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画戟

 白づくめの男が、服に付いた色を気にしていた。その個所を何度かこすってみると、少し薄くなったようだったが、それ以上落ちる事はなかった。

 服に付いた色は赤。その赤は血の色であった。

「ちぇ、まったく汚すんじゃねぇよ」

 悪態をつくその男は荷車に腰かけていた。

 そして荷車の周りには、五人ほど男たちが倒れ伏していた。彼らはすでに息をしておらず、首や背中から大量の血を流していた。

「さて、そろそろ出発しようか。お前ら、ぼさっとしてないで荷車を引くんだ。今日中に長江(ちょうこう)に着きたいんだから」

 荷車から腰を浮かせ、白づくめの男が言った。草むらから商人や人足たちが恐る恐る出てきた。

 地面に横たわる死体を片付け、荷車は出発した。

 白づくめの男が最後尾を歩いている。

 男の手には方天画戟が握られていた。 

 

 洞庭湖に注ぎ込む沅江(げんこう)の近くに辰砂(しんしゃ)の採掘現場があった。その辰砂を長江で揚州(ようしゅう)まで運び、そこの精錬所に預けられる。そこで辰砂は高温で加熱され、その時に出る蒸気を冷却する事で汞(みずがね)が得られるのだ。

 汞は、赤の顔料や漢方薬の原料として使われた。かつては不老不死を得るための錬丹術に用いられていたともいう。

「さてと、いつもながら東京まで遠いな」

 白づくめの男が、鉄の容器を荷車から船へと移し換えていた。その容器の中に汞が入っているのだ。ここから南北に延びる運河を経由し、黄河へと至るのだ。

「いつもながら大したお手並みでしたな、郭盛(かくせい)どの」

 あの時震えていた商人がそう言って称えた。郭盛はにやりと笑みを浮かべ腕を組んだ。

「まあ、あの程度の賊どもなど造作もないさ」

 郭盛は笑い、最後の荷を積み込んだ。

 精錬所からこの船着き場の道中で賊に襲われた。広めの街道で人通りも多かったが、白昼堂々の事であった。

 物騒になったものだ、と郭盛は方天画戟を構え、賊どもは月牙の露と消え果てた。

 郭盛は用心棒ではない、れっきとした汞の商売人だった。

 生まれは西川(せいせん)地方の嘉陵(かりょう)。洞庭湖よりもさらに西にある土地だ。

 子供の頃から負けん気が強く、よく他の子供と喧嘩をしていた。

 ある時、郭盛は数人の子供に囲まれた。中には郭盛よりも五つほど年上の少年もいた。以前、泣かせた事のある子供が仕返しするために、兄とその友人たちを連れて来たのだろう。

 そこは裏道で、ほかに人の通る気配もない。しかしそれでも郭盛は逃げようともしなかった。がむしゃらに立ち向かい、二人までは倒した。

しかしいかんせん数と体格の差は埋められず、郭盛は何度も殴られた。そして地面に倒れた。

「あんまりでかい顔するんじゃねぇぞ」

 一番背の高い少年が郭盛を見下ろして、そう言った。しかし郭盛は、両手で体を支え、ふらふらと立ちあがった。

「まだ、やられちゃ、いねぇぞ。来い」

 右目は晴れ上がり、口から血も流れている。足元もふらつき、肩で息をしていた。

「おとなしく寝てりゃ良いものを、恨むんじゃねぇぞ」

 少年たちが一斉に郭盛に向かって駆けた。

 しかし、彼らは急に足を止めると、そのまま背を向け逃げ出してしまった。

 呆気にとられる郭盛。

 どうしたのだ。

「一対五とは、無茶な小僧だ」

 背後から声がした。

 誰だ。

 郭盛は振り向きざま拳を放った。しかし手首を捕まれ、突きが止められた。

 はっ、と郭盛は上を見た。

 逆光でその人物の顔ははっきりと見えなかったが、手にしていた得物は今でもはっきり覚えている。

 槍の穂先の両側に、三日月が対称についていた。

 見た事もないその武器に、郭盛は一目惚れをしていた。

 

 その男は堤轄を務める張という人物だった。

 その後、郭盛は喧嘩をしなくなった。張堤轄に画戟を習うのに忙しくなったからだ。

「ほう、筋が良いな」

 はじめて大人に褒められた。郭盛は嬉しくなり、さらに画戟にのめり込んだ。

 やがて郭盛の声が大人びた頃、嘉陵に賊が乗り込んできた。

 折悪しく、張堤轄は所用で留守であり、彼の部下たちは逃げ隠れるばかりであった。

 俺がやるしかない。

 郭盛は画戟を手に賊と対峙した。実戦は初めてだったが、勝った。

 画戟に貫かれ、息絶えた頭目を置いて賊たちは逃亡した。怯えていた人々は郭盛に喝采を送った。

「薛仁貴(せつじん(き)さまの生まれ変わりだ」

「いや薛仁貴さまより上かもしれんぞ」

「そうだ、賽仁貴(さいじんき)だ」

 賽仁貴の郭盛。喝采は大きくなっていった。

 自分が唐の忠臣、薛仁貴に譬えられるとは。郭盛が画戟を上げて応えると、さらに喝采は大きさを増した。

 翌日、戻ってきた張堤轄に会いに行った。褒めてくれると思った。

 しかし堤轄は渋い顔をして、怪我がなければそれで良い、と言うのみであった。

 郭盛はいつしか堤轄のところにも寄らなくなってしまった。取り巻きたちにお世辞を言われ、酒を飲む方が楽しかった。

 金になると聞き、郭盛は汞(みずがね)の商いを始めようと思った。

 嘉陵から出て行く日、張堤轄に別れの挨拶に行った。

 いつ以来だろうか、ここを訪れたのは。

 出てきた張堤轄は、すっかり痩せていた。

「そうか達者でな。世の中は広い。画戟の使い手もわしやお前だけではない事を覚えておいてくれ」

 最後まで説教じみた事を言う人だ。

 郭盛は拱手をし、背を向けた。

 張堤轄の目が寂しそうに、郭盛を見送っていた。

 

 黄河までは何事もなくたどり着いた。ここまで来れば、東京まではあとわずかだった。

「荒天になるかもしれん。今日は出せんよ」

 そういう船頭に金を渡し、半(なか)ば脅すように船を出させた。早く荷を届け、仕事を終えたかったのだ。

 しかし船が黄河を進み、しばらくすると空が黒雲で覆われ始めた。雲は船を追うかのようにあっという間に空一面を覆いつくし、やがて大粒の雨が甲板を叩き始めた。

 嵐だった。

 何度か大きな波を喰らい、船は黄河の底へと消えた。汞(みずがね)も鉄の容器ごと沈んでいった。

 郭盛は岸で目を覚ました。嵐は過ぎ、岸に船の破片が散乱していた。

 岸辺で郭盛は呆然と座り込んでいた。

 一日待てば、無事についていたのだろうか。出発を速めた俺のせいなのか。

 商売道具も銭も失った。この先、どうしたらよいのだろうか。

 頭に浮かぶ様々なことを振り払うかのように首を振ると、郭盛はゆっくりと立ち上がり、ふらふらと歩き始めた。

 少し歩くと、先に長い棒のようなものが落ちていた。郭盛はそれを手に取った。

 それは柄まで白く塗った、愛用の方天画戟だった。

「命があっただけでも、もうけものか」

 郭盛は画戟を握ると、進路を北に向けた。

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