top of page

悲愴

 あと三日で四十九日だという。

 武松が陽穀県を離れ、十日あまり過ぎたころ武大は急に胸の痛みを訴えた。八方手を尽くして薬を探したり医者にも診せたが、その甲斐なく死んでしまったという。

 どこかにいる神医とやらが見つかっていれば、と潘金蓮は目頭を袖でおさえ、涙声で言った。

 また、武大も自分も身寄りがないので遺体は埋葬せずに荼毘(だび)に付したという。

「お世話をかけました」

 線香をあげ、兄の冥福を祈ると武松は潘金蓮に礼を言い、紫石街を出た。

 武松の帰還を人々は喜んだが、誰ひとりとして彼に声をかけることができなかった。人どころか犬さえも武松の姿を見ると、路地へと逃げ込んだ。通りを歩く武松からは、近付くだけで命を取られそうなほどの殺気が漂っていたのだという。

 獅子街と呼ばれる通りへ来ていた。

「このたびは兄がお世話になりました、何九叔(かきゅうしゅく)どの」

 武松が何九叔に礼を述べた。

 何九叔は検死一切を担当する職長である穏亡頭(おんぼうがしら)で、武大を担当したのも彼だった。

 武松は何九叔を居酒屋へ連れて行き、酒食をふるまった。

 このたびは、と何九叔が通り一遍の弔辞を述べ酒を注ぐ。しかし武松は一言も喋らず、黙々と酒を飲んでいる。瞳は何九叔を見据えたままだった。

 突然、武松が立ち上がり懐から短刀を取り出した。武松は逆手にそれを握ると卓へと突き立てた。騒がしかった店内が、幽霊でも通ったかのように静まり返った。

 何九叔が息を飲んだ。見ると刃のほとんどが卓に埋もれている。

 やがて静かな声で武松が言った。

「兄の死にはいくつか不審な点を感じた。何九叔どの、どうか本当の事を教えてもらいたい。兄の死因は一体なんなのだ」

 武松は椅子に腰を下ろすと、その不審点を説明し始めた。

「兄はこれまで病気などと縁のない体だった。それが突然の胸病みだとは信じられんのだが、それもないとは言えまい。しかしどうして兄を荼毘に付さねばならなかったのか。身寄りがないとはいえ、共同の墓地があるではないか」

 武松が酒を一気にあおり、何九叔を見据えた。

「迷信を信じるわけではないが、この世に恨みや辛(つら)みがある者は成仏できずに殭屍(きょうし)になるという。なにか兄の亡骸を見られてはまずい理由があるのではないのか。何九叔どの、あんたは最後に兄を見た人間だ、本当の事を教えてもらいたい」

 武松の話を聞き、何九叔はゆっくりと息を吐き出すと袖の中からひとつの袋を取り出した。ゆるゆると紐を緩め、武松の方へと寄せた。

 武松の眉間が険しくなる。袋の中には、黒ずんだ骨片がふたつと十両の錠銀が一枚入っていた。

「これはあんたの兄、武大の骨だ」

 何九叔は目を閉じ、もう一度ゆっくりと息を吐いた。

 

 正月の二十二日の事だった。

 知らせを聞いた何九叔は部下と共に武大の家へと向かった。

 ところが紫石街の入り口に着いた時、そこに西門慶が待ち構えるように立っていた。

 話があると告げられた何九叔は部下を待たせ、一軒の店へと連れられて行った。西門慶は上等な酒や食事を出させると、丁重に何九叔をもてなし始めた。

 西門慶とはあまり面識がなく、一度だって飲んだ事もない。一体どういう風の吹きまわしだ。

 何九叔は遠慮がちに酒を飲んでいたが、少したった頃である。西門慶が、つと錦の袋を開き一枚の錠銀を取り出した。十両もの錠銀である。

「お頭(かしら)、どうかお納めいただきたい」

 さすがに何九叔も尋ねるしかなかった。

「一体どういう事です、旦那」

「これからあの家へ納棺に行かれるのでしょう。そのためのお礼ですよ。お頭ならばよく知っているでしょう、死人に口なしって言葉を」

 一体、西門慶と武大の間に何の関係があるというのか。だが何九叔はふと妻が言っていたことを思い出した。

 武大の妻と西門慶が密通をしていると。実際に見たものはないようだが、火のない所に煙は立たぬ、街中に噂は広まっているのだという。

 西門慶は何九叔の返事を待っている。口元は笑みを浮かべているが、目は笑っていない。さらに返答に窮する何九叔に迫った。

「受け取らないということは、断るということですかな」

 わかりました、と何九叔は錠銀を懐に入れ、店を出た。

 どうしたものか思案しながら部下と合流し、武大の家へと向かった。

 未亡人となった潘金蓮は袖口で目元をおさえ、主人を頼みます、と悲しみに暮れた様子だった。

 仕事柄、死体は見慣れている。これまで多くの亡骸を見てきた。医者ではないが、何九叔は一目で武大の死因を特定できた。

 どす黒い顔色、目や鼻から滲み出ている血の痕跡、下唇に残された歯型。

 毒殺である。

 何九叔はすぐに武大の顔に布を戻すと、何もなかったようにその場から離れた。そして少し具合が悪くなった、と後の事を部下に任せると家へと戻った。

 夫のいつにない早い帰宅に驚いた妻に、何九叔は静かに武大の死にまつわる一連の出来事について相談した。

「あきらかに武大は毒にやられている、やったのはあの二人だろう。薬屋ならば毒も簡単に手に入るだろうからな。俺などではあの西門慶に敵わねぇし、見て見ぬふりすることは簡単だが、武大の弟に知れたらどうなる事やら、考えただけでも恐ろしい」

 西門慶と武松、どちらを取るべきかの板挟みに顔をしかめる何九叔。

 すると側に茶を置き、妻がある提案をした。

 ぽん、と膝を打ち何九叔の顔が明るくなった。

「持つべきものは聡(さと)い女房だな」

 何九叔の妻はこう言った。

 もし武大の亡骸を普通に埋葬すると言うならば問題はない。しかし急いで火葬にしようとするならばやましい所があるに違いない、と。

 何九叔は女房の提案通りに確認をとると、潘金蓮は案の定すぐに火葬にしてほしいと願い出てきた。

 野辺送りの当日、何九叔は直々に潘金蓮の家へと出向き、荼毘に付された武大の骨をこっそりと隠して持ち出したのだ。

 それが今、武松が見ているものであった。小さな骨片は黒ずんでおり、それは毒が原因なのだという。

 武松が冷静な顔で聞いた。ではその犯人は誰なのか、と。何九叔は目を開け、武松を見つめる。

「あんたの兄を殺したのは、武大の妻の潘金蓮。そして彼女と密通をしていた生薬屋の西門慶という男に違いあるまい」

 やはり潘金蓮は浮気をしたのか。浮気をする暇を与えないように、武大に早く帰るように言いつけたのだが、それがこのような結末を迎えてしまうとは。

 武松は深く目を閉じ、兄を思った。

 そしてこの件を役所へと訴え出る旨を何九叔に告げた。

「潘金蓮と西門慶の情事は衆目の知るところだが、奴にあえて逆らおうとする者はおるまい。だが一人だけ、当てがある」

 そして何九叔はひとりの少年の名を告げた。

 言うまでもない、武大と共に潘金蓮の浮気現場に乗り込んだ少年、喬鄆哥である。

「虎退治をしてあんたが街にやって来た時、おいらも見物に行ったんだぜ」

 訪ねてきた武松を見て鄆哥はそう言った。

「武大の旦那をけしかけたのはおいらだ、本当に申し訳なく思ってるよ。西門慶もあの女房もいけすかねぇ。おいらが証人だ、役所でも何でも行くがひとつだけ心残りがあるんだ」

 何でも言ってみろ、と何九叔が促すと鄆哥は顎をしゃくって奥の部屋を示した。そこには年老いた鄆哥の父が臥せっていた。病気がちで年老いた父の面倒を見る者がいないため、心配だという事だ。親思いで義の心も持っている、少年ながら立派な好漢ではないか。

「心配するな」

 と武松が懐から五両を出し、鄆哥に渡した。五両もあれば半年近くは楽にしのげる。

「誰かを来させるからちゃんと言うこと聞くんだぜ、親父。じゃ、ちょっと行って来らぁ」

 鄆哥はいつも商売に出かける時のような足取りで、戸を開けた。

 

 武松は兄、武大の位牌の前で正座をしていた。

 灯りは小さな蝋燭のみで、目を瞑り手を腿に置き、背を伸ばしている。線香の煙が武松の周りに漂っている。武松はまるで呼吸をしていないかのようだった。漂う煙がそよとも揺らめく事がない。

 三日前、何九叔の保管していた証拠の骨と喬鄆哥を証人とし、役所へ赴いた武松だったが、知県は苦い顔をして曖昧な返事をするばかりで、一応預かっておくとだけ告げた。

 その翌日、武松の訴えは却下された。おそらく西門慶が役所中に賄賂をばらまいたのだろう。却下と聞いた武松は冷たい目で、ならば別の考えがあります、と言うと役所を去った。

 武松はゆっくりと目を開き、立ち上がった。

「兄さん」

 とつぶやき部屋を出た。

 

 四十九日の法要を執り行うため、武松は武大の家に近隣の者を集めた。仏具屋や銀細工師、酒屋にうどん屋の爺さんなど武大と親しかった者たちである。

「兄さんに良くしてもらった礼です」

 と言って潘金蓮と王婆さんを主賓に迎えた。

 すでに武松の訴えが棄却されたことを知っている二人は何食わぬ顔で座っている。武松がどう出るのかを見てやろうという腹積もりのようだった。

 法要は滞りなく執り行われた。

 武松は再び一同に礼を述べ、酒食をふるまった。

 集まった近隣の者たちは。武松の落ち着きぶりに反した張り詰めた場の緊張感に耐えきれず、一刻も早くそこから逃げ出したいと願っていた。しかしそれを察したかのように武松が、まだ良いでしょう、と静かに囁くと彼らは腰を上げることができなくなるのだった。

 やがて酒もひとしきり飲み終わった頃、武松が拱手して立ち上がると一同に向けて話し始めた。

「このたびはお忙しい中、兄の四十九日の法要にお集まりくださり本当に感謝しております。あなた方は生前、兄と親しくしてくださった。そこで兄のためにもう一度だけ骨を折っていただきたいのです」

 一同は顔を見合せ、我々ができることならば、と言った。

 すると武松が懐から短刀を取り出し、鞘をさっと引きぬいた。鈍く光る刃が一同を睨みつけた。

「皆さんには証人になっていただきたいのです」

 言うが早いか、武松は潘金蓮の髪を掴み引き寄せる。

 そして王婆さんを指さし、

「貴様らのせいで兄は死んだのだ。仇は討たせてもらうぞ。そこを動くな」

 と冷たい声を発した。

 他の者たちも目を見開き、口を開けたまま身動きすることができなかった。

「あんたの兄さんは胸病みで死んだんだよ。どうしてあたしが殺さなきゃならないのよ」

 潘金蓮は反論したが、武松はそのまま地面に引き倒すと、足で肩口あたりを抑え動けないようにした。

 左手を高くあげ、拳を固く握りしめる。ごう、という音がしたかと思うと、潘金蓮の顔のすぐ側の床に拳が突き刺さっていた。耳には、きいんという音が鳴り響いている。

 何が起きたか理解をした潘金蓮の呼吸が荒くなった。

 武松の拳が床を豆腐のように砕いたのだ。あれが顔に落ちてきていたら、あの夜に見た杯のようになっていただろう。そう考えるとさらに息が荒くなった。

「義姉(ねえ)さん、言いましたよね。俺の拳が黙ってはいないと」

「わかった、わかったよ。言うよ、言えばいいんだろ」

 息を荒げながら潘金蓮はすべてを語った。

 武大の目を盗み、王婆さんの家で西門慶と密通していたこと。

 鄆哥に嗅ぎつけられ、武大が乗り込んできたが西門慶がそれを一蹴したこと。

 武大が邪魔になり、西門慶に毒薬の砒霜(ひそう)を手配してもらい、それで毒殺したこと。

 武松は潘金蓮が語った真相を、字の上手い酒屋に書き取らせると、寝かせたまま署名をさせた。

 王婆さんもうろたえながら、自分が西門慶に相談されて彼を焚きつけたことを詳(つまび)らかにした。武松は婆さんにも署名をさせると、短刀を逆手に握りなおした。

「よく言ってくれた。あの世で受ける罰が少しは軽くなるかもな」

 表情を変えもせず言うと、武松は刀を潘金蓮の胸元に突き立てた。そしてそれを下腹部まで一気に引き下ろした。

 潘金蓮は痙攣しながら白目をむき、口からは血が泡となって溢れ出した。

 返り血で真っ赤になった武松は、短刀を引き抜くと今度は潘金蓮の首にあてがった。一瞬の躊躇(ためら)いもなく、今度はそれを真横になぎ払った。

 ごとり、という音と共に潘金蓮の首は胴体と永遠の別れを告げた。

 武松の瞳は冷たい光をたたえたままで潘金蓮の首を手に、血の海に仁王立ちしていた。

 誰ひとりとして悲鳴すら上げることもできず、静寂の中でのその光景はより凄惨さを色濃くしているのだった。

 

 獅子橋の袂にある料亭に西門慶がいた。

 外に面した二階の窓際の席で、唄を聞きながら仲間と酒を飲んでいた。ほどよく酔いも回り、今夜も潘金蓮の元へと行こうと考えていた矢先である。ふいに通りがざわつき、すぐにざわめきは階下に移った。

 無粋なことだ、と思っているところへ男が一人、階段を駆け上がりこちらへと近づいてきた。西門慶は目を細め男の面相を確かめると、手にした杯を落としてしまった。

 着物や手足、顔まで真っ赤に染まったその男は、武大の兄である武松であった。

 武松は手にした包みを西門慶の方へ放り投げた。

 中空で包みが解け、中身だけが西門慶の手元に届いた。

 白目をむき、舌を口元から垂れさせている潘金蓮の首だった。

 ひっ、と短く悲鳴をあげ、西門慶は卓を乗り越え窓に手をかけた。しかし二階であることに気づき、戸惑っている内に武松も卓に飛び乗ってきた。

 西門慶は意を決し、振り向きざまに右足を蹴り上げた。不意をつかれた武松の右手が打たれ、短刀が飛ばされてしまう。

 勢いづいた西門慶は武松に拳を放った。右で突きを繰り出すと見せかけ、左の拳で鳩尾を狙う必殺の手だった。

 しかし幸運は最初の蹴りのみで尽きたようだ。

 圧倒的な実力の差は埋まるべくもなく、武松はさっと左の突きを避け、西門慶の懐へと潜り込む。片手で頭を、もう片手で足を掴むと西門慶を肩の上に軽々と持ち上げてしまった。

 そして勢いを利用し反回転すると、窓の外へ西門慶を投げ落とした。

 西門慶は受け身を取ることもできず、頭から地面に激突した。

 武松は潘金蓮の首を拾うと、散歩にでも出かけるように窓の外へと身を躍らせた。

 武松が通りに降り立ち、人々が悲鳴を上げながら道を開ける。

 落ちていた短刀を拾い、武松は西門慶の首にそれを当てた。

 西門慶は頭からとめどなく血を流しており、それが水溜りのようになっていた。意識も朦朧としており目の焦点も定まらず、きょろきょろとあちこちを見るばかりだった。

 武松の腕に力が込められた。

 最期の瞬間、西門慶は潘金蓮と目が合ったような気がした。

 

 知県の前に武松がひざまずいている。

 傍らには二つの生首。潘金蓮と西門慶のものである。

 武松は西門慶の首を取ると紫石街へと引き返し、兄の菩提に仇討ちを報告した。そして縛り付けておいた王婆さんを引きずるようにして陽穀県の役所へと向かった。

「このたび、殺人という大罪を犯しました故、ここに出頭いたしました」

 事件の結末を見ようと、役所前の通りは物見高い人々で溢れかえっていた。

 知県は何九叔と鄆哥を呼び、改めて証拠を確認させた。武松は潘金蓮と王婆さんの供述書を提出し、王婆さんも渋々自供をした。

 仇討ちとはいえ殺人は大罪である。しかし隠れることなく自首し、なおも剛毅たる態度を見せる武松に、知県も以前に己がとった行動を恥じたのかもしれない。

 この案件を裁く上級の管轄である東平府(とうへいふ)に送る文書を、こう書き改めた。

 亡き兄の供養を執り行おうとした武松だったが、生前に武大とうまくいっていなかった嫂(あによめ)である潘金蓮が仏壇を壊すなどの邪魔をしたため、位牌を守ろうとした武松と喧嘩になり、はずみで殺してしまった。そこへかねてより潘金蓮と情を通じていた生薬屋の西門慶が乗り込んできて乱闘となった。両者譲らず獅子橋の袂までなだれ込み、そこでついに殺傷してしまった、と。

 武松には殺意があったわけではなくあくまでもはずみである事を強調しており情状酌量の余地がある、という内容だった。

 報告書を受け取った東平府尹は陳文昭(ちんぶんしょう)という男だった。

 この陳文昭、洞察力の優れており部下からも住民からも信頼の厚い府尹であった。彼は上申書を読み、証言などを取りまとめ、事の真相をすぐに見抜いてしまった。しかし、陽穀県の人々の武松への同情や知県の面子なども吟味し、判決を下すことにした。

 拘留期限の六十日後、府尹からの判決が言い渡された。

 王婆は、姦通をそそのかし武大の毒殺を立案し実行を扇動せしめた。男女をそそのかし人倫を失わせたる科(とが)により、寸刻みの刑に処する。

 武松は、兄の仇のためとはいえ潘金蓮および西門慶を殺(あや)めた。自ら出頭したとはいえ釈放することはできない。よって棒打ち四十に加え、二千里外の流罪に処する。

 潘金蓮および西門慶は重罪に当たるものであるが、すでに故人となっているためこの罪は問わない。またこの件の証人および他の関係者については無罪放免とする。

 武松は判決をじっと聞き入り、最後に軽く頭を下げた。王婆さんは、締め上げられた鶏のように騒ぎ散らしながら引き立てられていった。

 流罪地は孟州(もうしゅう)に決定した。陽穀県から見て南西の方角にある州だ。

 時はすでに六月の初め、照りつける陽射しも強くなってきた。

 首に枷をつけられた武松が、護送役人二人に引き立てられてくる。

 陽穀県の人々は武松を見送るため通りに押し寄せてきていた。大勢の者が旅の資金を捻出し、武松に渡した。また護送役人にも、よろしくお願いします、と決して少なくはない額を渡した。

 人垣の中に何九叔がいた。腕を組み黙礼を武松に送っていた。

 その横から鄆哥が走り出てきた。

「武松のあんちゃん、気をつけて行って来るんだぜ。何かあったらおいらが駆けつけてやるからな」

 冗談ではなく、本気で鄆哥は言っているようだ。

「ふふ、頼もしいな。その時は頼むよ」

 武松は答えて微笑む。

「あ、小僧だからって馬鹿にしてるな。自分で言うのもなんだけど、おいらならあんちゃんの右腕、いや左腕ぐらいには役に立ってみせるぜ」

 鄆哥が左の拳を突き出してみせる。

「わかったよ」

 武松も左の拳を出して、鄆哥のそれと突き合わせた。

 無骨な見かけとは異なり、意外と柔らかいと鄆哥は感じた。

「達者でな、小さな好漢、鄆哥よ」

 そして背を向け左手を上げ、またどこかで、と歩き出した。

 二倍、いや三倍はあろうかという巨大な拳の感触を、鄆哥は生涯忘れることはなかった。

bottom of page