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受難

 塩の値が、また上がった。

 塩は国が専売しており、その価格は自由に操作できる。しかも塩は人々の生活に無くてはならない物であり、どんなに高くても買わざるを得ないのだ。

 原因は花石綱であった。

 徽宗(きそう)帝のために珍石奇木を都へと運ぶため、莫大な費用がかかる。その費用を捻出するために塩の値が上がったのだという。

「手前(てめえ)の道楽で、俺たちの首を絞めるんじゃねぇよ、まったく」

 だん、と大きな音をたて李俊が杯を置いた。

 盧州(ろしゅう)、李俊の生まれ故郷である。

 船頭の仕事を終えた李俊は、小さな居酒屋にいた。

「李俊、お上に聞こえたらお前もとっ捕まるぜ」

 と顔見知りがたしなめるが、李俊はどこ吹く風だ。かえって、捕まえられるもんなら捕まえてみやがれ、と息巻いていた。

 皿に箸を伸ばし、肴を口に入れる。韮(にら)とあさりの炒め物だ。

 む、と李俊が顔をしかめる。

「おい、味が薄いんじゃねぇか」

 店の亭主に文句を言うが、これも塩の値が上がったためだという。料理の値を上げたくないため、やむなく使う塩の量を減らしているのだ、と弁明した。

 店を出てもむしゃくしゃしたままの李俊は小石を蹴とばした。

「ちっ、お上に一泡吹かしてやりてぇなぁ」

 帰って一杯やるか、と路地を曲がり裏道へ入った時である。

 陰に隠れるようにして、二人の男がうずくまっていた。

 一人は倒れており、首のあたりから血を流していた。もう一人の男がその首を手で押さえているが、血は流れ続けていた。

 その男と目があった。今にも噛みつきそうな狂犬のそれだった。

 男は素早く立ち上がり李俊に向かって刀を突き出した。

 李俊は紙一重でかわした。しかし頬が切れたようだ。

 男はその一撃を外すと、力なくまた蹲(うずくま)ってしまった。

「おい、そいつ怪我してるじゃねぇか」

「俺たちに構うな」

 男はそう言い放った。だが李俊も食い下がる。

「構わない訳にいかないだろうが。死んじまうぞ、早く手当てしないと」

 李俊は自分の家へと男たちを連れて行った。

 首に包帯を巻き、何とか止血する。やるべき事はやった。あとはこの男の生命力次第だろう。

「なぜ、助けた。お前を殺そうとしたのだぞ」

 血に染まった手を拭いながら、男が聞いてきた。

「なぜ、ってお前」

 李俊は答えるのも面倒だった。怪我人を救う事など当たり前のことだろう、と心でつぶやいていた。

 男は童威と名乗った。首を怪我した男は弟の童猛だという。

 李俊は二人の素性を聞こうとはしなかったが、童威からそれを明かしはじめた。

 童兄弟は塩の密売をしていた。

 国が扱う塩よりも安価で、大きな儲けとなった。そして必然的に人々も闇塩を選んだ。しかしそのため密売者は厳しく罰せられる事になる。

 童兄弟は役人に見つかり、ここまで逃げて来たのだという。捕り手と乱闘になった際、童猛は首に大きな怪我をしたという訳だ。

 傷が化膿しないか心配だったが、それもなく童猛は一命を取り留めた。だがその代償は大きかった。

 童猛は声を失った。喉の深い所まで傷つけられていたためだ。

 礼を言い、去ろうとする童兄弟に李俊は言った。

「俺にもやらせてくれないか。塩の密売を」

 これだ、と童威の話を聞いた時から考えていた。

 お上に一泡吹かせ、庶民のためになる事。それが塩の密売だった。

「見ただろう。いつ命を落とすかもしれんのだぞ」

 しかし李俊は笑みを浮かべていた。

 童威と童猛は、その顔に何故か安心感を覚えていた。

 

 混江竜の李俊、その名はすぐに広まった。

 もともと船頭をしており、泳ぎも達者な李俊は潯陽江をかき回す竜として怖れられた。

 闇の塩を運ぶだけではなく、時には公の塩を運ぶ船を襲い、それを奪った。

 李俊はもちろん、童兄弟もその道で名を知らぬ者はいなくなった。

 洞穴から出てきた蛟(みずち)、出洞蛟(しゅつどうこう)の童威。潯陽江を荒らす竜の一種である蜃(しん)、翻江蜃(ほんこうしん)の童猛。

 童兄弟はそう並び称された。

 庶民は彼らを讃え、お上にとっては頭の痛い存在となった。

「すっかり暗くなっちまったな。とりあえず酒をくれ。あと適当につまみも頼むよ」

 掲陽嶺の麓にある小さな酒屋。童威はそこへ入るなり亭主にそう言った。

 はい、と愛想のない亭主が言って奥へ消えた。

 李俊ら三人の他に、店には先客がひと組いるだけだった。

 その客は四人組で、何やらこちらをちらちらと見ているようだったが、気にするな、と李俊が言い酒を飲んだ。

 何杯か酒を飲んだが、落ち着かなかった。先客の視線が気になって仕方ないのだ。

 童威が童猛と目を合わせる。こくりと童猛が頷いた。

「何ださっきからお前らこっちを窺いやがって。言いたい事があるならはっきり言いやがれ」

 朴刀の柄に手をかけ、童威と童猛が立ち上がる。

 その途端、四人の男たちが次々と椅子から転げ落ちた。白目をむき、口をだらしなく開け、よだれを垂らしている。

 李俊も素早く立ちあがると構えを取った。何が起きているのだ。

「お客さまはご心配なさらぬよう。さ、こんなものしかありませんが」

 奥から戻った亭主が牛肉の炒め物を運んできた。

「これは、どういう事だ」

 李俊は刀の柄に手を置いたまま訊ねた。この男、俺たちにも何かしているのか。童猛が酒の匂いを嗅ぎ、首を横に振る。

「そいつらはあんたらを追っていた捕り手たちさ。ここ何日か、この辺りをうろうろしていてね、李俊どの」

 一瞬で店内に殺気が満ちる。この亭主、俺の名を、素性を知っているのか。

 しかし亭主は意に介する様子もなく、転がった捕り手たちを奥へと引きずってゆく。

「こいつらは罪人を捕え裁くかもしれんが、こいつらを裁くのはこの崔命判官なのさ」

 店の亭主、李立は酷薄な笑みを、李俊らに向けた。

「李俊どのたちは俺たちのために戦ってくれている。感謝していますよ」

 童猛が牛肉を一切れ口に入れた。目を見開き、親指を立てて見せた。

 つられて李俊と童威も箸を伸ばした。

 なるほど塩味が効いていて、とても美味(うま)かった。

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