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貴人

 地獄の沙汰も金次第、とはよく言ったものだ。

 今さらながらに林冲はそう痛感していた。

 柴進の屋敷から滄州へは何事も無く着いた。

 董超と薛覇は林冲を引き渡すと安堵の表情を浮かべて東京(とうけい)へと戻って行った。

 そして林冲は独房へと入れられた。はじめ投獄された林冲に番卒(ばんそつ)たちは厳しく当たったのだが、賄賂を渡した途端、態度が豹変した。掌を返したように、とは正にこのことだ。

 典獄(てんごく)の計らいで棒打ちの刑も免除となり、追加の賄賂で首枷も外してもらえた。林冲は安心すると共に、この世は金が全てか、と嘆息するしかなかった。

 柴進直筆の手紙も功を奏した。林冲は天王堂(てんおうどう)の堂守という労役をあてがわれた。この仕事は堂の掃除や朝晩の線香番などの楽な仕事であった。

 

 何日か過ごしたある冬の日。

 牢城の外をぶらついていた林冲を呼びとめる者があった。見覚えがあった。李小二(りしょうじ)という名だった。

 東京にいた頃、酒屋に勤めていた小二は出来心で主人の金に手を出してしまった。役所へ訴えられそうな所に林冲が行き合った。林冲は代わりに詫びを入れ、弁償金まで出して事を内々ですませてやった。さらに身の置き場の無い小二に旅費まで渡したのだ。

 年端も行かない彼を路頭に迷わせるのが忍びなかったのだ。

「本当にありがとうございました。あの時の事は一度たりとも忘れておりません」

 小二もひとかどの青年になっていた。流れ着いた滄州の居酒屋で主人に見込まれ、その娘と結ばれたという。今は主人も亡くなり、夫婦二人で店を切り盛りしているという。

 小二の居酒屋へ行き、妻を紹介された。純朴そうな良い娘だ。

 思わず梅雪の事を思い出してしまった。

 達者でいるだろうか。いや妻とは離縁したのだ、と自分に言い聞かせるが思いは募るばかりだ。林冲は酒で紛らわせる事にした。

 なるほど一心に修業したと見え、料理も美味い。羊肉をむしり五香粉(ごこうふん)をまぶして頬張る。花椒(かしょう)の刺激が舌に心地よい。また木耳(きくらげ)の炒め物や豆腐料理に舌鼓をうつ。

 小二と昔話や滄州の様子などを聞きながら、林冲は久しぶりに落ち着いた時を過ごしているのを感じた。酒が進む。

 締めに出てきた吸い物がまた格別だった。これを目当てに来る客がいるというのも頷ける味だ。

 はっきり言って小二の件は今まで忘れていた。だが小二の方は一時(いっとき)も忘れなかったという。縁(えにし)はいつか巡ってくるのだな。良い事も、悪い事もすべからく。林冲は救われた思いだった。

 林冲の目頭が熱くなる。

「酒のせいかな」

 そう言って小二の店を後にする林冲だった。

  

 妙な客だった。

 黒ずくめの男とその連れだ。黒づくめは軍官のようだ。連れの小男はその従者といったところか。

 しばらくして典獄と番卒頭が現われた。二人に呼び出されたようだ。

 男の声が聞こえた。東京(とうけい)訛りだ、間違いない。

 黒ずくめの軍官は酒と料理を運ばせると、勝手にやるから近づくなと言う。

 ふと小二は、高太尉、という言葉を聞いた気がした。林冲が無実の刑に処せられた経緯を聞いていた小二はいよいよいぶかしんだ。そっと女房を奥へ行かせ、聞き耳をたてさせた。

 一同はそれから半時ほどで店を後にした。

 小二は急いで女房に確かめるが、密談のように声をひそめておりさっぱり聞こえなかったのだという。だが典獄たちが袱紗(ふくさ)に包んだ物を受け取るのを見ており、それは音と形から金銀の類ではないかというのだ。

 小二は林冲の件ではないかと考えた時、

「毎日よく流行っているな」

 と、当の本人が現われた。

 難しい顔をしている小二に訳を聞くと、今起きた事を説明してくれた。

 陸謙に違いあるまい。死罪にできなかった自分を亡き者にするため、何か企んでいるのだろう。

 小二に礼を言い、その日から護身用に短刀を持つようになった。そして暇を見つけては陸謙の姿を探したが、見つけることはできなかった。

 四、五日たった頃、典獄に呼び出された。配置替えをするのだという。東門から十五里ほど先にある、秣(まぐさ)置場の管理という労務だった。

 小二に聞くと、そこでは定期的に秣を受け取るだけで、しかも役得の金も懐に入り、天王堂よりも良い仕事では、という。

 荷物を整えた林冲は番卒と共に秣置場へと向かった。

 日が傾き、空が急に黒雲に覆われ始めると、見る間に大雪となった。 何とか辿りついた林冲は、老囚人と交代の引継ぎをするとひとり小屋に残った。

 風で小屋ががたがたと揺れている。吹雪が収まったら修理させなければならないな、と火にあたっていた林冲だが、いかんせん寒さに耐えきれなくなった。

 街道を東へ行った所に酒が売っていると老囚人が言っていた。前任が使っていた瓢箪を槍の穂先にかけ、笠をかぶると林冲は外へ出た。

 行きしなに見た古い廟で加護を祈り、歩いてゆくと店の明かりが見えた。

 飯を食い、酒を買って戻った林冲が見たのは大きな雪山だった。なんと雪の重みに耐えかねて小屋が潰されていたのだ。あのままいたら、と思うとぞっとする。

 さっそく加護があったのか。

 雪を凌ぐため、林冲はさっきの古廟で一晩過ごす事にした。明日には晴れるだろう、典獄に報告しに行かなくては。

 内側から重石(おもし)を置き、扉をふさぐと酒を飲んだ。

 そろそろ寝ようかと思った時だ。秣置場の方からぱちぱちと爆ぜる音がする。壁の隙間から見ると秣が音をたてて燃えているようだった。

 暖をとっていた火が消えていなかったのか。林冲は慌てて槍を手にし、火を消しに行こうと扉に手をかける。だがその時、外に人の気配を感じた。

 林冲は扉の裏で気配を殺し、じっとする。

 男たちが廟の方へやって来た。中へ入ろうとするが林冲が置いた重石で扉が開かないため、軒下で火事を眺め出した。

 人数は三人。一人は知らないが、二人の声には聞き覚えがあった。

 番卒頭、そして陸謙。

「せめてもの情け。骨でも拾ってやるとするか」

 陸謙の後ろで、廟の扉が勢いよく開かれた。

「拾うのはお前の骨だ、陸謙」

 獣の目をした林冲がそこに立っていた。

 林冲の復讐の炎が、秣の大火よりも赤々と燃え盛っていた。

 

「俺のせいではない。高太尉の命令で仕方なかったのだ」

 林冲に胸を踏みつけられ身動きが取れない陸謙が必死に弁明した。槍が顔に突きつけられている。

「後生だ、林冲。幼なじみではないか」

 廟の側で小男が倒れている。

 胸に風穴をあけられた富安(ふうあん)だった。秣置場での暗殺を考案した張本人である。その少し先で番卒頭の首が転がっていた。

 獣の目は陸謙を睨みつけたままだ。

「そうだ、若君に諦めるよう太尉に言ってもらおう。俺が取り持ってやる」

「陸謙、哀れだな」

 陸謙の胸に短刀が深々と突き刺さる。林冲が護身用に持っていたものだ。

 林冲は短刀を一気に引き下ろす。胸から腹まで大きく裂け、生温かい血が噴き出した。

 陸謙はすでに白目をむいている。林冲は裂け目に腕を突っ込むと、ひとつの肉塊を引きだした。

 林冲の手の中で脈動するそれは陸謙の心臓だ。力任せに引きちぎり、陸謙の体がびくびくと痙攣する。

 陸謙の口から、ごぼごぼと血の泡が噴き出す。そして大きく一度痙攣したきり、動かなくなった。

 林冲は三人の首と陸謙の心臓を廟に奉げると、あらためて加護に感謝した。

 もう後戻りはできない。この先どこへ行こうか、あては無い。このままのたれ死ぬのも良かろう。梅雪よ、達者でな。

 林冲は笠を深くかぶり直すと、雪の中を歩きだした。また風が強くなってきた。

 陸謙への復讐は果たした。だがまだ高俅がいる。

 晴れぬ気持ちは、この吹き荒(すさ)ぶ吹雪のようだった。

 

 翌日、死体を発見した役人たちは林冲を下手人と断定した。

 だが、足跡は昨夜の吹雪にかき消され、その行方は杳(よう)として知れなかった。

 

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