小型船の舳先に仁王立ちになっている男がいた。

　じっとまだ見えぬ敵を待ちかまえている。

「おい疲れちまうぞ、魏定国。戦いまで体力を温存しとけって」

　胴の間から顔を出した劉唐を振り向きもせず、魏定国は前を向いていた。

「俺はこのままでいい」

「そうかい。じゃあ頼むぜ」

　そう言って劉唐が顔を引っ込めた。

　劉唐がいる胴の間には、粗朶や蘆が積みこまれていた。そしてその粗朶には硫黄や炎硝など引火物が振りかけられていた。

　魏定国はじっと船の上で待つ。

　梁山泊に来て、いまだ大したことはしていない。凌振に協力して、砲の改良を行ったくらいだろうか。

　だから今回、本来の騎兵としてではなく、水軍の裏方としてであっても、こうして己の技術を使える事が誇らしくもあった。

　頬に風が当たった。

　魏定国はにやりとしながら振り仰いだ。その目は梁山の頂上あたりに注がれていた。

　そこに公孫勝がいる。櫓の上で風の向きを変える祈りを行っていた。

　魏定国の目は、さらに中腹辺りへ。そこには砲がいくつも並べられていた。凌振が手ぐすね引いて、待ち構えているのだ。

　魏定国のは視線をゆっくりと戻し、再び前を見つめた。

　胴の間で、劉唐が思い返していた。

　敵船を火で焼きつくす。呉用の策を聞いた時、思わず叫びそうになった。嬉しくて、である。

　もう五、六年ほど前だろうか。黄安に率いられた官軍に対して使った策だった。

　やはり呉用は晁蓋を忘れてはいなかったと思った。

　ただ今回は規模が桁違いだ。あの時の火力の何倍も必要となる。一歩間違えれば、梁山泊を焼きつくしてしまいかねない。

　だから魏定国を用いることにした。神火将と呼ばれるほどの男だ。

　火は生きものだ。魏定国は言う。だがその性質を把握していれば、ある程度制御はできると。自信ありげな顔だった。

「おい魏定国、疲れちまうぞ。あんたが頼りなんだぜ」

　劉唐は同じ台詞を言った。

「わかったよ」

　魏定国はやっとそれに応じた。だが中には入らず、舳先に腰を下ろしただけだった。

　はっ、頑固な野郎だ。

　呆れたように劉唐が笑い、ごろりと寝ころんだ。

​

　ここまで上り詰めたぞ。

　これまで周囲の者どもに嘲笑されていたことは知っている。高俅の狗と呼ばれたこともある。

　力もない、知恵もない。それは自分が一番知っている。だからできることなら何でもやった。人が嫌がるようなことを進んでやった。

　高太尉も、裸一貫から成り上がった。それを見習っただけだ。

　便利な男と思われ、側においてもらえた。使い走りと誹られたが、それでよかった。そう笑う者たちの名を、高俅は覚えてもいない。だが自分の名は違う。

　そしてついに、水軍統制に任ぜられた。

　万感の思いを込め、牛邦喜は湖を進む船から梁山泊を見ていた。

　従えるのは、かつて統制であった劉夢竜。そして党世英だ。

　劉夢竜が告げる。

「敵船が見当たりません。何か嫌な予感がするのですが」

「弱気になるな。先日の戦いで、我らの事を恐れておるのだろう。お主のおかげでもあるのだぞ。このまま行けば、奴らの本寨に辿りつけるではないか。進め」

　党世英も不服そうだったが、いまは牛邦喜に従わざるを得ない。

　牛邦喜には策があった。船を横に三隻並べてつなげ、歩兵を乗せている。さらに船尾の鎖でつなぎ合わせたのだ。連環馬ならぬ連環船といったところか。並の船ならばぶつかっただけで粉々というわけだ。

　さらに岸には高俅率いる騎兵が、船を追うように進んでいる。水陸と呼応するためだ。

　いつでもかかって来い。そう気負っていたが、おかしなほどあっけなく金沙灘と呼ばれる場所へ着いた。

　牛邦喜もやっとおかしさに気付いたようだ。

　しかし、

「ええい、何をしておる。敵地に上陸できたのだ。早く殺し尽くしてしまえ」

　牛邦喜の号令がかかる。

　六百ほどの歩兵が一斉に岸に上陸し始める。

　だが突然、戦鼓が鳴り響いた。そして蹄の音が轟いたかと思うと、梁山泊の騎兵隊が殺到した。

「退けい。罠だ。船に戻るのだ」

　うろたえる牛邦喜に変わり、劉夢竜が叫ぶ。

　しかしこの一瞬の間に歩兵の半数以上が、討ちとられてしまっていた。

　騎兵を率いる秦明が、牛邦喜らに狙いを定めた。

　ひい、と悲鳴を漏らす牛邦喜の頬を、党世英が張り飛ばした。

「とっとと動け。このままでは全滅するぞ」

　やっと船に逃げ込んだ牛邦喜を見て、後続の船に後退を命じる。

　その時、号砲が轟いた。ひゅるるという風の音が聞こえた。次の瞬間、轟音とともに、船が爆発した。

　官軍たちが反射的に身を低くした。空からは船の欠片と水飛沫が降り注ぐ。

　すぐにまた号砲の音。今度は二回。そして船が二つ大破した。

「散れ、散るのだ。砲撃は梁山泊からだ。できるだけ遠くに離れ、広がるのだ」

　劉夢竜と党世英が必死に指示を飛ばす。

　その間にも、ひとつまたひとつと船が粉微塵に吹き飛んでゆく。

「おい、あれは何だ」

　甲板にしがみつくようにしていた牛邦喜が叫んだ。

　梁山泊の船が大量に姿を見せた。だが戦船ではない、小舟だ。

　小舟の先頭に魏定国が立ち、官軍を見据えている。劉唐が後方で合図を待つ。

　風が変わった。魏定国が右手を上げた。

　水夫たちが一斉に松明を灯した。

　湖面が燃え上がった。

　赤い軍装の魏定国が、紅蓮の炎をまとっているように見えた。

​

　砲の音が轟き、軍鼓が聞こえた。

　湖の方から真っ黒い煙が立ち上っているのが見えた。

「始まったぞ、急げ」

　高俅らが湖へと駆け寄る。だがそこで呆然と立ち尽くしてしまった。

　目の前は火の海だった。湖が燃えている。

　風に煽られ、熱気が高俅の顔を襲った。そこでやっと我に返ると、撤退を命じた。

「しかし高太尉、牛邦喜どのや劉夢竜どのは」

　王煥が沈痛な声を出す。

　無事な訳がないだろう、そう怒鳴りつけたかったが、ひとつ息を吸う。

「見ろ。地上から我らが手出しできる術はない」

　王煥が湖を見て、眉をしかめた。高俅の言うとおりだった。

　少しずつだが、生き延びた兵たちが、岸へ上がって来ていた。それを確認し、王煥は自分を納得させるように頷いた。

　だが節度使たちは、とてつもない軍の気配を感じた。

「高大尉、奴らが来ます。はやく離れてください。李従吉、項元鎮は太尉と共に行け」

　王煥が叫ぶと同時に、梁山泊の騎兵が、目の前の丘の上から飛ぶように現れた。

　王煥が殿(しんがり)となり、梁山泊軍を食い止める。

　逃げる高俅軍を追う梁山泊軍。さしもの王煥も、支え切れなくなってしまう。もう持たない。そう思った時、そこで梁山泊軍が速度を落とし、徐々に離れてゆく。

　耐え切った。王煥がほっと胸をなでおろしたのも束の間、

「追え。梁山泊軍を逃がすな、追え」

　という高俅の命令が飛んだ。

　逃げたとはいえ、追うのは得策ではない。そう告げる間もなく、高俅が先頭となり駆けだした。

　徐京が何か言いたそうだった。やはり軍師の存在が必要だ。　

　駆ける高俅の側面に、五百ほどの隊が現れた。風のように一瞬だった。

　それを束ねる将を見て、高俅が馬から転げ落ちそうになる。

「り、林冲、貴様」

　林冲は高俅を見据えながら駆け続ける。林冲隊の蹄の音は、まるで一個の生き物のように整然と聞こえた。

「誰か、奴を討て」

　高俅の叫びに応え、徐京が向かった。林冲隊と徐京の隊が交差する。徐京の隊の三分の一ほどが蹴散らされた。

　林冲がそのまま高俅に突っ込むかと思われたが、突如反転をした。

　高俅軍が虚を突かれたまま、林冲隊は現れた時と同じように、風のように消えた。

　高俅が次の指示を出しかねている時、やや後方で喚声が上がった。

　伝令が届く。

「敵騎兵を率いているのは、顔に青痣のある男です」

　楊志だ。青面獣の楊志だ。

　東京開封府、高俅の元へ復職願いに来た時の事を思い出した。まさか奴までもわしを恨んではおるまいな。いや、そうかもしれぬ。

　高俅の決断は早かった。

　済州へ撤退せよ。

　その後、何度も梁山泊軍の追撃を喰らった。だがどの隊も同じように、ある程度攻撃を仕掛けると離れて行ってしまうのだ。それが済州に入るまで続いた。

　やっと梁山泊の攻撃がなくなった頃には、高俅軍はまるで三日三晩戦い続けたかのように疲労しきっていた。

　高俅は、済州城に設えられた寝室に入ると、気絶するように眠った。

　他の兵の前でそれをしなかったのは、さすがと言うしかなかった。

 

　船を繋ぎ合わせていた事が災いした。

　船は互いに離れることができず、そのまま炎に包まれていった。

　牛邦喜は何もできず、炎に照らされるままだ。顔に浮かぶ汗は暑さのせいか、それとも冷や汗か。

「敗北だ。逃げるのです」

　劉夢竜が、自分を落ち着かせるようにそう告げた。やっと牛邦喜が事態を飲み込めたようだ。

　風にあおられ、炎が大きく舞い上がった。

　党世英は二人が気付かぬ間に、小舟に乗り込むと振り向きもせずに逃げた。

　水路に逃げ込み、あと少しというところだったが、両脇の葦の茂みから梁山泊兵が姿を見せた。弩や弓を手にしていた。

　その頃、開封府にいた党世雄が、ふと空を見上げた。

　世英、とぽつりとつぶやき、目を閉じた。

　劉夢竜は甲冑を捨て、湖に飛び込んだ。岸には梁山泊兵が待ち構えている。一度深く潜り、奥の入り江目指して泳いだ。

　炎からはだいぶ遠のいた。劉夢竜はそっと水の上に顔を出した。だがそこに一艘の船がいた。急いで潜ったが、遅かった。

　船を漕いでいた童猛が素早く追い、同乗していた李俊が水へ飛び込んだ。

　水中で二匹の竜が絡み合った。だが混江竜の方が上だった。

「さすがは水軍統制だったがな」

　と気を失った劉夢竜を、船上に引き上げた。

　牛邦喜も軍装を解き、水中へ逃れようとした。だが覗きこんだ湖面の中から、何と撓鈎が伸びてきた。撓鈎は牛邦喜の襟を引っ掛け、水中へと引きずりこんでしまった。

　水中にいたのは張横だった。口に短刀を咥えている。湖上の炎に照らされ、地獄の悪鬼のように見えた。

　牛邦喜は悲鳴を上げてしまった。水中である。たちまち水を飲み、白目を剥いた。

　風は止んだ。だが湖面では船がまだ燃えている。

　梁山泊へ向かう道。李俊と張横が鉢合わせた。

　張横は、その手に牛邦喜の首を持っていた。

　ちらりと、李俊が捕縛している劉夢竜を見やる。

「先に、行ってるぞ」

　張横はそれだけ言い、闇の中へ消えた。

　李俊は、宋江の顔を思い浮かべた。先の戦いで捕らえた党世雄と韓存保は解放された。

　意識を失っている劉夢竜が呻いた。韓世忠、という名を呼んだようだ。

　李俊が刀を抜いた。

　炎がやっと落ち着き始め、喧騒も収まってきた。

　梁山泊へ向かう道には、ひと筋の血の跡が残されていた。