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遺志

 盧俊義が旅の支度を始めた。

 大番頭の李固も、同道を命じられた。

 李固は、近ごろ脚気がひどくて、と言ったが盧俊義は聞かなかった。やむなく李固は、店の者十人を引き連れ、旅に出ることになった。

 準備の最中、賈氏が現れた。盧俊義の妻で、二十五になる美しい女性だった。

「旦那さま、占い師の言うことなんか真に受けて。外へ出たならば、余計に災難に遭うというものです。家にいた方がよろしいのでは」

「お前には関係ないことだ」

 と、盧俊義はその言葉に取り合わず、淡々と支度を続けた。賈氏はそれ以上何も言えず見守るしかなかった。

 盧俊義が誰かを探す素振りをした途端、ひとりの青年が姿を見せた。猫のように音もなく、まるで待ち構えていたかのようだった。

 青年は整った顔立ちで、どちらかというと細身であった。そしてその動きのひとつひとつが、盧俊義と同じように隙がなかった。

「しばらく旅に出る。李固は連れて行くが、店を見るものは他にもいる。お前には、家の事を任せたぞ、小乙」

「はい、旦那さま」

 そこに李固が割って入る。

「おい、燕青。俺がいない間に、何か下手をやらかしてみろよ。ただじゃおかんからな」

「承知しております、李固どの」

 ふん、と李固が鼻を鳴らす。

 盧俊義が小乙と呼んだ青年の名は燕青。

 赤子の頃に盧俊義に拾われ、育てられた。常に盧俊義につき従っており、李固同様に信頼を置く者でもあった。

 燕青が盧俊義の側に寄り、囁き声になる。唇は動かさず、盧俊義だけに聞こえる声だった。盧俊義もそうした。

「どうしても、行かなければならないのですか」

「うむ、行かねばならぬ。たとえ虎の巣におびき寄せられていると分かっていても、友の言葉を知らねばならんのだ」

 燕青は、微かに頷くと下男たちの手伝いを始めた。

 李固は出発の寸前まで、嫌そうな顔をしたままだった。

 一体、どうして俺まで付き合わされなくてはならんのだ。だが盧俊義の言いだした事だ、これ以上嫌がる訳にもいかない。

 ちらりと李固は賈氏を見た。目と目が合った。賈氏の目が何かを語りかけてくるようだ。李固も、無言でそれに答えた。

 盧俊義一行は、ゆっくりと東南へ向かった。道中とくに変わったこともなく、穏やかに旅は続いた。

 盧俊義は車に揺られながら、山河の景色を楽しんだ。考えると、大名府から出たのはいつ以来だっただろうか。時には暑い日の陽ざしに目を細め、頭上を飛び交う鳥の鳴き声に耳を傾け、旅を満喫していた。

「李固、そう言えば、易者に払った銀を知らないか」

「さ、さあ。あの易者が思い直して持って行ったのでは。私が行った時には、もうありませんでしたが」

 そうか、とだけ盧俊義は言った。

 李固は、心臓が早鐘のように鳴っていたが、なんとか平静を装っていた。

 やがて五十里ほど行ったところで、李固がおずおずと盧俊義に進言した。

「旦那さま、このまま進むと、あと二十里ほどで梁山泊に着いてしまいます。やつらは血も涙もない悪党だとか。面倒ですが、遠回りしてはいかがかと」

「ならん。このまま真っ直ぐ行くのだ」

 盧俊義の言葉に、李固も供の者も怯えた。

 ですが、と李固は言い募るが、盧俊義は駄目だの一点張りだ。

「占いでは東南の方向とあった。迂回などして方角を違えよとは、わしに災難に遭えということか、李固」

「いいえ、そんな事。めっそうもございません」

 一同は渋々、盧俊義の言葉に従うことにした。

「お前たち、わしを誰だと思っている。梁山泊の賊どもなど、この棒で返り討ちにしてくれるわ」

 そう言って盧俊義が高笑いをする。

 李固は一層、震えた。相手は何千も擁する大山賊だというのに、この人は棒一本で勝てるなどと本気で思っているのだろうか。自分も行くあてのない身を拾ってもらったから付いてきたが、こんな短慮な人だったとは。と心中穏やかではなかった。

 徐々に梁山泊へと近づく。微かにその山容が見えてきた。

 先にある大きな森が、道を飲みこんでいるようだった。一行が森に差しかかった時である。ひと筋の口笛が鳴り響いた。

 その音に李固たちは頭を抱え、しゃがみこんで、がたがたと震えだした。

「ひい、命だけはお助けを」

「お前ら、何だその様は情けない。それでもわしの店の者か」

 盧俊義はそう言い放つと、棒を手に車から飛び降りた。

 近くで銅鑼が鳴った。それを合図に森の中から百人ほどの賊がわらわらと現れた。さらに銅鑼が鳴り、さらに現れた賊たちが盧俊義らの退路を断つようにした。

 盧俊義は森の方を向いて、棒を横向きに構える。

 そこへ一人の肌の黒い大男が姿を見せた。

 盧俊義はその男に見覚えがあった。先日、張用の後ろに控えていた気味の悪い道童だった。

 李逵が二丁の斧を掲げて笑った。

「この顔を覚えているかい、員外どの」

「忘れたくとも忘られぬよ、その顔は」

 盧俊義が駆ける。李逵も斧を振り上げ、駆けた。

 盧俊義が斧を巧みに弾くと、李逵が少し驚いた顔をした。盧俊義は追い打ちをかけようとした。

 だが李逵はにやりと笑い、森の中へと逃げてしまった。

「待てい。梁山泊の賊め」

 森に入ったすぐそこに、李逵がいた。斧は下ろしている。そしてその背後から、またも見覚えのある男が現れた。

 張用と名乗っていた、呉用である。

「お待ちしておりました、盧俊義どの」

 盧俊義は構えを解いた。だがその目は呉用を睨むようにしていた。

 森の外の梁山泊兵たちは、いつの間にか姿を消していた。

 だが、李固たちは頭を抱えて震えるばかりで、しばらくそれに気付くことはなかった。

 梁山泊へ盧俊義が渡った。

 鴨嘴灘に降り立ち、山容を振り仰いだ。頂上付近に替天行動と大書された黄旗が勇壮に翻っていた。

「替天行道か」

 と盧俊義がひとりごちた。

 忠義堂に入ると、宋江がそれを迎えた。

「このたびは失礼な真似をして、大変申し訳ございません、盧俊義どの」

 盧俊義は軽く会釈をしただけで、とりあえず勧められた席に腰を下ろした。茶が出されるが、手をつけることもしない。

「はじめに言っておきます。晁蓋の兄貴は、あなたの事をただのひと言も、口にした事はありません。この度の無礼は、すべて我々の責です」

 それを聞き、盧俊義は深く息を吐いた。目を瞑り、ゆっくりと息を吸うと、そうか、とだけ言った。

「これまで影となり、晁蓋の兄貴と梁山泊を支えてくれたことに、一同を代表して感謝いたします」

 白勝と石勇が手紙を届けるように指示されていた人物、それが盧俊義だった。

 それだけではなく飲馬川を築き、裴宣や鄧飛をそこへ送りこんだのも盧俊義だったのだ。その手紙が飲馬川についての事だったのだろう。

 宋江に代わり、呉用が引き継いだ。

「梁山泊の頭領とつながっていると露見しては、命に危険が及びます。それ故、我らにさえも隠し続けていたのでしょう」

 ましてや盧俊義は北京で一番とも言われる豪商だ。その関係性を疑われるだけでも、そこに付け入って貶(おとし)めようとする者がすぐに現れるだろう。

 実際、晁蓋が手紙を送ったことが元で、宋江は追われる身となった。同じ轍を踏まぬよう、盧俊義に対しては慎重に慎重を期したのだろう。

 さらに梁山泊からの使いも盧俊義と直接会うことはできず、燕青という者を介しての接触であったのだ。

「晁蓋の死は知っている。梁山泊にとっても大きな痛手だろうな。わしもとても残念に思っておる」

「それだけ、ですか」

「なにが、だ」

 おや、と盧俊義は思った。意外にも宋江が、盧俊義の言葉に食ってかかるような事を言ってきたからだ。

「陰ながら晁蓋どのと梁山泊にここまでしてくれたあなたです。晁蓋どのとの関係は、そんなひと言ですむのですか。仇(かたき)を討ちたいとは思わないのですか」

「お主が何を知っているというのだ」

 盧俊義が声を荒げ、立ち上がった。

「もちろん、友だった。晁蓋とは、かけがえのない友だった。晁蓋の仇は、このわしが絶対に討たねばと思っている」

 宋江を殴りそうな勢いだった。盧俊義の握られた拳が震えていた。

 だが盧俊義は、すぐに我を取り戻すと、どさりと椅子に座った。

「もういいだろう。さっさと晁蓋の最期の言葉とやらを教えてくれ。わしはそれを聞きに来たのだ」

「おや、盧俊義どのの店でお伝えしたではありませんか」

 呉用が飄々とした顔で嘯いた。

「はっ、よくも抜け抜けと言えたものだ。あれは晁蓋の言葉などではない。わしを謀ろうとするつもりか。わしが反乱を起こす訳などかなろう」

「さすがは盧俊義どの。見破られましたか」

「くだらん真似を」

 易者の姿をした呉用が伝えた句の事である。

 それぞれの句の頭文字を取ると、蘆、俊、義、反。

 つまり盧俊義が反乱を企てているという文句が隠されていたのだ。

 呉用は悪びれもせずに言う。

「ですがあなたは、晁蓋どのに協力をしてきたではないですか。そして飲馬川という寨はあなたの手によるものです。これでも反乱を企てていないと言えますか」

「そんなものは詭弁だ。確かにわしがそれらをしたとして、一体その証拠はどこにあるというのだ。晁蓋への義のため、これからも梁山泊へ少しでも支援するつもりでいたが、お前たちがそういう態度ならば考えを改めねばならんな」

 宋江が、話を戻しましょうと促す。

「晁蓋どのはあなたを巻きこみたくなかった。ですが我々は、晁蓋どのの言葉を伝えたくてあなたを探したのです」

「ならばその呉用が来た時に伝えればよかっただろう。あるいはいつも来ていた白勝などがいただろうに」

 そう言って呉用をちらりと見る。

「白勝は別の任でしばらく不在でして。北京では、誰に聞かれているか分かりませんし。それに、晁蓋どのが築き上げたこの梁山泊を見ていただきたかったのです」

 ふん、と盧俊義が鼻を鳴らす。

 盧俊義は宋江の目をじっと見据えた。これでも河北の三絶と呼ばれている自負はある。だが素人なら逸(そ)らしてしまうであろう睨みを、宋江は真っ直ぐに受け止めていた。

 晁蓋の手紙に書かれていた。宋江という男は武芸は人並みだが、及時雨と呼ばれるだけの事はある、と。その理由までは書かれていなかったが、少しだけ、晁蓋の言いたいことが分かった気がした。

「それでは、盧俊義どの。覚悟してお聞きいただきたい」

「覚悟だと。もったいぶらずに教えてくれないか」

「晁蓋どのの遺言です」

 仇を討った者が頭領に就く事。

 盧俊義の口が固く結ばれた。

 なるほど、そういうことだったか。

 仇を討ったならば、盧俊義が梁山泊の頭領になるということだ。盧俊義反、という句が現実のものとなってしまう。

 だが、さっき宋江に啖呵を切ったように、晁蓋の仇は討ちたい。いや盧俊義は自分が討つべきだと思っていた。

 盧俊義は湯呑みに手をかけ、かなりの間、目を閉じていた。

 宋江もじっと待ち続けた。

 呉用もその横で眉ひとつ動かすことはなかった。

 忠義堂の外で翻る、替天行動の旗の音だけが大きく聞こえていた。

 

 北京大名府まで一里というところだった。

 盧俊義が梁山泊から戻った時、すでに李固たちの姿はなかった。主人を待たずに帰るなど、不忠義な者どもめ。

 悶々としながら歩く盧俊義は、道に佇む、一人の男に気付いた。

 男はぼろの着物をまとっており、盧俊義の方を一瞥すると近づいてきた。

 身構えた盧俊義だったが、それは良く知っている男であった。

「旦那さま、お待ちしておりました」

「こんなところで何をしているのだ、小乙。店は、家はどうした」

 燕青だった。燕青は整った顔をすこし歪め、言った。

 盧俊義に危険を知らせるため待っていたのだ、と。

「店には捕り手たちが待ち構えているでしょう。李固が、そう手配しているはずです」

「どういうことだ」

「李固が店に戻ってきてから、奥さまと何かを話しておりました。二人は頷き合うと、すぐに下男がどこかへ走って行ったのです」

 妻と李固、か。賈氏を得たのは、つい五年ほど前だ。三十半ばを控え、いまだひとり身でいる盧俊義に、得意先の大店が話を持ちかけてきた。

 盧俊義は妻を娶る気はなかった。その理由を誰かに話す気もなかった。

 だが得意先の度重なる説得で、盧俊義も折れた。

 晁蓋とつながっていても、表の顔はまっとうな大商人である。妻のひとりもいなくては、却って怪しまれると思ったのだ。

 盧俊義に不満はなかった。だが賈氏の方には不満があったのだろう。

 賈氏は美しく、若かった。

 李固がなにかと色目を使っているのは分かっていたが、放っておいた。賈氏の方も、父と近い年の盧俊義よりも若く仕事のできる李固に惹かれていることも察していた。

 だが使用人と主人の妻である。一線を越えるわけはないと、盧俊義はどこかで思っていた。

 若さとは、それを簡単に越える時がある。

 盧俊義自身がそうだった事を、思い出した。

「わしも老いたかな、晁蓋よ」

 そう呟くと盧俊義は足を北京に向けた。

 燕青はそれを必死に止める。

「お待ちください、旦那さま。捕まってしまうだけです」

 盧俊義は燕青の顔を見つめた。

 燕青の顔に、懐かしい顔が重なって見えた。

 それを振り払うように首を振り、盧俊義は言った。

「心配するな。あいつにそんな大それた真似ができるはずもない」

 それでも止めようとする燕青を置いて、盧俊義は北京へ向かった。

 その目は燕青ではなく、別の誰かを見ているようだった。

 

 まさかのこのこと帰ってくるとは。

 李固は驚くと同時に、嬉しさに手を揉んだ。

 梁山泊に襲われたが、無事に済んだ。いつの間にか賊たちが消えていたからだ。

 だが、李固は一応は盧俊義を心配した。そこでそっと森の中を覗いていると、愕然とした。

 森の中にいたのはあの時の易者だった。そしてよく見ると先に襲ってきたのは、連れていた道童ではないか。

 二人は盧俊義と和やかに談笑すると、並んで梁山泊へと消えた。

 なんという事だ。盧俊義は梁山泊とつながっていたのだ。李固は腰を抜かしそうになるのを堪え、下男たちを叱咤すると北京へと逃げ帰った。

 もしものために捕り手たちを準備しておいた。盧俊義を捕え、手柄としてこの店をいただくとしよう。そして賈氏は正式に自分のものとできるのだ。

「これは旦那さま。よくぞご無事で。申し訳ありません、すでに旦那さまは奴らに、と」

 盧俊義は黙って店の中を見回す。いつもと変わらぬ様子だ。

「ちと、手間取ってな。しかしお前は、わしを助け出そうなどとは考えなかったようだな」

「いえ、もちろん考えました。ごらんください」

 李固が合図をすると戸が開かれ、捕り手たちが大勢飛び出してきた。盧俊義は焦らずに最初のふたりを打ち倒したが、さすがに無理があった。

 のしかかられるようにされ、盧俊義は喘ぐように縛についた。

「おい李固。何をしておる、早く放すように言わぬか」

「梁山泊に、単身で乗り込んで、無事に帰ってくるなんて」

 李固が一歩ずつ、近づいてくる。

「さすがは、玉麒麟ですな」

 李固の手が、盧俊義の懐に伸びた。奥から一枚の紙を引っ張り出した。

 そしてそれを慎重に開いて、わざとらしく目を大きく見開いた。

「これを見てください」

 大きな声で紙を捕り手たちに見せる。呉用が語った句を書いた紙だった。

「この句の頭文字を続けて読むと、盧俊義反となります。やはりこの者は、梁山泊と手を組み、反乱を企てていたのです」

「な、馬鹿な。これは、あの易者が言った句だ。わしは言う通りに書いたにすぎん」

「そうでしょうか。ひとりで梁山泊から生きて帰ってくるなど、到底信じられません。あなたが奴らと通じていたからと考えるのが妥当でしょう。そしてこの句です」

 李固は盧俊義に見せるようにひらひらとさせた。

「盧俊義よ、反乱を起こす時だ、という意味でしょう。あの易者がきた時、戸の向こうから聞こえてきたのです」

 嘘だ。そんな話はしていない。呉用は聞かれてもわからぬように、、すべて喩えを持って語ったのだ。李固ごときに分かるはずもない内容だった。

 だとすれば、こいつの勘か。そういう事には頭が回る男だ。

 盧俊義が李固を睨む。

「李固よ。あの銀はどこへ行った」

「しつこいな、知るか。おい、とっととこいつを連行してしまえ」

 李固が唾を飛ばし、捕り手たちに命じた。

 その時、奥から賈氏が出てきた。

 賈氏は盧俊義ではなく、李固の事を見ていたようだ。

 盧俊義にとってそれは悲しいことでも、驚くべきことでもなかった。

 盧俊義は目の前で起きていることが、どこか遠くでの出来事のように思えるのだった。

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