108 outlaws
受難
一
黄河を下ることはせず対岸に渡ると、江州までは陸路を進む事になった。
護送役人の張千と李万、二人とも船に酔う体質だったのだ。
「すみませんね、宋江どの。俺たちも知らなかったんで」
と二人が恥ずかしそうに弁明をしていた。
「まあ、あせらずに行きましょう。どちらにせよ先は長いのですから」
宋江はあくまでも柔和な笑顔だった。
半月ほど旅を続け、昼はすでに汗ばむほどになってきた。
前方に高い山が見えてくる。李万が地図を確かめて言う。
「どうやらあれが掲陽嶺(けいようれい)のようです。あそこを越えると長江なので、江州はもうすぐですよ」
「長江は、この辺りでは潯陽江(じんようこう)と呼ぶらしいですね。そこで船に乗りましょうか。大した距離じゃないし、俺たちも今度は我慢しますよ」
張千の言葉に三人は笑いあった。
峠を越えると麓に草葺きの酒屋があった。宋江と役人たちも腹がすいており、日も高くなったから涼むのにも丁度良い、と そこへ寄ることにした。
「誰か、おらんのかね」
あいよ、と亭主らしき男が姿を見せる。目つきが悪く、愛想の無い男だった。
濁酒(どぶろく)しかないと言うので、それと牛肉の煮込みを二斤ほど注文した。
「あいすみませんが、うちは前払いなんです」
払おうとする張千と李万を止め、宋江が懐から巾着を取り出した。その巾着を卓に置くと、じゃらりと音が鳴る。中から粒銀を取り出し、亭主に渡す。
「これで足りるかね」
充分でございます、とさっそく酒を並べてくれた。
牛肉はやわらかく、しっかりと味が染みており美味かった。濁酒も舌に残るほのかな甘い香りがなかなかのものだった。次に三人は酒を燗(かん)で頼んだ。
「世の中には酒や肉に薬を仕込んで客を盛りつぶして金品を奪い、客の肉を饅頭の餡にしてしまう店があると聞いたことがあるが、まったく信じられん話ですな」
宋江の言葉に張千と李万も、そんな馬鹿な、と笑っている。
「お客さん、ばれちまいましたか。うちの酒にも肉にも薬が入っているんで口にしちゃいけませんぜ」
亭主が不敵な笑みを浮かべ、燗を注いでくれた。
一瞬きょとんとした三人だったが、すぐに弾けるように笑った。
「ははは、怖い顔のわりに冗談が上手いな」
張千が燗酒をきゅっとやる。李万、宋江もそれを飲み、美味い、と顔をほころばせた。
からり、と箸が卓に転がった。張千が肉を取ろうとしたが、その手から落としたのだ。それを見た李万もたちまち椅子の背にのけぞるようにもたれかかってしまった。二人とも白目をむき、よだれを垂らしている。
「お二人とも、もう酔ってしまったのですか」
介抱しようと立ち上がった宋江だったが、それはできなかった。
足がしびれたようになり、もつれさせるともんどりうって床に倒れてしまった。
手も、体も痺れており、動かす事ができない。
倒れている宋江に目に何者かの足が見えた。酒屋の亭主の足だった。
口元に悪鬼のような笑みを浮かべ、目つきがさらに悪くなっていた。
だが、それを宋江も役人も見る事はなかった。
顔に傷のある男が入ってきた。後ろに凶悪そうな男を二人従えている。
「よう、景気はどうだい、李立(りりつ)」
傷の男は意外と気さくに店の亭主、李立に尋ねた。
「これは李俊(りしゅん)の兄貴。童威(どうい)と童猛(どうもう)も一緒に、どこかへ出かけるんですかい」
李俊と呼ばれた、傷のある男が席に座り、それを待って後ろの二人、童威と童猛が腰をおろした。
「仕事がひと段落ついたんでね。久しぶりにお前の顔を見に来たって訳さ」
最近はぼちぼちですよ、と李立が三人の前に杯を並べながら笑った。
「何でも良いから、飯を食わせてくれよ」
童威が腹をさすりながら喚いた。横の童猛もしきりに頷いている。
「まったく兄弟揃って、相変わらずな奴らだなあ」
そう言いながらも嬉しそうに牛肉を盛った皿を運ぶ李立。
童兄弟が飛びつくように箸を伸ばし、肉に喰らいつく。李俊は酒をちびちびやっている。
「おい李立、この酒にはしびれ薬は入ってねぇだろうな」
肉を頬張りながら童威が杯を持っている。
「へへへ、あんまりからかってばかりいると、本当に入れちまうぜ。気をつけなよ、童威」
李立は目を細め、凶悪そうな笑みを浮かべた。とても冗談を言っているようには思えなかった。
そう言えば、と李立が思い出したように言った。
「ちょうど先刻、獲物が三匹かかったんだ。流罪人らしいが相当金を持っているようだったんでな。奥に転がってるけど、見るかい」
まるで兎を獲った、という風に軽い感じで言う李立。
「まったく何が崔命判官(さいめいはんがん)だい。誰でもかれでも盛りつぶしやがって」
「それは勝手に地元の連中が呼んでいるだけだ。それに俺だって仏心をおこす事もあるんだぜ、たまにはな」
童威にそう反論すると、一同が笑った。
とりあえず見ておくか、と興味を示した童兄弟が李立と共に奥の間へ向かったが、俺はいい、と李俊は独りで杯を傾けていた。
「こいつはすげえな」
童威が、卓に乗せられた流罪人の懐から、金がたんまり入った巾着を見つけた。
ふと後ろを見ると、童猛が何かを持っていた。護送役人が持っていた公文書のようで、童猛が開封してしまったようだ。
童猛がある個所を指し、童威に突きつけた。
「なんだ、読めってのか。あんまり字は読めねぇんだが、どれ」
む、と唸り、童威は李俊を呼んだ。
「ちょっと来て、これを見てくれませんか、兄貴」
奥の間に向かい、渡された公文書をじっと見る。
「本当に、この男がそうなのか」
「わかんねぇけど、こいつにはそう書いてありますぜ」
李俊と童威のやり取りを、童猛が黙って聞いている。
何が起きているのか把握できていない李立は痺れを切らした。
「一体、何事なんですかい。この流罪人は一体誰だってんですかい、李俊の兄貴」
「すまんが、醒まし薬を持ってきてくれんか。もし本当にこの男がそうならば殺す訳にはいかねぇ。俺らは江湖の笑い者になっちまうからな」
「兄貴がそう言うんなら良いですが、こいつは一体」
いぶかしむ李立に公文書を渡す。
何とか読み進めていた李立は慌てて顔を上げ、李俊を見た。
「そうだ、どうやらこいつは及時雨の宋江らしいのだ」
何と、と驚く李立。
宋江は、四人の会話など知る由もなく、白目をむいて卓に横たわるのみだった。
深酒をした翌朝のように、頭が痛い。
うう、と唸りながらゆっくりと目を開けた。目を開けるのも辛かった。
おぼろげな視界の中に、何かが見えた。目の前に数人いるようだ。
確か峠の酒屋で一休みしていたはずだった。
強い酒だったのか、役人たちがあっという間につぶれてしまった。介抱しようとしたところまでは覚えていた。
「大丈夫ですかい、旦那」
店の亭主が心配そうな顔で覗き込んでいる。一杯の白湯(さゆ)を差し出してきた。
宋江はそれで喉を潤すと、頭を押さえながら、すみませんと礼を言った。
亭主の方がすまなさそうな顔をしていた。
日が一番高く昇り、暑さの盛りにもかかわらず宋江は身震いをした。
李立と名乗った亭主が言った。
実はここは追い剝ぎ居酒屋で、役人と宋江をしびれ薬で眠らせたというのだ。
あわや崔命判官の手にかかり、命を落とすところだったのだ。
気づくと目の前に顔に傷のある男が座っていた。
混江竜の李俊だ、と紹介された。李俊の後ろにいる二人、童威と童猛そして李立の兄貴分で、この潯陽嶺の辺りを縄張りとした顔役なのだという。
李俊が宋江を見定めるように見ている。童兄弟もじっと控えたままだ。
やがて李俊が口を開いた。
「あんたの噂、及時雨の宋江どのの噂はこの潯陽嶺にまで届いている。一体、どんな大物かと思っていたのだが」
一度言い淀んでから、李俊は続けた。
「気を悪くしないでくれよ。俺にはそうは見えないのだ」
今度は宋江がじっと李俊を見つめた。そしてやさしく微笑んだ。
「その通りです。わたしは噂されているような大物などでは決してありません」
ほう、と李俊が言った。
「なるほど、噂が独り歩きしているという訳か。だが、今日ここで命を拾ったのは、その噂のおかげなんだぜ。それがなきゃ、俺たちはあんたを助けなかっただろう」
童威と童猛もそれに首肯する。
「あんた自身は及時雨の威名を否定するだろうが、周りはそうはいかねぇ。今の世の有様を、知ってるだろう。官に虐げられた庶民の希望の光が、及時雨なんだ。この日照りのご時世に、人々は恵みの雨を待ち望んでいるのさ。だからあんたはそれに応えなければならねぇ。ここまで広まっちまった及時雨の噂はもう消えないぜ」
だから、と李俊が一口酒を飲んだ。
「あんたは噂通りの男になるしかねぇんだよ。及時雨の名にふさわしい男に」
あんたが望まずとも、だ。
そう言って、宋江に杯を渡し酒を注いだ。
「まあ、とりあえず飲みなよ」
酒に自分の顔が映っていた。
情けない顔だ、と思った。
誰もが及時雨の名を聞き、それを疑う事もしなかった。
だが彼ら、李俊たちは違った。自分などには想像もつかないような修羅場を潜り、人を見る目を持っているのだろう。
だから宋江は何だかそれが嬉しかった。
李俊は、本当の自分を見てくれているような気がしたからだ。
名にふさわしい男に、か。
考えた事もなかった。正直、及時雨という渾名など疎ましいものでもあったのだ。
しかし現実に、その名で何度か命を拾ったのだ。
及時雨の宋江、か。
宋江は杯に口をつけ、映りこむ己の顔を思い切り飲み込んだ。