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画戟

 江南にある広大な洞庭湖(どうていこ)の南、いわゆる湖南(こなん)地方の潭州(たんしゅう)で呂方は生まれ育った。

 かつては武人の家柄だったというが今は落ちぶれ、生薬(きぐすり)の行商を営んでいた。

 父もそれを偲んでか戦記ものや歴史ものを愛読しており、幼い呂方もそれに興味を持つようになっていった。

 その中でも特に三国時代の物語に夢中になった。

 呂方は、徳の人とされる劉備や、丞相にまでなった曹操そして同じ江南に呉を建てた孫権ではなく、ある一人の武将に傾倒するようになった。

 それは三国時代、いやこの宋という時代に到るまで最強と称される武将、呂布であった。

 同じ姓である故か、その圧倒的な強さが子供ながら心惹かれるものだったのか、呂方は自分の家系はきっと呂布に連なるものなのだ、と信じてやまなくなってしまった。

 家業を手伝うようになってからも呂布への憧れは衰えることなく、貯めた小遣いでついには方天画戟を手に入れてしまったのだ。

 すぐに飽きるだろうという家族の予想を裏切り、呂方は恵まれた体躯を活かし、我流ながらも画戟の腕を見る間に上達させていった。

 しかも稼業も怠けることなくこなすので、両親は呂方に画戟をやめろと言う訳にはいかなかったのであった。

 

 ある日、その日の仕事を終え、呂方が方天画戟を振っていた時、書生風の男が近づいて声をかけてきた。

 呂方はその書生の家に何度か薬を届けた事があり、それから話すようになっていたのだ。

「今日も画戟の練習かい。まったく精が出るな、賽温侯(さいおんこう)」

 温侯とは呂布に与えられた爵位の事である。

 呂方は少しむきになって言い返した。

「それだと、呂布より勝(まさ)ってるという事になってしまうだろ。呂布は最強の武人だぜ、俺なんか到底敵うはずなんかないんだ。もし言ってくれるのなら小温侯(しょうおんこう)で充分さ」

 書生が呆れた顔をしていた。

「わかったよ、じゃあ今日からお前は小温侯だ。謙遜しなくても、画戟の腕でお前ほどの者はそうはいないって、俺は知ってるぜ」

 ありがとう、と呂方は素直に礼を述べた。

 書生は続ける。

「それだけ腕が立つのに、武芸で身を立てようとは思わないのかい。俺がお前くらいの腕だったら、そうするんだけどな」

「俺は生薬屋という稼業を継がなきゃならん。方天画戟で身を立てようとは思っちゃいないさ」

 書生の男は大きなため息を漏らした。

「まったくもったいない。できれば武芸をやりたい俺はその素質がなく、商人になろうというお前は武芸の達人なんて、まったく皮肉だな」

 またいつもの愚痴が始まった、と呂方は微笑んだ。

「今は文官の方が良い暮らしを送れるんだぜ。そういえば科挙を受けに行くんだってな。お前は潭州きっての秀才だからな。俺はそっちの方が羨ましいよ」

「お互い、無いものねだりという訳かい」

 書生は満更でもない風に笑っていたが、ふと真面目な表情になった。

「郷試(きょうし)は通ったが、次はいよいよ会試(かいし)だ。うまくいくかな」

「何だ、いつものお前らしくもない。きっと大丈夫さ」

 呂方は書生の実力を信じ切っている口調だった。

「そうだな、弱気になるのが一番いけないな。よし、もし落ちたらお前の店の番頭をやらせてもらうぞ」

「それは本当に助かるなぁ。帳簿を付けるのは本当に苦手なんだよな。お前ならどんな計算でも一瞬でできちまうしな」

 その言葉に呂方は自分で笑い、書生もつられて笑った。

 じゃあ連絡するよ、と書生は背を向けた。

 その背に向かって、呂方が檄(げき)を飛ばした。

「頑張れよ、良い報告を待ってるぞ」

 書生は軽く右手をあげ、通りを曲がって行った。

 知らず、呂方は画戟を力づよく握りながら、祈るようにつぶやいていた。

 きっと大丈夫、お前ならできるさ、神算子(しんさんし)。

 

 両親が相次いで病で亡くなった。呂方は二十歳そこそこで、店を継ぐことになってしまった。

 神算子からは、あれから便りの一つも来ていない。彼の家族もどこかへ越してしまったようだ。合格を果たし、都へと居を移したのかもしれない。

 便りが無いのは無事な証し、と言う。

 呂方は仕事に追われ、次第にその事も忘れていってしまった。

 呂方は薬の行商であちこちと忙しく歩き回り、あまり店に戻ることがなくなった。そのため帳簿付けが苦手な呂方は、これを機に番頭を雇う事にした。

 呂方の人柄もあってか、仕事が途切れる事はなかった。しかしそれと売り上げが比例する訳ではなかった。それでも呂方は体に鞭を打ち、働き続けた。だがそれでも、番頭が言うには経営状態はぎりぎりというのであった。

 しかし、そうなるとさすがに呂方も疑問を持たざるを得なかった。今回の山東での行商から帰ったら、番頭とじっくり話をしようと思っていた矢先である。その番頭が金を持って逃げたというのだ。

 愕然とする呂方。なんの事はない、番頭が店の売り上げをごまかして懐に入れていたのだ。経営が上向きになるはずもない。番頭も呂方が疑念を抱いたのに気付いたのだろう、もともと聡い男だ、それならばと全財産を奪って逃げる事にしたのだ。

「父さん、母さんすまない。俺のせいだ」

 店を失い、無一文となり、呂方に残されたのは方天画戟ひとつであった。

 呂方は画戟を握り、目を瞑ると呂布を思い浮かべた。

 どれくらいそうしていたのだろうか。

 ゆっくりと目を開けた呂方は、夜の闇の中へと姿を消した。

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