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酔夢

 江州の牢城の書記室。そこに宋江は配属された。

 入牢時の殺威棒は、付け届けのおかげで免除された。やはりここでも、地獄の沙汰も金次第なのだ。

 典獄や看守はもちろん、分け隔てなく振舞う宋江の評判は良く、囚人の身にも関わらず下へも置かぬ扱いであった。

 やがて十日あまり経った頃、宋江がある牢役人に呼び出された。

 点視庁にいたその牢役人は正面の床几に腰かけ、宋江をじっと見ていた。

「お前かい、新入りの囚人というのは」

 はい、と恭しく頭を下げる宋江。

「ずいぶんと羽振りが良いみたいだな。みんなあんたの事を好いてるみたいだぜ」

 滅相もございません、と頭を下げたままの宋江。

「おい、お前ら。こいつを百回ぶったたけ」

 牢役人が下役たちに命じた。普段から宋江と親しくしていた彼らは顔を見合せ、戸惑っている様子だ。

「なんだお前ら、できんというのか」

 牢役人が怒鳴ると、下役たちは仕置き棒を放り投げ、逃げるように出て行ってしまった。点視庁には宋江と牢役人の二人だけが残された。

 しばし沈黙の時が流れた。

「何をたくらんでいる」

 沈黙を破ったのは、牢役人だった。床几から立ち上がり、宋江に近づいてゆく。

 宋江は懐から何かを取り出すと、役人に差し出した。

 なんだ、と受け取ろうとしない役人に宋江がぽつりと言った。

「梁山泊(りょうざんぱく)の呉(ご)学究(がくきゅう)からの言伝(ことづて)です」

 それは宋江が呉用から預かった手紙であった。

「ははは、そういう事かい」

 その役人、戴院長とも呼ばれる戴宗(たいそう)はそう言って笑った。

 爽やかな笑顔であった。

 宋江もやっと顔を上げ、微笑んでいた。

 

 とある料理屋の二階。戴宗と宋江が卓を挟んでいた。

 杯を傾けて、戴宗が話をした。

 大抵の囚人は院長である自分に袖の下を渡すが、今度の新入りは一向にその様子が無い。しかし聞くと看守や他の役人には惜しみなく金を出しているというから、戴宗はいぶかしんだ。袖の下など必要ではないが、どんな囚人なのか興味を持ち、試してやろうと宋江を呼びつけたのだ。

 呉用に言われた宋江も、戴宗と話をしなければと思っていた。しかし相手は院長だ、おいそれと近づく事ができなかったし、何より他の者がいる所で梁山泊の名を出す事はできなかった。そのため、あえて金を渡さず、呼び付けられるように宋江から仕向けたのだ。

「相変わらずのようだな、呉用どのは」

 手紙をしまうと、戴宗が笑った。二人は若い頃、この江州で出会っていたのだという。

 その顛末を聞こうとした時、やにわに階下が騒がしくなった。そして二人のいる部屋に給仕が血相を変えて飛び込んできた。

「戴院長、助けてください。あいつが金を貸せ、と言って暴れてるんです」

 その言葉に、戴宗は困ったような嬉しいような顔をして立ち上がった。

「宋江どの、ちょっと待っていてください」

 階下からは卓が倒れる音や、食器が割れるような音がしていたが、戴宗が下りたあたりでぴたりと止(や)んだようだ。

「すみません、お待たせしました」

 耳を澄ます宋江の横で、突然声がした。驚いた宋江の目に黒光りするような巨漢が飛び込んできた。口を半開きにして見ていた宋江に、戴宗が紹介してくれた。

 男の名は李逵(りき)。その暴れぶりから、黒旋風(こくせんぷう)とも李鉄牛とも呼ばれているという。

 宋江は李逵を物珍しそうに見ていた。

 黒光りする大きく丸っこい体に盛りあがった肩の筋肉。そこから生える、やはり太くて大きい丸太のような腕。なるほど常人ならば、殴られただけでひとたまりもないだろう。

 はだけさせた厚い胸板には黒々とした胸毛が渦を巻いている。顔も凶悪そうだったが、子供のように澄んだ目をしているのが印象的だった。

「戴宗の兄貴、この小(ち)っこい奴は何だね」

 じろじろと見る宋江に、李逵の方も無遠慮にそう訊ねた。

「すみませんね、ご覧の通りのがさつもので」

 と謝る戴宗に李逵が噛みついた。

「おいらのどこががさつだっていうんだ、兄貴」

「初対面の相手に、そういう口のきき方をするからだ。この方は、鄆城の宋江どのだ。お前もこの天下の義士の噂は聞いているだろう」

「なら、こいつが山東の黒宋江(こくそうこう)だというのかい」

「そんな失礼な言い方があるか。宋江どのに挨拶をしたらどうだ、鉄牛」

「ふん、そいつが本物の宋江なら平伏してやるよ。だけど偽物のつまらない奴だったらできるもんか。おいらを騙して、あとで笑おうってんじゃないだろうな」

 子供のような言い草の李逵に、宋江が微笑んだ。

「わたしは本物の、山東の黒宋江ですよ」

「何ですと。旦那、早く言ってくださいよ」

 ぱっと目を輝かせた李逵は、大きな体を小さくして平伏した。

「まあまあ、こちらへ来てお掛けください」

 李逵を起こし、三人は改めて座についた。

 ちびちび飲むのは嫌だと、李逵は大碗をもらい酒をそれに注いだ。あらためて挨拶を交わし、酒を飲む。李逵が本当に嬉しそうに、無邪気に飲む姿に宋江は自分まで嬉しくなってきた。

「ところで、さっきはどうして騒いでいたのですか」

 李逵が思い出したように、憤慨して言う。

 李逵は大きな錠銀を質に入れ、小粒銀を十両借りたが、それを使い果たしてしまった。そこで店の主人に十両借りて、錠銀を請(う)け出そうとしたという。それで借りた十両も返せるし、また自分の入り用にも使うつもりだったのだ。

「だけど店のおやじが十両貸さねぇって言うもんだから、店を叩き壊してやろうとしていた所、兄貴が来たって訳さ」

 ぷりぷりと怒った顔で話しているのだが、どことなく滑稽にも見える。

 宋江は、すっと十両を李逵へと渡した。

「これで請け出せるのですね」

 李逵は、また顔を輝かせた。

「さすがは及時雨の宋江さまだ。あんな親父とは比べ物にならねぇ。ちょっと待っていてください、すぐに戻ってきますから」

 慌てる事もないでしょう、と言いかけた宋江を尻目に、李逵は店を出てどこかへとすっ飛んで行ってしまった。

「ははは、さすがは黒旋風。まさにつむじ風のような男ですな」

 宋江はそう言って笑った。

「つむじ風程度で済めば、可愛いのですがね」

 戴宗がぽつりと言った言葉の意味。

 宋江がそれを知るのは、もう少し後の事であった。

 

 李逵は沂州沂水県(きしゅうきすいけん)は百丈村(ひゃくじょうそん)で生まれ育った。兄と母の三人暮らしで、とても母思いでもあった。

 ある日、李逵は人を殴り殺してしまった。本人は小突いただけのつもりでも、その腕力に常人はひとたまりもなかったのだ。母に迷惑をかけまいと、村を逃げ出し、江州に流れ着いた。その時に戴宗と出会ったのである。

 後に恩赦が出たのだが、江州から帰ろうとしないので、戴宗が小役人として採用し、面倒を見てやっていた。

 酒と博打が好きで、酒癖も悪くすぐに暴力を振るうので人々から煙たがられているが、世話になったからか戴宗には懐いており、彼の言う事はおとなしく聞くのだった。

 李逵が通りを急ぎ足でどこかへ向かっていた。懐に十両を抱え、宋江の事を思う。

 会ったばかりの自分に十両もの金を貸してくれるなど、やはり義を尊び財を疎んじる噂通りのお方だ。ちょっとこいつでひと儲けして、一席設けてやろう。

「おおい、おいらにも張らせてくれよ」

 李逵は大声で小張乙(しょうちょういつ)の賭場へと入って行った。

「よう李逵の旦那。もう始まってるから、次のに張りなよ」

 こう見えて李逵は綺麗な博打をするので、小張乙はそう言ってやったのだ。しかし李逵は、今張るのだ、と言って他の客の駒を強引にひったくってしまった。

「丁(ちょう)に五両だ」

 しかし出た目は半。李逵の金が小張乙の元へと引き寄せられる。

「まて、おいらの金だぞ」

「次勝てば、これは返しますよ旦那」

 頭に血の上った李逵は駒を握って、次こそ丁だ、と叫ぶ。

 しかしまたしても目は半。

 あっという間に十両を失ってしまった。

「だから次の場にしなよと言ったんだ。人の駒なんかとるから続けて半が出たんだぜ」

「その金はおいらのじゃないんだ。人さまのもんなんだ、待ってくれよ」

「負けてから何言ってるんだい。誰のものだろうと関係ないよ」

 だが李逵も宋江の金を失っては立つ瀬がない。

「じゃあ、ちょっと貸してくれないか。明日持ってきて返すから」

「ふざけた事を言うんじゃないぜ、旦那。賭場じゃ、親兄弟も他人さまって言うんだぜ」

 李逵はかっとなり、立ち上がって吼えた。

「だからおいらのじゃないって言ってるだろ。分からん奴だな、返すのか、返さんのか」

 しかし小張乙は慣れた感じで言う。

「李逵の旦那、どうしたんですかい。いつもは綺麗な博打をやるのに、今日はやけに絡むじゃないですかい」

 む、と李逵は唸るとその場にあった金をひったくり、懐に入れてしまった。

 李逵は、金を取り返そうと掴みかかってきた小張乙を張り倒した。他にいた客たちも金を取り戻そうと李逵に押し寄せた。

「いつもは綺麗に打つが、今日だけはそうはいかんのだ」

 そう言って、太い腕を振り回した。それだけで十二、三人が吹っ飛び、李逵は賭場から逃げ出した。

 後ろで小張乙や客の罵声が聞こえたが、気にせず走った。

 しまった、まさか全部負けちまうなんて、ついてない。

 と、そこへ李逵の肩をつかまえる者がいた。

「人さまの金を奪って、どこへ行くんだね」

 うるさい、と払いのけようとした李逵だったが、その相手を見て固まってしまった。そこにいたのは戴宗だったのだ。さらにその後ろに宋江もいる。

 李逵は慌ててひれ伏すと謝り出した。

「兄貴、すみません。一席設けて兄貴をお呼びするつもりが、その金をすっちまった。いつもは綺麗な博打をするのだが、ついのぼせあがって悪い事をしてしまったんです」

 何て奴だ、と戴宗が怒り、宋江は大笑した。

「私のためだったんだな、ありがとう李逵。気持ちだけでありがたいよ。今日は負けたんだ。さあ、彼らに金を返しましょう」

 李逵はすまなそうな顔で、金を宋江に渡した。

 宋江は小張乙に金を返そうとしたが、後で恨まれるのが嫌だ、と言って受け取ろうとしなかった。そこで宋江はその十両を、李逵に怪我をさせられた者たちの治療費などに充てるように提案した。

 さらに、宋江が李逵を無理やり賭場に行かせたのだ、と言って詫びてくれた。

「さすが、宋江の兄貴だ。噂通りの大物だ」

「こら鉄牛。少しは反省しないか。すみません、こいつのために、宋江どの」

 戴宗がたしなめると、李逵は少しだけしゅんとした。

 宋江は、李逵は子供がそのまま大きくなったような男だと思った。思った事をすぐに行動に出すため、何も考えていないと思われがちだがそうではないのだ。己の心にひたすら素直なだけなのだ。

 子供のように純粋に、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと迷いなく言える事が、宋江には少し羨ましくもあった。

 李逵が言った言葉を思い出す。

 噂通りの大物か、と宋江は照れくさそうに微笑んだ。

 

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