top of page

悲愴

 一人の小僧が通りを駆けていた。小僧は雪梨(ゆきなし)の入った籠を下げていた。

「ちぇ、どこに行きやがったんだ、西門の旦那は」

 生薬屋から出てきた小僧がそうぼやいていると、顔見知りの男に声をかけられた。

「おい鄆哥(うんか)、あの旦那を探してるのかい」

「そうだよ、おじさん知ってるのかい」

 鄆哥と呼ばれた少年は目を輝かせて言った。この小僧、姓は喬(きょう)といい、年老いた父親が家にいる。かつて父親が鄆州へ流罪になっている間に生まれたことから鄆哥と呼ばれていた。歳は十五ほどだが、なかなか小利口で日ごろは季節の果物などを売り歩いており、西門慶からも小遣い銭をもらったりしていた。

 今日も良い雪梨を手に入れたので、西門慶に買ってもらおうと探していたところだったのだ。顔見知りの男に居場所を聞き、鄆哥はすぐさま駈け出した。

 鄆哥は役所通りから紫石街へ出ると、迷わずに目的の場所へとたどり着いた。そこは王婆さんの茶店であった。

 王婆さんは店先に座り、糸を紡いでいるところだった。

「やあ、王婆さん」

 その声に顔をあげると婆さんは、何の用だい、と鄆哥を睨んだ。

「ある旦那に用があって来たんだ。ちょっと四、五十銭ほど稼がせてもらおうと思ってね」

 訝しそうな顔をする王婆さん。

「旦那ってどこの旦那だね。うちにはそんな旦那いないよ」

「知ってるくせに、あの旦那だよ。ふた文字姓の旦那さ」

 店の奥へ行こうとする鄆哥を遮るように王婆さんが立ちあがる。

「だからそんな旦那などいないと言ってるだろう。勝手に入ってくるんじゃないよ」

 婆さんは鄆哥の襟首をつかみ、外へと押し出す。

「なんだよ婆さん、西門の旦那がここにいるんだろ。自分だけうまい汁を吸いやがって、少し分けてくれたっていいじゃねぇか。ちょっとおいらが口を開けば、炊餅売りの旦那がかんかんになるだろうぜ」

「この子猿め、好きかって言いくさりおって」

 王婆さんが拳を振り上げ、鄆哥を殴りつけた。さらに雪梨の籠も道に放り捨てると、店の戸をぴしゃりと閉めてしまった。

 頭をさすりながら鄆哥が指を突きつける。

「この鬼婆あ、吠え面かいたって知らねぇからな。絶対に言いつけてやる」

 鄆哥は雪梨を拾い、どこかへと走り去って行った。

 店の中では王婆さんが、本当に鬼のような形相で肩を震わせていた。

 

 西門慶と潘金蓮の情事はあれから半月の間、毎日続けられていた。朝、武大が出かけるとすぐに金蓮は王婆さんの家へ行き、西門慶と抱き合った。武大が帰ってくるまでの数時間、飽く事もなく何度も何度も、漆(うるし)のごとく膠(にかわ)のごとく片時も離れることがなかった。

 人の口に戸は立てられぬ。いつしか二人の関係は多くの人が知るところとなり、知らぬは武大ばかりなりという状況であった。

 西門慶は押しも押されぬ実力者となりつつある男、かたや人は良いがしがない炊餅売りの武大。あえて波風を立てることもあるまい、と人々も武大の耳に入れるのを憚っていたのかもしれない。

 だが波が立つのを抑えることも、風が吹くのを止めることも誰にも出来はしない。鄆哥は役所通りへ戻ると、一目散に武大の元へと向かった。

 武大はいつもと変わらず、何も知らない顔で炊餅を売っていた。

「そんな事があるもんか。出鱈目を言うもんじゃないぞ、鄆哥よ」

 武大は鄆哥の言葉を一笑に付した。鄆哥は憐憫の目で武大を見ると、あんたの女房は間男をとっているぜ、とまくしたてる。

「おい、本当なのか。本当なら、その間男が誰なのか教えてくれよ」

 鄆哥の勢いにようやく武大がそう言った。

 教えてやる代わりに、と鄆哥は武大に酒と飯をおごらせた。あくまでも小ずるい小僧である。居酒屋で酒を飲む鄆哥に武大が何度も頼みこんでいる。

「早く教えてくれよ、もう充分飲んだろう」

 皿に残った肉を口に放り込み鄆哥は、わかったよ、と指を立てて頭のこぶを差した。

「見なよ、こいつを」

「どうしたんだ、こぶなんか見せて」

 こぶをさすりながら鄆哥は話し始めた。

「あんたの隣の王婆さんに殴られたのさ」

 今朝、雪梨を売りにある男を訪ねたこと、そしてその男がいるという王婆さんの店へ行ったこと、鄆哥は身振り手振りを加えながら武大に聞かせた。

「おい、その男ってのは誰なんだ。どうして俺の女房と関係あるんだ」

「まだ分らないかい。その男ってのは生薬屋の西門慶さ。そいつは、王婆さんの家であんたの女房と毎日よろしくやってるってわけさ。知らないのはこの街じゃあんただけだぜ」

 もっとも俺も今朝知ったんだけどね、としたり顔の鄆哥が残った酒を飲み干した。

「なんだって、本当なのか」

 武大は顔を青白くさせて考えた。なるほど。潘金蓮はひと月ほど前に王婆さんから着物の仕立てを依頼されていた。数日で終わる予定といっていたが、案外手間がかかり、今日も行くと言っていた。

 さらに毎日帰ってくると、酒でも飲んでいるのか赤い顔をしているようだ。武大は婆さんにご馳走になっているのだとばかり思っていた。

 さらに武大には思い当たる節があった。

 普段から潘金蓮は夫の武大になにかと口やかましく文句ばかり言っていた。無理やりに嫁がされた身ゆえ、と気にしないようにしていたのだが、このところは自分に気を使うような言動が増え、文句もとんと聞かなくなっていた。もしや潘金蓮に後ろめたいことがあるからなのだろうか。

 そう言えば清河(せいが)県(けん)で武大への中傷が耐えきれぬほどになった少し前にも、潘金蓮が急に優しくなったことがあった。自分への非難を慮(おもんぱか)ってのことだと思っていたが、もしかするとその時もそうだったのか。武大の目を盗んで浮気をし、それが広まって武大への嫌がらせが増えた、そう考えると妙に符合する。

「くそ、今から行って現場を押さえてやる」

 と、立ち上がろうとする武大だったが、鄆哥がそれを止めた。

「待ちなよ。気持ちはわかるが相手はあの西門慶だぜ。あんたが二十人束になったって敵いっこねぇさ。逆にとっ捕まって告訴でもされてみなよ、この世は銭次第だぜ。味方のないあんたは牢の中でこれさ」

 と言って鄆哥が首を掻き切る真似をした。

 う、と呻き武大が座りなおす。

「じゃあ、どうすればいいんだよ。こう見えても俺だって男だぜ、泣き寝入りなんてするもんか」

「わかってるよ、おいらもあの婆さんに殴られて頭にきてるんだ」

 そう言うと鄆哥は武大の耳元へと口を寄せた。

 

  武大は翌朝、何事もなかったかのように炊餅を蒸籠(せいろ)に詰めると、いつもと同じように役所通りへと商売に出かけた。

 昨日の件の顛末を王婆さんに聞いた潘金蓮は気が気でなかったが、鄆哥の言葉はどうやらはったりだったようだ。清河県での浮気にも気がつかなかったほどの男だ、と潘金蓮も高をくくり、いつものようにめかしこむと王婆さんの家へと小躍りしながら向かうのだった。

 武大は軽く一回りしただけで紫石街へと戻ってきた。通りの隅に喬鄆哥が立っていた。鄆哥が武大に目で合図をした。西門慶が来ているということだ。

「いいかい、おいらが籠を放り投げるのが合図だ」

 こくりと頷き、武大は荷を預けると鄆哥の背を見守った。鄆哥の姿が王婆さんの茶店へと消える。

「おい婆さん、昨日の礼に来たぜ」

「子猿め、またお前かい。言いがかりをつけるのはやめとくれ」

「ふん、本当の事を言って何が悪いんだい、ここは淫売宿だろ」

 子猿め、と金切り声をあげ王婆さんが殴りかかる。鄆哥は背負っていた籠を通りに放り投げ、婆さんの腰にしがみついた。その勢いで壁まで押して、婆さんを押さえつける。

 子猿め、と王婆さんが叫ぶと同時に店に誰かが入ってきた。

 それは武大だった。武大は裾をたくし上げ二階へと向かってゆく。王婆さんは武大を止めようとするが、鄆哥に押さえつけられ身動きができない。

「武大が来たよ」

 そう大声を出すのが精いっぱいだった。

 その間に武大は二階へと上がり、戸に手をかける。だが閂でもかけているのか、いくら力を入れても戸が開かない。

「おい金蓮、そこにいるんだろう。夫を裏切りやがって、出て来い」

 がたがたと戸を揺らしながら武大が叫ぶ。

 部屋の中の二人は婆さんの声を聞き、魂が消し飛ぶほど慌てた。西門慶は一目散に寝台の下へ隠れ、潘金蓮は内側から戸を抑えた。

 武大とはいえ男の力に変わりはない。戸を抑える潘金蓮の腕も震えてきた。潘金蓮は隠れている西門慶に向かって叫んだ。

「あんた、普段は拳法だ棒術だなどと偉そうなことばかり言ってるくせに、いざとなったらてんで頼りないじゃないのさ。あんな張り子の虎に縮みあがっちまって」

 潘金蓮の言葉に西門慶はやっと寝台の下から這い出てきた。

 服の埃を払い、

「ちょっと慌てただけだ。後は任せろ」

 と言って潘金蓮を横にどかした。

 急に戸が開き、武大が勢いあまってよろけるように部屋へと入ってきた。

 目の間に男の足が見えた。豪華な刺繍がしてある靴だと思った。その靴が突如、宙に浮き武大の鳩尾(みぞおち)あたりに食い込んだ。

 武大は、げっと血を吐くとそのまま仰向けに倒れてしまった。倒れた武大を跨ぐように、その靴の持ち主が部屋を出てゆく。かすむ視界の中で武大は見ていた。それはやはり生薬屋の西門慶だった。

 鄆哥は物音を聞きながらも必死で王婆さんを抑えていた。やがて階下へ降りてくる足音が聞こえた。

 うまくいったか、という思いは即座に消え去った。現れたのはなんと西門慶だったのだ。旗色が悪いと見た鄆哥は婆さんを突き放し、通りへ駆け出すと籠を拾って逃げ去ってしまった。

 西門慶も去ってしまい、店は静寂に包まれた。

 おそるおそる二階へ行った王婆さんは倒れている武大を見た。口元から血を流し、顔面は蒼白だった。婆さんは潘金蓮に手伝わせ、武大の家まで運ぶと寝台に寝かしつけた。

 翌日になっても武大は回復しなかった。しかし潘金蓮は看病するどころか蔑むような目で武大を見おろすと、いつものように西門慶と会うために出かけて行った。

 残された武大は、蝋燭の火も消せないような微かな息をするだけであった。

 

 何とか喋れるまでになった武大だったが、潘金蓮はこの数日の間ずっと西門慶との密会を楽しんでいた。いやもはや忍んでなどいない、公然と浮気をしているのだ。

 ある日、武大は息もとぎれとぎれに言った。

「お前らのした事は許せないが、俺には何もできん。だがこのままですむと思うなよ。お前らの悪だくみをじきに帰ってくる弟が知ったらどうなるかな。もしすまないと思う気持ちがあるなら今からでも優しくしてくれ、そうすれば俺は何も言わないと約束するよ」

 三寸丁の穀樹皮ごときがあたしを脅すのかい、と潘金蓮は思ったが確かに武松が知ればただではすむまい。武松はたとえ女であっても冷酷非情になれる男だ。潘金蓮は砂のように粉々になった盃を思い出していた。

 潘金蓮はその言葉を西門慶と王婆さんに伝えた。西門慶は冷や汗をかいて言う。

「お前にのぼせあがってしまい、奴の弟の事を忘れていた。私など虎殺しの武松の足元にも及ばない。どうしたら良いだろうか」

 だが王婆さんは平然とした様子で二人に尋ねた。

「あんたらの望みはどっちだい。短い夫婦かい、長い夫婦なのかい」

 潘金蓮が婆さんに意味を問う。

 暗い目をしながら婆さんが説明する。

 短い夫婦で良いならば西門慶と潘金蓮はきっぱりと別れ、良い夢だったと諦める。しかしこれからもずっと一緒にいたいとなれば考えがあるのだ、という。

 潘金蓮は思った。これからもうだつの上がらないであろう武大と一生添い遂げるのか。しかも今回の件を知られたからには、今までと同じという訳にはいかない。これまでとは反対に武大に頭が上がらないことになるのだ。

 潘金蓮は頭を振る。そんな事など到底耐えられる訳がない。答えはすぐに決まった。

「こいつを失ってたまるものか。毒を食らわば皿までだ」

 と西門慶も同じ考えを示し、二人は見つめ合う。

「やっぱりそうなりましたね」

 王婆さんがにっと笑い、隙間だらけの歯を見せていた。

 

 冬の厳しさも和らぎ、風もほんのり温かみを増してきた。

 武松は陽穀県に戻ると両腕を伸ばし、大きく息を吸い込んだ。

 思ったよりも遅れてしまい、すでに三月になってしまった。

 武松は知県に完了報告をすると、その足で紫石街へと向かった。

 役所通りに武大がいなかったので、約束を守ってすでに家へ戻っているころだろう。

 だが武松はついに兄に会うことはできなかった。

 家で武松を出迎えたのは、武大の小さな位牌だけであった。

bottom of page