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受難

 男はうっそりと目を開けた。

 寝台に手をつき、ゆっくりと上体を起こす。

 兄貴、兄貴と呼ぶ声が聞こえる。

「なんだ春(しゅん)。気持ち良く寝ていたところを」

 男は不機嫌そうに言った。

「すまない、兄貴。ぶちのめしたい奴がいるんだが、手を貸してくれないか」

 男はじっと弟の顔を睨むように見据えている。

「そいつは掲陽鎮の、この穆(ぼく)家の顔に泥を塗りやがったんだ。頼むぜ、兄貴」

「なんだと、そいつを早く言え。そいつはどこだ行くぞ、春」

 男は弟、穆春を押しのけるように部屋から出て行った。

 その大きな背を見ながら穆春は、ごくりと唾を飲み込んだ。

 兄を、穆弘(ぼくこう)を動かしてしまった。没遮攔(ぼつしゃらん)の渾名が示すように、彼を止められる者などいないのだ。薬売りに金を渡した囚人を痛めつけるつもりだったが、下手をすれば殺してしまうかもしれない。

 兄を止められる者などいないのだ。弟の自分でさえ、だ。

 穆春はいつも穆弘の背を見てきた。兄のついでのように小遮攔(しょうしゃらん)などと呼ばれている事が悔しくもあった。兄の背は尊敬の対象であると同時に、畏怖の対象でもあるのだった。

 穆春は、ぐっと拳を握ると穆弘の後を追った。

 

 裏木戸が破られていた。

 下男の話によると、流刑中の囚人と役人らしき三人が宿を借りに来たのだという。

「そいつらだ、兄貴」

 よさないか、と言う父の言葉に耳を貸さず、穆兄弟は小道を辿った。

 手下たちが松明で先を照らす。この先は潯陽江だ。逃げ場など無い。

 手下が叫んだ。葦の茂みで何かが動いているようだ。

 照らされたそれは人影のようだった。

「追え」

 手下たちが喚(おめ)きながら武器を振りかざし、影を追う。

 見え隠れするそれは、やはり昼間の囚人たちだった。

「間違いねぇ、兄貴。あいつらだ」

 追う穆春たちだったが、葦に邪魔され思うように距離が縮まらない。しかし、囚人たちが川岸で立ち止まった。

 穆春がほくそ笑む。もう潯陽江に飛びこむしか、逃げる術はない。昼間、恥をかかせてくれた礼をたっぷりとしてやるぞ。

 む、と穆弘がうなった。

 葦の陰から一艘の舟が現れたのだ。

 囚人たちが何やらわめいている。あれに乗られては手が出せない。

「待ちやがれ、逃げるんじゃねぇぞ」

 穆春の叫びもむなしく、船頭は舟を岸に寄せると三人を乗せてしまった。

 船頭が竿をひと押しし、舟が岸から離れた。

 やっと穆春らが岸にたどり着いた時、三人を乗せた舟はすでに手の届かぬ所にいた。

 

 船頭が竿で岸を突くと、見る間に舟が川の中ほどまで進んだ。

 昼の男が仲間を大勢連れて押し寄せてきたが、間一髪のところで助かったようだ。

 宋江はほっと胸をなでおろすと、船頭に礼を言った。だが船頭は、曖昧に返事をしただけでじっと岸の方を見ている。

「おい、舟を戻せ。貴様は一体どこの船頭だ。俺たちはそいつらに話があるんだ。早く戻しやがれ」

 岸の一団が船頭に向かって叫んでいる。

「俺は張(ちょう)だ。人の仕事にちょっかい出すんじゃねぇよ」

 張と名乗った船頭は彼らを恐れる風もなく言った。

「なんだ、張横(ちょうおう)の兄貴だったのか。俺だ、穆春だ。兄貴だったら話は早い、そいつらを引き渡してくれないか」

 昼間の侠客が船頭に言った。

 ぎょっとしたのは宋江たちだ。この船頭、張横といったか、あの男と知り合いなのか。せっかく逃れられたというのに、まだ敵の手の中だったのか。

 抱き合って震える張千と李万。

 しかし張横は笑って答えた。

「もうこの人たちは俺の舟に乗っちまった。久しぶりのお客さまなんだ、お前に横取りされてたまるかい」

 頼むよ、と穆春が叫んでいる。横にいる大男は黙ったままだ。

 張横は穆春とやり取りしながらも、器用に船を操っている。

 じゃあな、と張横が告げ、穆春たちが遠のいてゆく。

 穆春らが小さくなっていき、やがて松明の灯りがちらちらと見えるだけになった。

「なんとか災難を逃れられました。本当に助かりました。何と礼をして良いのやら」

 宋江が改めて礼を言い、張千と李万は船頭を拝むようにしていた。

 ふふ、と船頭の張横が笑い、ふいに歌い出した。

「潯陽江は俺のもの、天もお上も怖れるものか、たとえ妖魔が来たとても、そいつの身ぐるみ剥いでやろう」

 それを聞き、役人たちが顔を見合わせる。

 風が吹き、あたりの温度が下がったような気がした。

 宋江の背中に悪寒が走った。走ってかいた汗が体を冷やしたのか。

 張横が三人に話しかけてきた。舟を漕ぐ手がいつの間にか止まっていた。

「お客さん、板刀麺が喰いたいかね。それとも別のが良いかね」

 張横が船底から一本の刀を取り出した。

 それを鞘から抜き放ち、宋江らに突きつける。

 刃が月光を反射し、光っていた。

 さあ、と詰め寄る張横の顔には、その刀と同じような鋭く凶悪な笑みが浮かんでいた。

 

 追い剝ぎ船頭であった。

 運良く追っ手から逃れられたと思った宋江だったが、運が良かったは張横の方も同じだったようだ。獲物が自ら乗せてくれ、と頼んできたのだから。

 逃げ場はなかった。

 目の前には張横が刀を構えており、舟の外は底知れぬ潯陽江だ。

「待ってください。私は刑を受けた身で、これから江州へ流されて行くところ。どうか哀れと思って、見逃してはくださらぬか」

「ぐずぐず言ってねぇで、さっさと決めろ。刀で斬られたいか、それとも自分で飛び込むのか。どっちにしろ魚の餌だがな」

 張横が一歩また一歩と詰め寄ってくる。

「金目の物は、全部あんたに渡そう。それで良いだろう」

「くどい野郎だな。これ以上は、もう聞かねぇぜ」

 三途の川も金次第、ではなかったか。

 宋江の提案にも、張横は耳を貸さず、肩口まで持ち上げた刀に月の光が妖しく反射した。

 宋江は張千と李万を見やり、すまなそうな顔をした。

「お二人とも、覚悟は良いかね。斬って捨てられるよりも、一か八かです」

 抱き合って震えていた二人は、冷や汗まみれになりながらも何とか頷いた。

 張横が三人に近づき、三人は底板に尻を擦らせながら、船尾へと下がってゆく。

 ひい、と役人ふたりが悲鳴を上げる。

 宋江は潯陽江を見た。やはり水中を窺う事はできず、黒くうねる竜のように見えた。

 張千が舟の縁(へり)にぶつかった。もう後がない。

 必死に泳げば、岸まではたどり着けるだろうか。二人はもとより宋江も泳ぎにはあまり自信はなかったが、一縷(いちる)の望みに賭けるしかあるまい。

 ずい、と張横の刀が迫る。

「行きますよ、お二人とも」

 宋江が覚悟を決め、言った。

 と、上流にひとつの影が現れた。

 ぎいぎいと聞こえるその音は、櫓を漕ぐ音だ。

 その舟はあっという間に張横の舟に近づいて来た。宋江が目を凝らすと、どうやら三人乗っているようだ。舳先に腕組みをした大男。櫓は二人で操っていた。

「おい、こんな所で商売しようとはどこのどいつだ。許してやるから分け前を寄越しな」

 大男が呼ばった。よく通る声だった。

 その声を知っていた。

 宋江と張横は図らずも、同時に言っていた。

「李俊の兄貴かい。俺だよ、張横だ」

「李俊どのか。私だ宋江だ」

 張横は怪訝そうな顔をし、宋江を睨んだ。

 李俊は思わず身を乗り出した。

 張横に、それに宋江だと。確かにそう聞こえた。

「童威、あの舟の横に付けろ」

 おう、という返事と共に舳先が張横の舟に向く。

「そこにいるのは宋江どのなのか。張横、ちょっと待ってくれねぇか」

 李俊の言葉に張横の刀を下ろした。

 そして改めて宋江の顔をじろじろと見た。

 

 家にいたが、なんだか落ち着かなかった。

 李俊は塩の密売にでも行こうと童兄弟を誘い、潯陽江に乗り出した。

 そして月明かりの下、張横の舟に乗った宋江と再会したのだ。 

 船頭の張横は船火児(せんかじ)と呼ばれているという。

 本人曰く、この潯陽江でこういった、おとなしい商売、をやっているのだという。

 もう少し下流にある小孤山(しょうこざん)の生まれで、李俊とは義兄弟の仲であったのだ。

 張横と李俊は舟を並べ、事の成り行きを話しながら岸へと寄せてゆく。

「めっきり仕事が無くって、洲の所でしょげてたらこの三人が追われてたから舟を出したのさ。あいつら、穆の兄弟がこの人らを引き渡せと言ってきたから、これは金になると踏んだ、という訳さ」

 そう言って張横が岸を指差した。

 そこにはまだ明々と松明を灯した穆兄弟がいた。

「おい、戻って来たのか。早くそいつらをこっちに渡してくれ」

 穆春が喚いている。

 まさか、と宋江は李俊を振り返った。しかし李俊は、大丈夫だと言い、舟をさらに岸へと寄せさせた。

 穆春が伸ばした手を李俊が遮った。

「ちょっと待ってくれないか、穆の兄弟」

 何だと、と言う穆春の後ろから李俊よりも大きな男が身を乗り出してきた。

 穆春の兄、没遮攔の穆弘だった。

「なんであんたがここにいるんだね、李俊。そいつは弟の顔に、掲陽鎮に泥を塗った男。道理が分かるならばこちらへ引き渡してもらいたい」

 もらいたい、と頼んでいる風だったが、穆弘のそれは有無を言わさぬ口調であった。

 だが李俊も怯むことなく、笑みを浮かべていた。

「道理も無理で引っ込める旦那の言葉とは思えないがね。まあ、穆弘の旦那、すまんが今回は俺の顔を立ててはくれないか」

「どういう事だ。その男が何だというのだ。答え次第では、あんたの立てる顔も無くなっちまうぜ」

 あくまでも口調は荒げないが、言っている事は物騒だ。

 だが穆弘も穆春も、李俊の言葉にその態度を変えざるを得なかった。

 及時雨の威名が、誰も遮る事のできないはずの、穆兄弟を止めたのだ。

 

 穆兄弟の屋敷の座敷に、一同が並んでいた。

 李俊のとりなしで、穆兄弟と宋江は和解をする事になり、張横もすんでの所で殺さなくて良かった、と詫びを入れてくれた。

 問題を起こさずに戻ってきた兄弟を見て、主人の穆太公は胸を撫で下ろしていたようだ。

 張千と李万も席に座り、酒が回された。

 彼らは顔見知りで、この辺りを三方で治めているのだという。

 掲陽嶺一帯は李俊と童兄弟、李立が。

 この掲陽鎮は穆春と穆弘が。

 そして潯陽江は張横、というように縄張り分けをしているのだ。

 そこへ包帯を巻いた薛永が入ってきた。穆春を見るなり身を固くした。だがすかさず穆春が立ちあがり、拱手して無礼を詫びた。

「薛永の旦那、すまねぇ事をしちまった。俺を気の済むまで、棒で打ってくれ」

 しばし薛永は睨んでいたが、宋江の顔をちらりと見て、嘆息した。

「詫びを聞けたなら、それで良いさ。話を通さなかった私も悪かったのだ。それにこんな打ち身など」

 薛永が包帯をするすると解きはじめた。そして露わになった肌には、打撲の跡など残っていなかった。

「秘伝の膏薬の効果は、この通り」

 こいつは大した代物だ、と穆春が思わず身を乗り出した。

「薛永どの、私からも弟の非礼を詫びよう。今後、好きなだけこの掲陽鎮で、その効果てきめんの薬を売ってくだされ」

 穆弘が立ち上がり拱手した。さらに宋江に向かって声をかける。

「あなたにも詫びなければなりませんな、宋江どの。張横もそうだが天下の義士を危うく失うところでした」

「そうだぜ、殺してからじゃ取り返しがつかねぇんだぜ。穆弘の旦那は、いつもやりすぎちまうからなあ」

 李俊がそう言って笑った。

 宋江は苦笑いするしかなかった。この李俊に二度も命を救われたのだ。

 しかし、それ以上にこの及時雨の名には、何度救われたのだろうか。

 しかし、今後そうならない時も来るのだろう。そのためにも、ふさわしい人間にならなければならないのだろう。李俊が言ったように。

 その名に偽らざる、本物の及時雨にならなければいけない。

 本当になれるのだろうか。

 しかし、己を頼りにしてくれている人の為だ、と考えるとほんの少し背筋が伸びたような気がした。

 

 風をはらみ、帆が満々と張られた。

 潯陽江で一同に見送られ、宋江らが出航した。

 あれから穆家に三日ほど滞在した。牢に入る前の、一時(いっとき)の静養のようなものだ。

 空は青く、心地よい風が頬をなでる。

 二人の護送役人、張千と李万も何とか船酔いを我慢できているようだった。

「怪しい船頭には、気をつけてくださいよ」

 張横の笑えない冗談が、風に乗って聞こえてきた。

 宋江は微笑むと首枷に触れた。

 すぐに江州に着くだろう。

 空はどこまでも青く、そして風は心地よい。

 青き水を迸(ほとばし)らせる潯陽江。まるで青竜の背に乗っているかのようだ。

 川面が陽の光を照り返し、きらきらと鱗のように輝いていた。

 

 

 

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