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悲愴

 似ても似つかぬ兄弟だった。

 弟の武松は身の丈八尺の筋骨隆々な男であり、かたや兄の武大(ぶだい)は五尺にも満たない小男だった。さらに武大は色が黒いことから、地元のごろつきどもから三寸丁(さんずんてい)の穀樹皮(こくじゅひ)などと呼ばれていた。

 武大は武芸とも縁遠く、争いを好まない男だった。

 だが、武松が起こした不始末にいつも頭を下げてかばってくれていた。兄を守るつもりで、守られていたのは武松の方だったのかもしれない。武松はそんな兄のためにも、と崇山(すうざん)で技を磨くことを決意し、故郷を去った。

 しかし故郷の清河県にいるはずの兄が何故この陽穀県にいるのだ。

 武大は答えた。

「実は、嫁を貰ってな」

 武松が去ってからほどなくして、だという。

 妻の名は潘金蓮(はんきんれん)といった。

 清河県の、ある金持ちの小間使いであったという。年は二十歳(はたち)ほどで器量が良く、その金持ちは彼女に手を出そうとした。しかしそれを断ったどころか、金持ちの妻に告げ口してしまった。これに怒った金持ちは嫁入り道具一式を用意し、腹いせに武大にただでくれてやる事にしたのだ。

 何の冗談かと、驚いたのは当の武大だった。丁重に断りを入れたが、嫁入り道具などはすでに武大の家に運び込まれており、さらに身寄りのない潘金蓮のことも考えると、武大は彼女を娶ることに決めた。

 美しい潘金蓮が醜男の武大に嫁いだことで、羊の肉が犬の口に入ってしまったと、ごろつきどもは暇があれば武大をからかいに来る始末。彼らの嫌がらせは日を追うごとにひどくなり、さすがにいたたまれなくなった武大は仕方なくここへ引っ越してきたのだという。

 そんな事があったのか。

「今まで迷惑をかけ通しだった。これからは俺が守るよ、兄さん」

 よせよ水臭い、と笑いながら武大は家へと案内した。

 陽穀県の紫石街(しせきがい)に武大の家があった。戸を開け、奥へと声をかける。

「おい、帰ったよ。今日は一体誰を連れて来たと思う」

 武大の表情は本当に誇らしげだった。

「そんな大きな声を出して。一体、何の騒ぎなの。仕事はどうしたのよ」

 言いながら女が奥から出てきた。武大の妻、潘金蓮である。なるほど確かに美しい女だった。

 金蓮は武松を見ると、驚いたような顔をした。

「こいつが弟の武松さ。噂になっていた虎殺しの男とは、弟のことだったのさ」

「まあ、この人がいつも話していた弟さんなの」

 そうだ、と武大は武松を二階の客間へと案内し、金蓮に酒食の用意するように言いつける。

 だが金蓮は武大に言い返す。

「なにさ、せっかく弟さんが見えられたというのに、隣の王婆さんにでも頼めば良いじゃないの」

「そうだな、じゃあ弟のことは頼むよ」

 武大は妻の言葉に従い、階下へと消えた。

 武松は苦笑いしながら、その様子を見ていた。やはりというか、妻の尻にしかれているようだ。兄のお人好しぶりに安心する武松でもあった。

 横ではてきぱきと潘金蓮が皿や箸などを並べている。小間使いをしていただけあって、手際がよい。

 やがて武大が戻り、料理が卓に並べられた。潘金蓮が武松の杯に酒を注(つ)ぐ。透瓶香またの名を出門倒という地酒だ。強い香りが鼻をつき、食欲がそそられる。

 空いた杯に、また酒が注がれる。武大は一階と客間を行ったり来たり、忙しく走り回っている。

「まったく大した弟さんですこと。うちのとはまったく正反対じゃないの」

「いえ、兄さんは真面目な人なのです。私はいつも暴れまわって人様に迷惑をかけておりました。尻拭いをしてくれたのはいつも兄さんなのです」

 武松は潘金蓮に諭すようにそう言って、杯を空けた。

 武松は武大を座らせ、改めて再会を祝した。そしてこれまでの事を話して聞かせた。

 崇山での修業の事。役人を殴って殺したと勘違いしてしまった事。

 柴進の邸宅で尊敬する男と出会った事。そして景陽岡で虎に遭遇し、図らずもそれを退治した事。

 その時、飲んでいたのがこの酒なのだと言うと、武大と潘金蓮は驚きつつも手を叩いて笑った。

 武大は本当に良かったと喜び、潘金蓮は頬杖をつき、うっとりと武松を見つめていた。

 そしてため息を一つつき、潘金蓮が訊ねた。

「そう言えば、今はどこに泊まっているんだい。来たばかりで家なんてないんでしょう」

「今は役所の一室を借りて泊まっております。身の回りの世話も従卒(じゅうそつ)がやってくれてるので、不自由はしておりません」

 そうかそうか、という武大に潘金蓮が言う。

「あんた、なにぼんやりしているのさ。うちへ呼んだら良いじゃないの。じゃなきゃ、世間さまからなんて言われるかわかりゃしないわよ」

 は、と気づく武大。

「お前の言うとおりだな。松(しょう)よ、うちへ来ると良い。ひと部屋くらいならすぐに空けられるし、役所で生活するのも何かと肩身も狭いだろう」

 二人がそう言うならば、と武松はその好意を受けることにした。

 兄を守る、と決めた。ここには清河県のようなごろつきどもはいないようだが、共に住んでいれば何かあってもすぐに守る事ができる。

 そう決まると、さっそく武松は手配のために役所へ戻った。運よく知県がまだ残っていて事情を話すと、

「なんとお前の兄はあの炊餅(すいへい)売りの武大であったか。役所前の通りで売っていて、私も何度か食べたことがある。なかなかの味だったよ」

 ならば遠慮することはない、と同居を許可してくれた。

 その夜から武松は兄の家で起居することになった。

「本当に良かったわ。兄弟なんだから、遠慮することないんだからね」

 と、潘金蓮は武大よりも嬉しそうに笑みを浮かべていた。

 

 兄弟の再会からひと月あまりたった頃。

 その日は早朝から雲が低くたれこめ、北風が戸や窓をがたがたと揺らしていた。そして鈍色(にびいろ)の空がさらに暗くなったかと思うと、あっという間に雪が舞い始めた。雪は夜遅くまで降り続け、月の光を照り返して辺りはまさに銀世界であった。

 翌日、この大雪で腰を上げようとしない武大を急きたて仕事に行かせると、潘金蓮はそそくさと着替えを始めた。

 普段とは違う派手な着物をまとい、唇には濃いめの紅(べに)をさした。

 菜を切り、湯を沸かし朝食の準備を手際良く進めてゆく。

 準備を終えた潘金蓮は茶を飲みながら座っていた。外で物音がする度、立ち上がっては確認をしに行く。何度かそうしている内に朝餉どきは過ぎ、すでに昼近くになろうとする頃、雪を踏みしめる音が聞こえた。

 藩金蓮は顔をほころばせたが、すぐに表情を戻すと戸を開けに向かった。

「あら、お帰りなさい。遅かったじゃないの、どうしていたの」

 肩に積もった雪を払いながら入って来たのは武松だった。

「すみません、義姉(ねえ)さん。今日は役所の友達にご馳走になったんです」

「あらそうなの。寒かったでしょう、火を熾(おこ)しておいたからあたりなさいな」

 すみません、と言い武松は部屋に入ると、火鉢に手をかざす。

 ここに越してから朝食は家に食べに戻るように、と潘金蓮に言われていた。また飯の事だけではなく、何かにつけて世話を焼きたがる潘金蓮に、武松は少々居心地の悪さを感じていた。それでも兄夫婦の好意を無碍にする訳にもいかず、口には出さずにいたのだ。

 潘金蓮は用意していた食事を卓に並べ、燗をした酒を持って来た。

「兄さんはどこです」

「まだ仕事から戻ってないわ」

「じゃあ兄さんが帰って来てからいただきます」

 武松の言葉も聞かず、金蓮はさっさと杯に酒を満たした。

「いつになるか分らないもの、待ちきれないわ」

 そう言って、杯を武松に手渡す。仕方なく武松はそれを飲み干し、菜に箸を伸ばす。金蓮も杯を続けざまに空け、酒の香りのため息をつくと話を始めた。

 潘金蓮はあからさまに武松を誉め、夫である武大を貶(けな)すような事を言う。気分の良くない武松は、それに相槌を打つでもなく黙々と酒を飲んでいた。

 酔いのせいか、金蓮は次第に着物の胸元をはだけさせ、髷(まげ)も崩すと艶美な笑みを浮かべて武松を見つめるようになった。

 さらに酒が進み、銚子が空(から)になると金蓮が新しい酒を運んできた。片手に銚子を持ったまま、金蓮は火箸をいじっている武松の肩口あたりを細い指で摘むようにした。

「こんな薄着じゃ寒いでしょうに」

 武松は目を閉じ、黙ったままだ。

 すると金蓮は火箸を強引に奪い、火鉢をかき回しだす。

「あんたは火の熾し方を知らないのね。わたしがあんたの火を熾してあげるわ」

 そう言って酒の香りのする吐息をもらした。

 武松は目を閉じたまま考えていた。なるほど、自分を武大の家に住まわせたのはこういう訳だったのか。清河県でも兄のいない間に男を作っていたのだろうか。だからこそ清河県で噂になり、武大への風当たりがさらに強くなったのだろう。おそらく兄はその事を知らず、妻を疑いもしなかったのだろう。

 雪のように心が冷めてゆく武松とは逆に、身中の炎を燃え上がらせた金蓮は酒で満たした杯を半分だけ空けると、それを武松の目の前に置いた。

 しなだれかかるように妖艶な声を出す。

「ねえ、その気があるなら残りを飲んでちょうだい」

 武松が、かっと目を見開いた。

 ごう、という風の唸りに続き、ぱんと何かが弾けるような音がした。

 見ると握られた武松の拳が、杯の置かれた場所にあった。

「義姉さん、恥知らずな真似はおやめなさい」

 す、と拳を上げるとそこには砂があった。いや、それは砂のように粉々になった杯であったものだった。

「もう一度言います。こんな真似は二度としないでください。もしわたしの耳に噂でも入ったならば、この拳が黙ってはいないでしょう」

 顔を真っ赤にして潘金蓮が立ち上がる。

「冗談を言っただけじゃないのさ。真に受けるなんて馬鹿にするにもほどがあるわ」

 そう吐き捨てると、急ぎ足で部屋を後にした。

 武松は鼻から深く息を吸い込み、心を落ち着かせた。

 火鉢の中の炭だけが赤々と燃え盛っていた。

 

「いったいどうしたんだ」

 昼過ぎに戻ってきた武大が、潘金蓮を見るなりそう訊ねた。妻の目は赤く腫れており、まだ涙の跡も乾いてはいなかったからだ。

「どうしたもこうしたもあるもんですか。あんたの弟に無理やり酒を飲まされて手を出されそうになったのよ」

 潘金蓮が一気にまくしたてるが、武大は眉間に皺を寄せている。

「そんな馬鹿な、あいつはそんな事をする男じゃあないよ」

「このおたんちん、女房と弟のどっちを信用するんだい」

 潘金蓮はそう言って、袖で顔を隠すと泣き声を上げだす。困った武大は仕方なく武松の部屋へと声をかける。

「おおい、松よ。頼むから話を聞かせてくれないか」

 部屋で物音がしたかと思うと、武松が笠と合羽(かっぱ)を引っかけて外へ出て行ってしまった。

 どうしたんだ、とますます困る武大に潘金蓮は、

「あわす顔がないからに決まってるじゃない」

 といきり立っている。

 やがて二人が言い合っているところへ武松が戻ってきた。駆け寄る武大を制して、武松は告げた。

「兄さん、聞かない方が良い。このまま行かせてください」

「なにも出ていくことはないじゃないか、待ってくれよ」

 武松は武大の言葉も聞かず、連れてきた従卒に荷物を運ばせ去って行ってしまった。

 がっくりと肩を落とす武大の横で、

「立派な弟だと思って世話したら、逆に噛みついてくるなんて。厄介者がいなくなってせいせいするよ」

 と藩金蓮が悪態をついていた。

 かくして武松は元のように役所で寝泊りをするようになった。

 武大はというと、弟に話を聞かなければとは思っていたのだが、女房にきつく止められており悶々としながら炊餅を売り歩く毎日であった。

 十日あまりたった頃、武松は知県に呼び出された。

 東京の親戚の家まで贈り物を届けてほしいという依頼だった。この知県は陽穀県に赴任してから約二年と半年、まもなく異動の通達が来るころであった。この任期の間、知県はたんまりと私腹を肥やすことができた。将来の、またもしもの時の蓄えのために東京にある蔵に隠そうとしたのだ。

 ここから東京まで危険な場所は少ないとはいえ、知県は先の生辰綱強奪の件がどうしても頭から離れなかった。必ず無事に送り届けねばならない。そこで巨大虎をも退治した剛の者である武松に白羽の矢を立てたのだ。

「はっ、必ず東京まで護り通してご覧にいれます」

 力強い武松の言葉に知県も、ほっと胸をなでおろすのであった。

 夕方近くに武大が家へ帰るとすぐに、武松が訪ねてきた。嫌悪を隠そうともしない潘金蓮をなだめ、武大は弟を客間へ通した。

 これから知県の使いで東京へ旅立つことを告げてから、武松は低い声で言った。

「兄さん、これから俺が言う事を絶対に守ってください」

 武大は、武松の説明を聞く前に、わかったと言っていた。

「一体何様のつもりだい。あんたも自分の頭で考えろというもんさ、何でも弟の言いなりになっちまって」

 金切り声をあげる潘金蓮だったが、武大は優しく諭すように言った。

「間違いないのだ。弟に任せていれば間違いはないのだ」

 武松が微笑み、武大も微笑んでいた。

 潘金蓮だけが横で、きいきいと悪態をついているばかりであった。

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