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貴人

 五代十国時代最後の王朝、後周(こうしゅう)。その随一の名君と呼ばれた世宗(せそう)の跡を継いだのは、僅か七歳の恭帝(きょうてい)であった。

 世宗の死を知った諸国は後周を攻撃。皇太后らは迎撃を命じたが、幼帝に不安を抱いた軍は反乱を起こした。そして近衛軍の将校であった趙匡胤(ちょうきょういん)を擁立し、開封を占領した。かくして趙匡胤は恭帝から禅譲され、宋を興した。

 趙匡胤は、これまでの王朝交代劇とは違い前帝を弑(しい)することなく、手厚く保護し丹書鉄券(たんしょてっけん)という不可侵のお墨付きを与えた。

 世宗の本名は柴栄(さいえい)といい、柴進はその末裔であった。

 丹書鉄券により柴進の屋敷は治外法権となり、罪人を匿おうと役人たちも手出しはできなかった。

 柴進自身、武芸はできないが故に彼らと交わることが好きだった。そのため彼の屋敷には腕に覚えのある、名の知られた者からごろつきまで集まることになる。

 柴進も強く言えずに全て受け入れてしまうから始末が悪い。まさに十把一絡げの様相だ。

 実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな、とは実に的を射た言葉だ。今日も柴進の屋敷では、自称豪傑たちがふんぞり返っていた。

 林冲は彼らを横目に部屋へと案内される。董超、薛覇らも同席して酒食に興じていると、下男が柴進に告げた。洪(こう)教頭が見えました、と。

 入ってきたのは頭巾を歪めてかぶった大男だった。胸を反りかえらせ、林冲の挨拶を鼻であしらい答礼もしない。

 柴進が改めて林冲を紹介した。すると洪が言う。

「大官人どのは人が良すぎるから、こういった連中が教頭の名を騙(かた)り、酒や銭をさらってゆくのです。どうして真に受けなさるのか」

 柴進は反論すると、洪が言った。

「わたしは信じられませんがね。何なら勝負しましょうか。それとも化けの皮が剥がれるのが怖いのかな」

 と、林冲を横目で見やる。

 だが、それを断る林冲。面白くないのは柴進だった。

 この洪という男、少しばかり腕が立つからといって威張りくさり、いつも上からものを言う。教頭と名乗っているが、実際は怪しいものだ。

 林冲の腕をこの目で見たいのと、洪にひと泡吹かせたい柴進は林冲に囁く。

「林冲どの、遠慮する事はない。この洪という男、少々天狗になっているようだ。ぜひ鼻をへし折ってはくださらぬか」

 そういう事なら否やはない。

 棒を手に中庭で対峙する二人。

「やめるなら今のうちだぞ」

 洪教頭はにやつきながら挑発する。

 月明かりの下(もと)、はじめ、の合図がかかった。

 

 枷が邪魔だ。林冲はそう告げた。

 少し打ち合ったが、なるほど確かにこの洪教頭、筋は良いようだ。負けはしないにしても、枷をつけたまま勝ちにゆくのは難しいと言えた。

 柴進が董超たちに金を渡し、林冲の枷を外させた。さらにこの勝負に賞金をかけた。なんと目方二十五両の錠銀(じょうぎん)。高級官僚ひと月の給金にも値するほどの額だ。

 目の色を変えた洪だったが、枷を外した林冲と相対して瞬時にその実力を悟った。まるで鎖を解かれた猛獣がそこにいるようだった。 

 今さら逃げる訳にもゆかぬ、だが賞金は欲しい。こうなれば全力でかかるしかあるまい。

 柴進は腕を組み、勝負の行方を興味津津で見守る。下男が手を振り、再びはじめ、の合図がかかった。

 洪が示すは把火焼天(はかしょうてん)の勢(せい)。一方、林冲は撥草尋蛇(はっそうじんじゃ)の勢。

 隙がない。洪教頭は焦りつつ、大声を上げ突っ込んだ。

 上段から二連続で打ちこむ。颯々(さつさつ)とかわす林冲。

 さらに何度も攻め立てる洪教頭だが、林冲にはかすりもしない。周りでくすくすと笑う者までいる。

 ええい、と力を振り絞り、突きを五月雨(さみだれ)に放つ洪教頭。

 林冲は、すっと右足を下げ初めて反撃に出た。

 林冲が放ったひと突きは、無数の棒をすり抜け、狙い過(あやま)たず洪教頭の胸元に突きささった。

 洪教頭の呼吸が一瞬、止まる。

 その手を返し、洪教頭の棒を跳ね上げると、さらに向う脛を薙ぎ払った。洪が地面に転がる。林冲が洪の顔面に棒を突きつけると、勝負あり、の声がかかった。

 洪は起き上がろうとするが、足がもつれてうまくゆかない。観衆に笑われながら、やっと起き上がると顔を真っ赤にして、外へと逃げて行った。

 柴進は胸のすく思いで、林冲の勝利を讃えた。

 洪もまた教頭の名を騙っていた輩(やから)に他ならなかったのだ。

 こんな豪傑を殺そうとしていたのか。

 林冲の実力をその目で見た董超と薛覇は、互いに顔を見合わせ、身震いするばかりであった。

 

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