108 outlaws
貴人
四
ぱちぱちと火が爆ぜる音がする。
秣が業火に包まれている。
見回すと男が三人倒れている。皆、首がなかった。
三つの首は古い廟に供えられていた。滴った血が廟の床を濡らしている。
林冲、と呼ぶ声がする。人気(ひとけ)は無い。
林冲。また呼ばれた。
呼んでいるのは首、だった。
白目のままの首が口を動かし、林冲の名を呼び続ける。
林冲は動く事ができなかった。
廟が炎に包まれた。三つの首は炎に焼かれながら呼び続ける。
林冲、林冲、林冲、林冲。
動けない林冲の体に火が移った。あっという間に全身を炎が舐めつくす。
ひときわ大きな声で首が叫んだ。
林冲。
「林冲」
跳ね起きた林冲は辺りを見回す。
どうやら部屋のようだ。自分は夢を見ていたのか。
全身が汗にまみれていた。
側に火が焚かれ、ぱちぱちと音を立てていた。
「よかった、林冲さま」
見覚えのある声と顔だ。
そうだ、居酒屋の李小二だ。小二が心配そうな顔で見ている。
「うなされていたが、もう大丈夫でしょう。後は私が」
その後ろにいるのは後周の末裔、柴進だ。
ゆっくり起き上がると、改めて周りを見回す。
「ここは私の東の別荘です」
柴進が先回りして言った。
「昨晩、林冲どのは雪の中に倒れていたのです。それをこの小二が見つけ、私の元へ連れて来たという訳です」
「危ない所でした。身体中が凍傷になる間際でした。本当に良かった」
そう言う小二は目に涙を溜めているようだ。
「しかし、一体どうして」
柴進の疑問に、今度は林冲が答えた。
小二の居酒屋での件。秣置場への配置換え。そして雪の中での復讐。
「このままではあなたにもご迷惑をかけてしまいます。身体が回復次第、出てゆきます、柴進どの」
柴進はにっこり微笑んで言う。
「心配めさるな、林冲どの。私に与えられた特権はこういう時のためにあるのです」
役人さえも手出しできぬという宋の太祖からのお墨付き、丹書鉄券。
だが林冲は知っている、過信してはならない事を。太祖から数えてすでに百五十年。奸臣(かんしん)たちにしてみれば、それを果たす義理などとうの昔に無いのだから。
「いえ、いつまでもお世話になる訳にはまいりません。どこか身を置く場所があればよいのですが」
「そこまで言うのなら、わかりました。良い所があります。私が一筆したためましょう」
柴進は柔らかな笑みを浮かべた。
すでに滄州中に手配書が貼られていた。
殺人および軍の施設への放火。林冲は無実の罪からついに賞金三千貫の大罪人となってしまった。
四六時中、役人が街を見回っている。この屋敷にはさすがに入って来られないが、少しでも外へ出ようものならば、確実に捕縛されてしまうだろう。
そんな中、柴進はいつものように狩りに出かけた。
供の者を二十人ほど連れて滄州の関所にさしかかる。
門の横にも林冲の人相書きが高札に貼り出されてあった。
「柴大官人、いつものお楽しみですか」
軍官が一行を止める。彼は屋敷にも来たことがある顔馴染みだった。
「大官人さまには申し訳ないが、決まりなんで調べさせていただきますよ」
すっ、と笑みを消す柴進。
「よく調べてください。この中に噂の林冲を紛れ込ませておりますから」
その言葉に軍官が笑った。
「ははは、大官人さまもお人が悪い。ご冗談が好きなお方だ」
どうぞお通りください、と一行を通す軍官。
関所を越え十四、五里あたりで一行は止まった。
「もう大丈夫でしょう」
「柴進どの、危険な橋を渡らせてしまい申し訳ありません。このご恩は必ず」
林冲が笠を取り、顔を露わにする。柴進が軍官に言った通り、下男の恰好をさせ紛れ込ませていたのだ。
だが本当に危険な賭けだった。
「道中、達者で。また何かあればお力になりましょう」
「かたじけない。小二にもよろしくお伝えください」
わかった、と柴進一行は違う道へと進んで行った。
林冲は拱手したまま見送った。やがて一行が林の中へと消えた。本当に狩りでもするのだろう。
柴進からの手紙を確かめる。南への道をとり、新雪にその一歩を踏み出した。
空には雲ひとつない冬晴れの朝だった。
滄州の関所を抜け、済州(さいしゅう)へ入ってから十日あまり。
冬の末、雪雲が厚く空を覆った。雪が舞い始めたかと思うと北風が吹き、あっという間に大雪となってしまった。
一面の銀世界の中、林冲は歩き続けた。
どれくらい歩いただろう。ふと見上げると、吹き荒(すさ)ぶ雪の向こうに大きな山影が聳え立っていた。
ついに辿りついた目的の地。
周囲に広大な水を湛えた圧倒的な偉容を誇る天然の要害。
そこは、梁山泊と呼ばれていた。