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悲愴

 いつも売りに行く炊餅の半分の量だけを準備して、武大は出かけて行く。

 商売が終わると、日も高いうちに帰ってきて、戸には閂をかけ窓の御簾(みす)を下ろし、じっと家に閉じこもってしまう。

 これは全て武松の指示によるものであった。

 武松が任務で東京へ行っている間、武大を守るものがいなくなる。潘金蓮の本性を知った武松は、できるだけ武大を家にいさせる事で、潘金蓮の浮気の虫を抑えようとしたのだ。

 潘金蓮は夫の事を腰抜けだの腑抜けだの騒いでいたが、武大はしっかりと武松の言いつけを守るようにしていた。

 やがて十日ほどもすると言い合うことも少なくなり、潘金蓮は武大が帰ってくる時分になると何も言わずに御簾を下ろし、夫を待つようになっていた。

 そんなあるうららかな陽気の日、いつものように潘金蓮は御簾を下ろすために外へ出ていた。そして三叉竿で留め具から御簾を外そうとした時である。

 潘金蓮は持った竿を滑らせてしまった。さらに折悪しく、その竿が通りかかった男の頭に当たってしまった。

「あ、申し訳ございません。お怪我などはされてませんか」

 男は頭を押さえ、顔をあげると潘金蓮をにらんだ。だがすぐに男の表情が緩み、微笑みまで浮かべた。

「いや、大丈夫です。お気になさらずに」

 男は整った顔立ちですらりと背が高く、どこか瀟洒(しょうしゃ)な雰囲気であった。

「本当にすみません」

 何度も謝る潘金蓮に大丈夫だと言い、男はその場を去って行った。

 男は角を曲がると塀にもたれて今会った女性、潘金蓮の事を思い返していた。頭の痛みなどとうに忘れ果てている。

 なんと美しい女性だ。気は強そうだが美しい顔、柳のような腰つき、小さく蓮の花のような足、どれもが男の脳裏に焼き付いて離れない。

「西門(せいもん)の旦那もうまく竿に当たったもんだ、これは面白くなりそうだわい」

 一部始終を見ていた隣の茶店で王婆さんが、隙間だらけの歯をのぞかせてくつくつと笑っていた。

 

 姓は二字で西門、名は慶(けい)といった。この西門慶という男、陽穀県の役所前通りに生薬屋を開く金持ちで、さらに武芸もかじっており腕にもかなりの覚えがあった。さらに近ごろ役所にも出入りしていろいろと口を出すほど力をつけてきており、周りからも一目置かれる存在であった。

 西門慶はしばし思案すると、元の道へ戻り王婆さんの店へと入っていった。

「あら西門の旦那、先ほどの挨拶はえらい気張りようで」

「なんだ、見ていたのか。ならば話は早い、あの女は誰なんだい」

 西門慶は笑って尋ねるが、王婆さんはあくまでもとぼけた感じで、

「あの女は厄病神の五道将軍の娘さんですよ。そんな事を聞いて、どうなさるんです」

 とにやついている。

「おい、茶化すなよ。ちゃんと教えてくれよ」

「へえ、知らないんですかい。あの女の旦那は毎日、役所前で食べ物を売ってますよ」

 西門慶はあごに手をやり、少し考える。

「棗糕(なつめもち)売りの徐三の女房かい」

「いいえ違います。あの男だったらお似合いなんですけれどねぇ」

 と王婆さんは首をふってみせる。

 西門慶は、あの男か、ではあいつか、と何人か名前を出すが婆さんは首を縦にふらない。

「一体誰なんだ、降参だ教えてくれよ」

 王婆さんは、得たりと口元を歪めた。

「きっと驚かれますよ。あいつの旦那ってのは炊餅売りの武大なんです」

 西門慶は一瞬魂が抜けたように目を丸くすると、弾けたように笑い転げた。

「ははは、なんと三寸丁の穀樹皮の武大だと。本当なのか、それは」

 ええ本当ですとも、という王婆さんの返事にさらに笑う西門慶。

「なんとまったく、どうしてまた武大なんかにあんな女が」

「本当ですよ旦那。昔から駿馬は薄のろを乗せ、美人は醜男(ぶおとこ)に抱かれると言いますから」

「本当だな、まったくもったいないものだ」

 その後、西門慶は茶代のつけがいくら貯まっているかなど、しばらく四方山話をして店を出て行った。

 だがいくらも経たぬうちに西門慶が戻ってきた。

 店と武大の家の間を行きつ戻りつしていたが、やがて茶店の店先の椅子に腰をおろし、ため息をひとつついた。

「どうぞ旦那さま」

 まるで待ち構えていたかのように王婆さんが湯呑みを差し出す。目を武大の家に向けたまま西門慶が茶を受け取り、一口すする。

「うむ、この梅湯は美味いな。ほかに取っておきのはあるかい」

「あたしゃ長いこと仲人をしてますが、もう取っておきはいないんですよ」

 西門慶は呆れた顔で言う。

「おいおい、俺はお茶の事を言ったんだぜ、誰が仲人の話なんかしてたんだ」

「あらそうですかい、あたしにはそう聞こえたんですがね」

 抜け抜けと言う婆さんに西門慶が聞く。

「まあいいさ。しかし冗談じゃなく仲人をしてくれるんなら、良い縁を取り持ってくれはしないかね、お礼はたんまりとするから」

「あら、お宅にはたくさんお妾さんがいらっしゃるじゃないですか」

「まあそうなんだが、なかなか気に入ったのはいないのだよ」

 王婆さんは目を細めて言った。

「それなら一人良いのがいました。けど器量は良いのですが、少し年をとり過ぎてまして」

「一つや二つくらい上なら全然構わないさ。いくつなんだい」

 王婆さんは袖で口元を押さえ、勿体ぶるようにして答えた。

「確か、戊(つちのえ)寅(とら)生まれの寅年だから、今年でちょうど九十三で」

「この婆あ、まったくふざけやがって」

 呆れた西門慶は笑いながら店を出て行った。王婆さんは湯呑みを片づけながら、目を細めて西門慶が去った方向を見ていた。

 それから夕方になり、灯りをつけようと店先へ出た王婆さんは再び西門慶がこちらにやってくるのを見た。

 来るとは思っていたが本当に来るとは、と少し呆れつつも西門慶に茶を出し、先ほどと同じようなやり取りを繰り返す。

 やがて閉店の時間になり、西門慶は名残惜しそうに武大の家を見つめた後、やっと家へと帰って行った。

 どうやら西門慶の心は完全に潘金蓮に惹かれているらしい。

 ここはひとつあたしも旨い汁を吸わせてもらう事にしようじゃないか。

 王婆さんは手をこすり合わせ舌なめずりをすると頭の中で算段を巡らせはじめた。

 

 本当にいた。

 まだ早朝である。

 王婆さんが店の戸を開けると、そこには西門慶が通りを行ったり来たりしていたのだ。

 呆れながらも婆さんは昨晩立てた算段を思い返す。この刷毛(はけ)野郎め、たんまりふんだくってやるからね、と思いながら素知らぬ顔をして淡々と店を開ける。

 やがて西門慶がやってきて挨拶をしてきた。王婆さんは驚いた顔をして挨拶を返す。

「あらあら西門の旦那、しばらくぶりじゃございませんか」

 ふふ、と西門慶も笑い、茶を注文する。西門慶は昨日と同じように世間話をするとまた出て行ってしまった。

 しかし数刻も経たないうちに戻ってきて、また茶店に腰をおろした。とぼけた顔で王婆さんも挨拶をする。

「あら旦那さま、お珍しい。いつお目にかかって以来でしたかね」

 西門慶は笑い、胴巻きの中から何やら取り出して卓に置いた。

「たまってた茶代だ、とっておけ」

 それは一両の銀子であった。つけにしていた茶代の数十倍もの金額である。

 心中にんまりとしながらも、こんなにいただけませんと王婆さんが言うと、いいから取っておけと西門慶が言う。

 もちろんいただくつもりさ、とほくそ笑みながら婆さんはそれを懐にしまい込んだ。

 西門慶は茶をすすりながら、先刻と同じようにぼうっと武大の家を見つめている。

「何かお悩みでもおありですかい、旦那」

 王婆さんの言葉に目を輝かせて振り向く西門慶。

「わかるかい、婆さん。実は胸の内に秘めていることがあるんだが、当てられるなら五両かけても良いよ」

 王婆さんが即答する。

「もちろんわかりますよ。あの向かいの家の武大の女房の事でしょう」

 西門慶は驚いた顔をして、実はその通りだと答えた。

 王婆さんは、子供が見たってわかるさと思いながらも、あら偶然当たりましたと喜んでみせた。

 西門慶は続ける。

「あの日、竿を当てられてからというもの、あの人の事が頭から離れなくて何も手につかんのだ。婆さん、あの人を手に入れる何か良い手はないかね。うまくまとめてくれたら、棺桶代の十両を出すよ」

 その言葉を待っていた、とばかりに王婆さんは身を乗り出し、声をひそめて西門慶に何やら語りだした。

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