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落草

 定遠(ていえん)の小さな村、朱武はそこで生まれ育った。家は裕福とは言えなかったが、親が書物を与えてくれたおかげで読み書きも早くにできるようになった。

 書物の中でも特に戦記ものにのめり込むようになり、いつしか古今の軍略や兵法などを諳(そら)んじるようになった。長じると読み書きなどを村人にも教えるようになり、今は庄屋の子供たちの家庭教師となっていた。

 その庄屋は近隣でもあまり評判が良くなかった。庄屋は役人と昵懇(じっこん)で、事あるごとに小作人から搾り取っては私服を肥やしていた。

 朱武も遠回しに諌めたりしたのだが、たかが家庭教師ごときが、とかえって叱責をうける羽目になった。

 だが宋国全体の現状が同じであり、この事が村を存続させていたというのは皮肉以外の何ものでもなかった。

 ある日、朱武が庄屋に来ていた時である。屋敷内が騒がしくなり、使用人たちが子供たちを屋敷の奥へと連れて行った。何事かと尋ねると村に山賊が現われ、どうやらこの屋敷に向かっているらしいというのだ。

 庄屋がひきつった顔で現われると、朱武に向かって、兵法に詳しいのなら何とかしろ、と言い放った。そして奥へと走り去った。

 無茶な、と朱武は思ったが他の家人たちもすがるような目でこちらを見ている。覚悟を決めた朱武は二刀を腰にたばさみ、外へ向かった。

 

 跳澗虎(ちょうかんこ)。槍の柄の反動を使い、縦横無尽に飛び回るさまから陳達はそう渾名されていた。

 白花蛇(はくかだ)。陳達と馬を並べている楊春の渾名である。大桿刀(だいかんとう)を振り回し、色白で繊細な見かけによらず、時に残酷な面をも見せることからそう呼ばれたという。

 陳達は鄴城(ぎょうじょう)の出、楊春は浦州(ほしゅう)解良(かいりょう)の出身。共に重税に耐えかね流浪の身となっていたが、ひょんなことで出会った二人は意気投合。役人の横暴に対抗するため山賊へと身をやつし、各地で暴れ回っていたのだ。

「この村の庄屋もかなりの悪玉らしいな、楊春」

「ああ、役人と懇(ねんご)ろになり、小作人たちは悲鳴を上げているそうだ」

「そいつは退治しなくちゃいけねぇな」

 二人は屋敷の前まで来ると馬を止め、配下を後ろで待たせた。

「おい庄屋、お前が今まで小作人どもから借りていたものを返してもらいに来たぜ」

 陳達は大声で叫ぶが、返事をする者はない。

「無理やり奪ってもいいんだぜ」

 楊春が右手を軽く上げ、配下に突撃の準備をさせる。

「待ってくれ」

 朱武が平静を装い、屋敷の外に出る。手を刀の柄に添え、いつでも抜けるようにしている。

「お前がこの村の庄屋か。一人で出てくるとは度胸があるじゃねぇか」

「違う、私は庄屋ではない。ここで家庭教師をしている朱武というものだ」

「家庭教師が何の用だ。さっさと庄屋を出しやがれ」

「だから待ってくれと言っている」

「おい楊春」

 陳達は苛立って突撃の合図を出させようとした。

「義賊が人の話も聞かず、あまつさえ強盗を働くのか」

 朱武の言葉に楊春が手を止める。

「兄貴」

「聞いたか楊春。こいつは俺たちを義賊だと思っているらしい」

 朱武は陳達と楊春を見定めるように見ると言った。

「違うのか。お前たちはこの屋敷に着くまでに、他の人々や家を襲いはしなかった。狙いはこの屋敷だけだろう。そうでなければ今ごろ村中に死体の山が築かれていただろう」

 朱武はたたみかけるように言う。

「大方、やむなく落草した身とお見受けする。いつ何どき同じ目に遭ってもおかしくない今の世だ。いたずらに刃(やいば)を血に染めることないその矜持、賊ながら敬意に値しましょう」

「兄貴」

 楊春は陳達の判断を待っている。陳達は眉にしわを寄せ、朱武を睨みつけていた。

「朱武とやら。いかにも俺と楊春はやむなく賊へとなり、悪徳役人や小作人を苦しめる地主連中から奪ってきた。なるべくそれ以外の者を傷つけるつもりがない事は確かだが、そいつらに分け与えた事はない。それでも我らを義賊と呼ぶのか」

「そうだ。だからこの場は私に任せてほしい。誰も死なずに済むならそれが一番よかろう」

「面白い男だ、朱武」

 そう言って笑う陳達を楊春は見ていた。なるべく傷つけたくはない、とは言っていたが陳達の気短(きみじか)な性格ゆえそうならない事が多かった。今のように話し合おうとした者もいたがことごとく交渉は決裂、槍の餌食となっていたのだ。

 単身で我らにむかう豪胆さ、陳達を説き伏せる手管、この朱武という男ただ者ではない。楊春は屋敷へと戻る朱武の背を見ながら思っていた。

 

「なんだと、馬鹿な事を言うな」

 屋敷の奥にある隠し間で庄屋は怒鳴った。

「庄屋さま、ご自分やご家族の命と金とどちらが大切なのですか。下手をすれば村ごと潰されてしまいます。そうなれば元も子もないでしょう、命はひとつしか無いのです」

庄屋は渋い顔をしている。それでも金が惜しいというのか。そしてやっと決断をした。

「背に腹は代えられんか。だが、半分だ。わしが奴らに出すのは蓄えの半分だけだ。あとはお前が上手くやるのだ」

 半分だけだと。この状況でもこの男は命より、家族や村人の命よりも金を選ぶというのか。この男を守る必要があるのか。

 朱武はふと浮かんだ考えを振り払うように首を振った。

  

人命を損なうことなく山賊を追い返した朱武に人々は賛辞を贈った。軍略や兵法を好む彼を、人々は神機軍師(しんきぐんし)と褒めそやした。

 朱武は思った。軍師と呼ばれるような策を使ってはいない。村人に手を出すつもりがない事を見抜き、陳達らを義賊と呼んだ。それを策と呼べるものか。朱武が謙遜すればするほど賞賛は高まった。

 面白くないのは庄屋だ。自分は財産の半分も奪われたのだ。それなのに一銭も出していない朱武が英雄扱いされるとは。そればかりか金を奪われたのは己の日頃の行いのせいだ、と揶揄(やゆ)される始末。

「なにが神機軍師だ」

 そう毒づいていると、ひとりの小男が現われた。普段から庄屋の腰巾着をしている男である。

「旦那さま、ご機嫌よろしゅう」

「機嫌が良いように見えるのか。一体何の用だ。お前の相手をしている暇はないのだ」

「へへ、いいんですか。せっかく面白い話をお持ちしましたのに」

「面白い話だと」

「はい、あの軍師さまの話です」

 

 いつものように朱武は屋敷へ赴いた。だが部屋に入ると突然、取り押さえられた。抵抗したが縄をかけられ動けなくなった。

「年貢の納め時だ、神機軍師」

 頭上から庄屋の声が聞こえた。突っ伏したまま朱武が言う。

「何の話です」

「とぼけおって。お前があの山賊どもと通じていたという証拠があるのだ、観念するんだな」

 朱武は弁明の暇を与えられる事もなく役所へと連行され、知県の前に跪かされた。

「こ奴が朱武か」

「はい知県さま、何とぞお裁きを」

「朱武とやら、先日村を襲った山賊どもと通じているという事だが、間違いはないな」

「違います知県さま。失礼ですが、何を証拠に」

「この男が、おぬしと山賊どもの会話を聞いていたのだ」

 そこにいたのは庄屋の腰巾着だった。

「おぬしは山賊どもの事を義賊だと言っていたそうではないか。賊どもを持ち上げるなどそれだけで大罪。しかも一人で山賊の前に出て無事となると、奴らと通じていたという以外に理由はあるまい」

「朱武、山賊の一味とみなし極刑を申しつける。刑の執行は三日後とする」

「さすが知県さま、公正なお裁きで」

「そんな」

 馬鹿な。これは裁きではない。始めから結論ありきの茶番ではないか。

「わしの金を奪うからこうなるのだ。それとも何か策があるのかな、軍師どの」

 裁きの間に庄屋と知県の下卑た笑い声が響いていた。

 

 三日後。処刑場。首切役人が斧のような刀を研いでいる。柵の外には村人たちの姿が見える。

 朱武は空を見上げた。西の空に雲が出てきた。もうじき雨だろうか。自分でも驚くほどに冷静だった。

 処刑の時が近づいてきた。黒雲が空一面に広がっている。

「もう時間だ。早く刑を執行しろ」

 雨に濡れるのを嫌ったのか、知県が叫んだ。首切役人が刀を構える。

 ぽつり、ぽつりと雨が地面に染みを作った。そしてにわか雨。雨粒が痛いほどの勢いだ。朱武は待っていた。だが刀が振り下ろされる事はなかった。

 首切役人が倒れていた。いつの間にか柵が破壊されていた。雨音に混じって蹄の音が近づいてくる。

「朱武どの、危ない所でした」

 楊春が縄を切り、陳達が馬の上に引き上げた。役人たちはやっと事態に対応しだしていた。

「見ろ、やはり賊と通じていたのだ」

 庄屋が叫んだが、陳達の配下に切り殺された。陳達の馬が二人を乗せたまま駆けだした。

「あなたが処刑されると聞き、救いに来ました」

「なぜ私を」

 後方では楊春が追っ手を遮っている。陳達は配下を引き連れ駆け続ける。

「朱武どのは我らを、たかが山賊風情を義賊と呼んでくれた。俺は嬉しかった。楊春も同じだ。だからそれに応えたかったのだ」

 命を救ったはずの庄屋に裏切られ、山賊に命を救われようとは。

「ありがとう」

 朱武は知らず涙を流していた。だがこの雨では誰もそれに気づくことはなかった。

 やがて雨が上がり、楊春も合流した。追っ手の姿はもうない。逃れられたようだ。見ると目の前に大木がそびえ立っていた。陳達と楊春、そして朱武は馬をそこで休ませ、人心地ついた。

「あらためて礼を言う。ありがとう陳達、楊春」

「おいおい、やめてくれ」

 頭を下げる朱武を陳達が止める。

「あんたが思い出させてくれたんだ。俺たちは山賊ではないと、なあ兄貴」

「楊春の言うとおりだ。朱武どの、どうだ我らと義兄弟になってはくれぬか」

「私は命を救われた。否やがあるものか。桃園の誓いとまではいかぬが、おあつらえ向きに大きな木もあるしな」

「俺は木には登らんぞ」

 陳達の言葉に朱武は笑った。久しぶりのような気がする、心から笑ったのは。陳達、楊春も笑っている。

 年齢順で長兄が朱武、次兄は陳達、そして楊春の順になった。葉を杯がわりに、雨を酒がわりに三人が向かい合い、杯を交わした。

 空はすっかり明るさを取り戻していた。

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