「しまった」

 思わず声を漏らした。

 そこへ轟という音とともに、鞭が突き出された。

 韓存保は避けた。韓存保自身が驚いた顔をした。だがすぐさま鞭を、同じく左腕で抱えこむ。

 ぴたりと両者の動きが止まった。押しても引いても、互いが互いの得物を捕らえており、動くことができなかった。

 呼延灼と韓存保の力は、ほぼ互角。だがその拮抗を崩したのは、馬の差だった。

 体力も尽きたのだろう。韓存保の馬がふらついた。そして道から足を踏み外してしまったのだ。

 そのまま馬もろとも韓存保は谷川へと落ちてゆく。

 そうなるはずだった。

 しかし韓存保の腕は、しっかりと呼延灼の鞭を抱え込んだままだったのだ。

「何だと」

 これには呼延灼の方が驚いた。左に抱えた戟を離す余裕もないまま、韓存保に引っ張られる形で、共に落下した。

 幸いにも、川は膝よりも浅かった。

 呼延灼と韓存保が、濡れながら同時に立ちあがった。二人とも、得物は手を離れていた。

 韓存保の拳が握られた。

 呼延灼も拳を握った。

 拳で、勝てるのか。相手は自分よりも若く、膂力も相当だ。

 武松や魯智深のような剛力はない。燕青や焦挺のような技もない。だがやるしかない。

 二人は川の中で、立ち止まったまま殴り合った。

 骨を打つような鈍い音が響き、そのたび血の雫が舞った。呼延灼も韓存保も、鼻から口から流れる血を止めようともせず、ひたすらに殴り合った。

 韓存保の拳が、呼延灼の顎のあたりを打った。

 ぐらりと、呼延灼の体が傾いだ。だが膝が折れる寸前に足を踏ん張り、何とか倒れるのを堪(こら)えた。

 勝ったと思った韓存保は、それを見て愕然とした。

 まだ倒れないのか。力の勝負でも、勝てないというのか。

 しかしそれで精一杯のようだ。呼吸は荒く、拳を握ることさえできない。

 韓存保はとどめの一撃を加えるべく、腰を沈めた。

 張清が斥候を待っていると、そこに踢雪烏騅が現れた。

 しばし事態が飲み込めなかった。

 呼延灼が乗っていない。近くにもいない。まさか。

 そう思った時、踢雪烏騅が、ついて来いという風に馬首を返し駆けだした。

「追うぞ、龔旺、丁得孫」

 そして、見つけた。谷川の中で呼延灼と敵の将、韓なんとかと言ったか、が殴り合っているのを。

 張清は静かに、礫(つぶて)の袋へ手を入れた。敵将にも、呼延灼にも気付かれていない。

 あっ、と声を上げそうになった。

 敵の拳で、呼延灼が倒れそうになったのだ。だがなんとか堪えた。

 張清が構えた。この距離ならば外しはしない。しかし張清は、礫を放つことができなかった。

 離れたところで龔旺がもどかしそうに呟(つぶや)く。

「どうした大将。投げちまえよ」

「できないのだ。見ろ、呼延灼どのを」

 丁得孫の言葉にも、龔旺はどこか納得できないようだった。

 一同が見守るなか、呼延灼が一歩、前に出た。韓存保が、最後の力を振り絞る。先に動いたのは呼延灼だった。

 呼延灼の拳が、韓存保の鼻柱を砕いた。

 天を見上げるようにのけぞり、韓存保が血を吹いた。

 まだ、このような男がいたとは。官軍も捨てたものではないな。

 大きな水飛沫を上げ、韓存保が仰向けに倒れた。

「呼延灼どの、ご無事ですか」

 張清は、韓存保を縛るよう部下に命じると、呼延灼の元へ駆けた。

「張清か。わしは大したことはない。戦況はどうなって」

 そこまで言うと、ぐらりと呼延灼が膝を折った。

 だが倒れようとする呼延灼の下に、踢雪烏騅が潜りこんだ。巨躯を器用に動かし、呼延灼をその背に横たえさせてしまった。

「おい、大将。どうにかしてくれよ」

 近づこうとする龔旺たちに向かって、踢雪烏騅が歯を剥き出し威嚇した。

「分かった。呼延灼どのは、お前に任せる。それで良いな」

 張清がそう言うと、踢雪烏騅はゆっくりと歩き出した。

 龔旺と丁得孫が左右に付き、それを護衛する。

 梁山泊本寨への道を堂々と、踢雪烏騅が歩む。

 どうだ、これが己の主人だと言わんばかりに、踢雪烏騅が大きく嘶(いなな)いた。

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