108 outlaws
受難
四
男はうっそりと目を開けた。
寝台に手をつき、ゆっくりと上体を起こす。
兄貴、兄貴と呼ぶ声が聞こえる。
「なんだ春(しゅん)。気持ち良く寝ていたところを」
男は不機嫌そうに言った。
「すまない、兄貴。ぶちのめしたい奴がいるんだが、手を貸してくれないか」
男はじっと弟の顔を睨むように見据えている。
「そいつは掲陽鎮の、この穆(ぼく)家の顔に泥を塗りやがったんだ。頼むぜ、兄貴」
「なんだと、そいつを早く言え。そいつはどこだ行くぞ、春」
男は弟、穆春を押しのけるように部屋から出て行った。
その大きな背を見ながら穆春は、ごくりと唾を飲み込んだ。
兄を、穆弘(ぼくこう)を動かしてしまった。没遮攔(ぼつしゃらん)の渾名が示すように、彼を止められる者などいないのだ。薬売りに金を渡した囚人を痛めつけるつもりだったが、下手をすれば殺してしまうかもしれない。
兄を止められる者などいないのだ。弟の自分でさえ、だ。
穆春はいつも穆弘の背を見てきた。兄のついでのように小遮攔(しょうしゃらん)などと呼ばれている事が悔しくもあった。兄の背は尊敬の対象であると同時に、畏怖の対象でもあるのだった。
穆春は、ぐっと拳を握ると穆弘の後を追った。
裏木戸が破られていた。
下男の話によると、流刑中の囚人と役人らしき三人が宿を借りに来たのだという。
「そいつらだ、兄貴」
よさないか、と言う父の言葉に耳を貸さず、穆兄弟は小道を辿った。
手下たちが松明で先を照らす。この先は潯陽江だ。逃げ場など無い。
手下が叫んだ。葦の茂みで何かが動いているようだ。
照らされたそれは人影のようだった。
「追え」
手下たちが喚(おめ)きながら武器を振りかざし、影を追う。
見え隠れするそれは、やはり昼間の囚人たちだった。
「間違いねぇ、兄貴。あいつらだ」
追う穆春たちだったが、葦に邪魔され思うように距離が縮まらない。しかし、囚人たちが川岸で立ち止まった。
穆春がほくそ笑む。もう潯陽江に飛びこむしか、逃げる術はない。昼間、恥をかかせてくれた礼をたっぷりとしてやるぞ。
む、と穆弘がうなった。
葦の陰から一艘の舟が現れたのだ。
囚人たちが何やらわめいている。あれに乗られては手が出せない。
「待ちやがれ、逃げるんじゃねぇぞ」
穆春の叫びもむなしく、船頭は舟を岸に寄せると三人を乗せてしまった。
船頭が竿をひと押しし、舟が岸から離れた。
やっと穆春らが岸にたどり着いた時、三人を乗せた舟はすでに手の届かぬ所にいた。
船頭が竿で岸を突くと、見る間に舟が川の中ほどまで進んだ。
昼の男が仲間を大勢連れて押し寄せてきたが、間一髪のところで助かったようだ。
宋江はほっと胸をなでおろすと、船頭に礼を言った。だが船頭は、曖昧に返事をしただけでじっと岸の方を見ている。
「おい、舟を戻せ。貴様は一体どこの船頭だ。俺たちはそいつらに話があるんだ。早く戻しやがれ」
岸の一団が船頭に向かって叫んでいる。
「俺は張(ちょう)だ。人の仕事にちょっかい出すんじゃねぇよ」
張と名乗った船頭は彼らを恐れる風もなく言った。
「なんだ、張横(ちょうおう)の兄貴だったのか。俺だ、穆春だ。兄貴だったら話は早い、そいつらを引き渡してくれないか」
昼間の侠客が船頭に言った。
ぎょっとしたのは宋江たちだ。この船頭、張横といったか、あの男と知り合いなのか。せっかく逃れられたというのに、まだ敵の手の中だったのか。
抱き合って震える張千と李万。
しかし張横は笑って答えた。
「もうこの人たちは俺の舟に乗っちまった。久しぶりのお客さまなんだ、お前に横取りされてたまるかい」
頼むよ、と穆春が叫んでいる。横にいる大男は黙ったままだ。
張横は穆春とやり取りしながらも、器用に船を操っている。
じゃあな、と張横が告げ、穆春たちが遠のいてゆく。
穆春らが小さくなっていき、やがて松明の灯りがちらちらと見えるだけになった。
「なんとか災難を逃れられました。本当に助かりました。何と礼をして良いのやら」
宋江が改めて礼を言い、張千と李万は船頭を拝むようにしていた。
ふふ、と船頭の張横が笑い、ふいに歌い出した。
「潯陽江は俺のもの、天もお上も怖れるものか、たとえ妖魔が来たとても、そいつの身ぐるみ剥いでやろう」
それを聞き、役人たちが顔を見合わせる。
風が吹き、あたりの温度が下がったような気がした。
宋江の背中に悪寒が走った。走ってかいた汗が体を冷やしたのか。
張横が三人に話しかけてきた。舟を漕ぐ手がいつの間にか止まっていた。
「お客さん、板刀麺が喰いたいかね。それとも別のが良いかね」
張横が船底から一本の刀を取り出した。
それを鞘から抜き放ち、宋江らに突きつける。
刃が月光を反射し、光っていた。
さあ、と詰め寄る張横の顔には、その刀と同じような鋭く凶悪な笑みが浮かんでいた。
追い剝ぎ船頭であった。
運良く追っ手から逃れられたと思った宋江だったが、運が良かったは張横の方も同じだったようだ。獲物が自ら乗せてくれ、と頼んできたのだから。
逃げ場はなかった。
目の前には張横が刀を構えており、舟の外は底知れぬ潯陽江だ。
「待ってください。私は刑を受けた身で、これから江州へ流されて行くところ。どうか哀れと思って、見逃してはくださらぬか」
「ぐずぐず言ってねぇで、さっさと決めろ。刀で斬られたいか、それとも自分で飛び込むのか。どっちにしろ魚の餌だがな」
張横が一歩また一歩と詰め寄ってくる。
「金目の物は、全部あんたに渡そう。それで良いだろう」
「くどい野郎だな。これ以上は、もう聞かねぇぜ」
三途の川も金次第、ではなかったか。
宋江の提案にも、張横は耳を貸さず、肩口まで持ち上げた刀に月の光が妖しく反射した。
宋江は張千と李万を見やり、すまなそうな顔をした。
「お二人とも、覚悟は良いかね。斬って捨てられるよりも、一か八かです」
抱き合って震えていた二人は、冷や汗まみれになりながらも何とか頷いた。
張横が三人に近づき、三人は底板に尻を擦らせながら、船尾へと下がってゆく。
ひい、と役人ふたりが悲鳴を上げる。
宋江は潯陽江を見た。やはり水中を窺う事はできず、黒くうねる竜のように見えた。
張千が舟の縁(へり)にぶつかった。もう後がない。
必死に泳げば、岸まではたどり着けるだろうか。二人はもとより宋江も泳ぎにはあまり自信はなかったが、一縷(いちる)の望みに賭けるしかあるまい。
ずい、と張横の刀が迫る。
「行きますよ、お二人とも」
宋江が覚悟を決め、言った。
と、上流にひとつの影が現れた。
ぎいぎいと聞こえるその音は、櫓を漕ぐ音だ。
その舟はあっという間に張横の舟に近づいて来た。宋江が目を凝らすと、どうやら三人乗っているようだ。舳先に腕組みをした大男。櫓は二人で操っていた。
「おい、こんな所で商売しようとはどこのどいつだ。許してやるから分け前を寄越しな」
大男が呼ばった。よく通る声だった。
その声を知っていた。
宋江と張横は図らずも、同時に言っていた。
「李俊の兄貴かい。俺だよ、張横だ」
「李俊どのか。私だ宋江だ」
張横は怪訝そうな顔をし、宋江を睨んだ。
李俊は思わず身を乗り出した。
張横に、それに宋江だと。確かにそう聞こえた。
「童威、あの舟の横に付けろ」
おう、という返事と共に舳先が張横の舟に向く。
「そこにいるのは宋江どのなのか。張横、ちょっと待ってくれねぇか」
李俊の言葉に張横の刀を下ろした。
そして改めて宋江の顔をじろじろと見た。
家にいたが、なんだか落ち着かなかった。
李俊は塩の密売にでも行こうと童兄弟を誘い、潯陽江に乗り出した。
そして月明かりの下、張横の舟に乗った宋江と再会したのだ。
船頭の張横は船火児(せんかじ)と呼ばれているという。
本人曰く、この潯陽江でこういった、おとなしい商売、をやっているのだという。
もう少し下流にある小孤山(しょうこざん)の生まれで、李俊とは義兄弟の仲であったのだ。
張横と李俊は舟を並べ、事の成り行きを話しながら岸へと寄せてゆく。
「めっきり仕事が無くって、洲の所でしょげてたらこの三人が追われてたから舟を出したのさ。あいつら、穆の兄弟がこの人らを引き渡せと言ってきたから、これは金になると踏んだ、という訳さ」
そう言って張横が岸を指差した。
そこにはまだ明々と松明を灯した穆兄弟がいた。
「おい、戻って来たのか。早くそいつらをこっちに渡してくれ」
穆春が喚いている。
まさか、と宋江は李俊を振り返った。しかし李俊は、大丈夫だと言い、舟をさらに岸へと寄せさせた。
穆春が伸ばした手を李俊が遮った。
「ちょっと待ってくれないか、穆の兄弟」
何だと、と言う穆春の後ろから李俊よりも大きな男が身を乗り出してきた。
穆春の兄、没遮攔の穆弘だった。
「なんであんたがここにいるんだね、李俊。そいつは弟の顔に、掲陽鎮に泥を塗った男。道理が分かるならばこちらへ引き渡してもらいたい」
もらいたい、と頼んでいる風だったが、穆弘のそれは有無を言わさぬ口調であった。
だが李俊も怯むことなく、笑みを浮かべていた。
「道理も無理で引っ込める旦那の言葉とは思えないがね。まあ、穆弘の旦那、すまんが今回は俺の顔を立ててはくれないか」
「どういう事だ。その男が何だというのだ。答え次第では、あんたの立てる顔も無くなっちまうぜ」
あくまでも口調は荒げないが、言っている事は物騒だ。
だが穆弘も穆春も、李俊の言葉にその態度を変えざるを得なかった。
及時雨の威名が、誰も遮る事のできないはずの、穆兄弟を止めたのだ。
穆兄弟の屋敷の座敷に、一同が並んでいた。
李俊のとりなしで、穆兄弟と宋江は和解をする事になり、張横もすんでの所で殺さなくて良かった、と詫びを入れてくれた。
問題を起こさずに戻ってきた兄弟を見て、主人の穆太公は胸を撫で下ろしていたようだ。
張千と李万も席に座り、酒が回された。
彼らは顔見知りで、この辺りを三方で治めているのだという。
掲陽嶺一帯は李俊と童兄弟、李立が。
この掲陽鎮は穆春と穆弘が。
そして潯陽江は張横、というように縄張り分けをしているのだ。
そこへ包帯を巻いた薛永が入ってきた。穆春を見るなり身を固くした。だがすかさず穆春が立ちあがり、拱手して無礼を詫びた。
「薛永の旦那、すまねぇ事をしちまった。俺を気の済むまで、棒で打ってくれ」
しばし薛永は睨んでいたが、宋江の顔をちらりと見て、嘆息した。
「詫びを聞けたなら、それで良いさ。話を通さなかった私も悪かったのだ。それにこんな打ち身など」
薛永が包帯をするすると解きはじめた。そして露わになった肌には、打撲の跡など残っていなかった。
「秘伝の膏薬の効果は、この通り」
こいつは大した代物だ、と穆春が思わず身を乗り出した。
「薛永どの、私からも弟の非礼を詫びよう。今後、好きなだけこの掲陽鎮で、その効果てきめんの薬を売ってくだされ」
穆弘が立ち上がり拱手した。さらに宋江に向かって声をかける。
「あなたにも詫びなければなりませんな、宋江どの。張横もそうだが天下の義士を危うく失うところでした」
「そうだぜ、殺してからじゃ取り返しがつかねぇんだぜ。穆弘の旦那は、いつもやりすぎちまうからなあ」
李俊がそう言って笑った。
宋江は苦笑いするしかなかった。この李俊に二度も命を救われたのだ。
しかし、それ以上にこの及時雨の名には、何度救われたのだろうか。
しかし、今後そうならない時も来るのだろう。そのためにも、ふさわしい人間にならなければならないのだろう。李俊が言ったように。
その名に偽らざる、本物の及時雨にならなければいけない。
本当になれるのだろうか。
しかし、己を頼りにしてくれている人の為だ、と考えるとほんの少し背筋が伸びたような気がした。
風をはらみ、帆が満々と張られた。
潯陽江で一同に見送られ、宋江らが出航した。
あれから穆家に三日ほど滞在した。牢に入る前の、一時(いっとき)の静養のようなものだ。
空は青く、心地よい風が頬をなでる。
二人の護送役人、張千と李万も何とか船酔いを我慢できているようだった。
「怪しい船頭には、気をつけてくださいよ」
張横の笑えない冗談が、風に乗って聞こえてきた。
宋江は微笑むと首枷に触れた。
すぐに江州に着くだろう。
空はどこまでも青く、そして風は心地よい。
青き水を迸(ほとばし)らせる潯陽江。まるで青竜の背に乗っているかのようだ。
川面が陽の光を照り返し、きらきらと鱗のように輝いていた。