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受難

 しばらく行くとにぎやかな町に着いた。

「ここで一休みしましょうか」

 と張千が言った。

「しかし、あの店の酒は効いたなあ。俺たちも疲れていたから、一口で酔いつぶれちまった。帰りにまた寄るとしようぜ」

 李万がそう言い、張千も笑う。宋江だけは、愛想笑いを浮かべていた。

 あれから李立の家に一晩泊まり、李俊らと別れた翌日、昼ごろの事であった。

 通りに人だかりができていた。宋江がのぞいてみると、一人の男が立っていた。

 脇に槍や棒が立ててあり、大きな箱が置いてある。どうやら薬売りのようだった。

 では、と膏薬売りが棒を手にした。

 ひゅんひゅんと音をたて、棒が大きくうねる。それが突如、突きに変わり、ごうという風をはらんだ音を立てる。さながら虎が尾を払うかのようだ。

 次に槍に持ちかえ、演武は続く。

 棒よりもさらに勢いを増し、技の鋭さも増した。空気を虎の爪で裂くが如き疾風の勢いだった。

 最後に徒手空拳の技を披露する薬売り。何かを掴むように指を曲げ、時に勇壮に、時に繊細に手足を舞わせる。そして両の手首あたりを合わせ、虎の顎(あぎと)が噛みつくように両手を前に突き出した。ぴたりと動きが止まり、聞こえていた虎の咆哮も消えた。

 しばらくの静寂ののち、人だかりから喝采が巻き起こった。

 宋江は見入っていた。己の素人武芸とは比べるべくもない。弟子である孔明、孔亮もこの膏薬売りの技には敵わないだろう。

 薬売りが一枚の皿を置くと、拱手をして口上を述べはじめた。

「わたくし遠方よりこの地にまかりこしました。皆さまを驚かせるような技はございませんが、何とぞご贔屓にあずからせていただきたい。こちらには様々な薬がそろっております。特に打ち身用の膏薬は効き目あざやか。ぜひ、お買い上げいただけますよう。また手慰みの棒に感じ入りましたならば、些少でもお入れくださるようお願い申します」

 人々の前に皿を廻らせるが、みな一様に苦い顔をするだけで金を入れる者はなかった。 薬売りの顔に落胆の色が浮かんでいる。

 宋江は不思議に思った。どうして誰も金を出さないのだ。これほどの武芸を見て、薬を買わなくとも、ただ見をするというのか。

 薬売りはもう一度皿を回した。しかしそれに金を入れる者は、やはりいなかった。そこで宋江は一歩進みでると、皿に五両の銀子を入れた。軽やかな音が響いた。

「素晴らしい技を拝見できて、とても嬉しく思います。ですが私は罪人の身、わずかですがお納めいただきたい」

 薬売りは背を伸ばし、拱手すると恭しく礼を述べた。

「噂に聞こえたこの掲陽鎮、道理の分かったお方がいらしゃらないとは。通りすがりであるのに、また囚われの身であるのに五両もの銀子をくださった。この五両、他のお方の五十両にも値いたします」

 薬売りが皿を掲げるようにして宋江を讃えた。

「おやめください。あなたの武芸に感動したまでの事です」

 薬売りに手を振る宋江。その時、その手が何者かに掴まれた。

「お前、一体どこの懲役野郎だ。ひと様の土地で勝手な事をしやがって」

 背も高く体格も良い男だった。若い侠客のようで、宋江を睨む目には怒りの色が浮かんでいた。

「俺たちの縄張りで勝手に薬なんぞ売るから、こいつに金を出すなと住民には言いつけてあったのさ。それを勝手に金など払って、この掲陽鎮に泥を塗りやがって」

 自分の金を払っただけだ、と弁明するが男は聞く耳など持っていない。さらに侠客は宋江の手首を捻りあげ、拳を打ちこもうとした。だが拳は、飛び込んできた薬売りの棒に弾かれ、それを果たせなかった。

「手前(てめ)ぇ」

 痺れる手をさすりながら、侠客は宋江を放っておき、薬売りに矛先を向けた。袖をまくり、大股で薬売りに近づいてゆく。

「このご仁に、手は出させん」

 薬売りが棒を放り投げ、拳を構えた。人だかりの真ん中で、二人が激突した。

 侠客は腰を入れ、拳を放った。鋭く、力強い。素人拳法ではなかった。

 ああ、と宋江が叫んだが、薬売りは微かに体を傾け、それを避けた。そして薬売りが腰のあたりから突き上げるように、拳を打ちこむ。拳は正確に侠客の鳩尾(みぞおち)あたりにめり込んだ。ぐえ、という嗚咽が漏れ、侠客がよろめいた。そこへ薬売りが蹴りを放つ。侠客は体勢を崩しながらも腕でそれを受け止めた。だが勢いは強く、そのまま地面に倒されてしまった。

 薬売りは棒を構えると、侠客に突きつけた。

「まだ、やるかね」

「手前ぇら、このままですむと思うなよ」

 侠客は立ち上がると、宋江と薬売りに指を突きつけて叫び、走り去ってしまった。

 お怪我は、と薬売りが宋江の元へと心配そうにやって来る。

 ありがとう、と宋江は手首を擦りながら礼を言った。

 そんな二人に、掲陽鎮の人々は憐憫の眼差しを向けるだけだった。

 

 病大虫(びょうたいちゅう)の薛永(せつえい)、薬売りはそう名乗った。

 確かに渾名通り、虎のような技だった。

 祖父が、延安府の种老相公の元で仕える武官だったが同僚にそねまれ、栄達の道が断たれたのだという。しかし家伝の武芸は受け継がれた。薛永はそれを用いて、全国で薬を売り歩いているという。

「なんと、あなたが及時雨どのでしたか」

 驚き嬉しがる薛永に、張千と李万は自慢げなようだった。

 四人は居酒屋へと場所を移したが、すまなそうな顔で店主に断られてしまった。

 曰(いわ)く、

「あんたらが打ちのめした男はこの掲陽鎮の顔役なんです。彼から、あんたらには酒も食事も出すなと厳命されてるんでさ。じゃなきゃ、店を叩き壊すって」

 そう言われては仕方あるまい。店が悪い訳ではない。

「宋江どの、申し訳ありません。私があの男を打ちのめしたばかりに」

「いや薛永どの、あなたは悪くないのです。お気になさらぬように」

 元はといえば、旅の者に排他的なあの侠客の差し金なのだ。

 薛永は後ろ髪を引かれる思いで、宋江と別れる事にした。宋江も別れを惜しんだが、薛永も江州へ行くと言っていた。縁があれば、また会えるかもしれない。

 別れを告げ、宋江と役人たちは宿を探す事にした。だが、宿でも同じだった。

 宋江たちを泊めてはならない、と言いつけられているのだという。

 張千と李万が、公儀だとつめよっても、例の侠客の方が恐ろしいらしい。入る宿屋、入る宿屋すべて同じ有り様で、気付けばすでに掲陽鎮の外れにまで来てしまった。

 夕日が三人の顔を紅く染め、烏が蔑むように鳴いていた。

 掲陽嶺に見切りをつけた彼らは街道を進んだ。一歩進むごとにその足元が暗くなってゆく。この先に果たして宿があるのだろうか。誰もが不安な気持ちであった。

 あれを、と李万が叫んだ。

 街道から少し離れた林の向こうに、ぼんやりと明かりが見えた。

 三人は膝ほどまである草をかき分けながら、すがる思いで明かりを目指した。二里ほど歩くと、大きな田舎屋敷が現れた。

 これぞ天の助けだ、と門を叩く。応対に出た下男に、宋江らは腰を低くして事情を説明した。下男が話を通してくれ、屋敷の老主人は快く受け入れてくれた。

 老主人に挨拶と礼をした。宋江は思った。父と同じぐらいだろうか。背は高くはなく一見好々爺に見えるが、その眼からは鋭さが時折感じられた。

 三人は飯と菜と汁物を平らげ、再度老主人に礼を言った。

 寝間へ行く前に三人は小用を足そうと、外へと出た。暑さも少しは和らいでおり、空には満天の星が瞬いていた。宋江は麦打ち場の脇で星を眺めていた。

 圧倒されるような煌きだった。北斗七星が見える。晁蓋らが自らをなぞらえていた。星の巡り合わせ、とはよく言うが自分もこの星のひとつなのだろうか。

 星がちかちかと、何か囁いているように瞬いている。

 何を言っているのだろう。

 目を閉じ、耳を傾けてみると、張千と李万が宋江を呼ぶ声が聞こえてきた。

 

 門が激しく叩かれ、誰かが叫んでいる。

 どやどやと屋敷へとなだれこんで来たようだ。

「一体何事だ、こんな夜中に」

 老主人の声がする。

「兄貴はいるかい、父さん」

「あいつは酔って奥で寝ているが、どうしたというのだ。また喧嘩でもしたのか。あいつを駆りだせば、必ず事が大きくなる。止められる者などいないのだぞ」

 宋江がそっと戸を開けて見ると、老主人と話しているのは、昼間のあの侠客だった。朴刀を手にし、後には人相の悪い者たちが七、八人ほどいた。男の手下なのだろう。

 ここの主人はあの侠客の父親だったのだ。さらに凶暴な兄がいるのか。

 男は父に顛末を話した。薛永が、挨拶もなしに勝手に薬を売り出したので懲らしめようとしたのだという。そして結果は宋江も知るところだった。

 だがその後の言葉に、宋江は声を漏らしそうになった。

 男は宿屋におしかけ薛永を捕らえたというのだ。そして宋江の事も探しており、父親でもその怒りは止められない様子だ。

 兄貴、と大声で男は屋敷の奥へと行ったようだ。

 その隙に宋江と役人ふたりは、こっそり寝間から抜け出すと麦打ち場へと出た。そこの小屋の脇に細い小路があるのを、宋江は見ていたのだ。

 裏木戸をこじ開け外に出ると、月明かりを頼りに三人は逃げた。

 やがて草が葦の穂へと変わった。

 水が流れる音がする。そこは潯陽江のほとりであった。闇の中でもその波の荒さが分かるほどだった。

 三人が手をこまねいていると、後ろから喚声が聞こえ、松明の灯りがちらちらと見えてきた。このままでは追いつかれてしまう。

 宋江ら三人は川沿いに隠れながら移動して行った。しかしこのままでは埒が明かない。

 宋江どのあれを、と張千が叫んだ。

 葦の茂みから一艘の舟が、音もなく漕ぎ出してきた。まさに渡りに舟、と宋江は船頭に声をかけ呼びとめた。

 舟は苦手だったが、そうも言ってはおられない。

 張千と李万も覚悟を決め、舟に乗り込んだ。

 

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