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遺志

 北京大名府の南門。

 河北でも、梁山泊と同じように大規模な賊が跋扈していた。この北京を預かる梁世傑は防備を固め、入城する者を厳しく制限していた。

 左右に屈強な衛兵を控えさせ、役人が通行人を検分してゆく。そこへ易者と連れの道童が現れ、役人に止められた。

「私は張用と申して、主に易などをして世間を渡り歩いております。この連れは李と申す者です」

 そう言って易者の格好をした呉用が、童道の姿の李逵を示す。そして懐から通行証を出した。もちろん蕭譲が文を書き、金大堅彫った印が押された、れっきとした偽物である。

「おい、この童童の目つきは盗賊のようだな」

 と兵が睨んだ。

 呉用は急いで、暴れ出しそうな李逵の前に立った。

「申し訳ありません。この者は口がきけないのですが、ご覧の通り体だけは大きく力だけはあるのです。私の言うことしか聞かないので、お気をつけください」

 李逵はひと声、吼えようとしたが、はたと気付いた。口の中に銅銭があるのだ。

 李逵は呉用と約束をした。

 呉用が出向くと聞いた李逵は、自分もついて行くと強情を張った。

 宋江としては、呉用を単身で行かせる訳にもいかず、用心棒として誰かが必要で、駄目だという訳にも行かなかった。

 そこで呉用が提案した。決して喋らなければ良いと。

「あなたは口を開けば何かと災いの元となります。なのでこれを口の中に入れておけば、喋ろうとした時に約束を思い出せるでしょう」

 そうして渡された銅銭だった。

 李逵は口をもごもごとさせ、作り笑顔になった。その笑顔に気味悪さを感じた役人は、ますます怪しいと睨んだ。

 その時、馬蹄の音が轟いた。城門に向かって五十ほどの騎馬が駆けてきた。

 役人と衛兵は慌てて、人々を端へ寄せた。すぐに騎馬隊が到着し、隊長らしき者が役人とひと言ふた言交わした。

 李逵は睨むようにその隊長を見ていた。それに気付いたのか、隊長がこちらを見とめて、やって来た。

「そ奴らは易者と名乗っておりますが、どうにも怪しい風貌で。すぐに追い出しますので、索超どのはどうぞ中へ」

「ほう易者とな。ずいぶん変わった道童を連れておるようだが、なにかわしも占ってはくれんか」

 呉用の眉がぴくりと動いた。動こうとする李逵を制して、呉用が笑った。

「占いの見料は銀一両と決めておるのですが、特別にいいでしょう」

 呉用は索超から八字、つまり生まれた年、月、日、時のそれぞれの干支を聞くと、目を閉じてぶつぶつと唱え始めた。

 索超は興味深そうに腕を組んでそれを見ている。

 やがて、ゆっくりと目を開け、口を開いた。

「ふむ。かつて青き楊(やなぎ)を切らんと欲するも叶わじ。その志いまも胸中にあり。運開かんとすれば、すなわち東南の方角が吉、と出ております」

 張用と名乗る易者、呉用の言葉に索超は目を大きく見開き、大きな手を胸に当てた。

 そして大笑し、役人たちに宣言した。

「わはは、こ奴はどうやら本物のようだ。わしが許可する。先生、どうかお気を悪くされませんよう」

「いえ、こういった扱いは慣れております。ありがとうございます、隊長さま」

 見送る索超が、呉用の背に声をかけた。

「そうだ、先生。見料の一両銀は必ず払うよ。わしのところに、いつでも取りに来てください。わしは索超、この大名府の正牌を務めております」

 呉用は顔だけ索超に向け、軽く会釈をした。

 ふう、と呉用が長い息をつく。

「危ないところでした。頼みますよ、ここからが本番です」

 通行許可証が偽物だと露見する事は、まずない。

 ただ、やはり李逵の行動で、危ういところだった。

 李逵はにこりとして、任せろとばかりに胸を叩いた。

 呉用がまた長い息をついた。

 

 童童の姿の李逵は、くせっ毛を頭の上で二つ、子供のような丫髺(あげまき)に結わえている。粗末な布をまとい、手には身の丈よりも長い棒。そして棒の先から紙がぶら下がっていた。運命判断、見料一両と書かれている。

 その前を歩くのは易者、張用と名乗る呉用。手にした鈴杵(れいしょ)を鳴らし、句を唱えている。

 

 甘羅は早くて子牙遅し

 彭祖と顔回寿命は違う

 范丹窮して石崇富まん

 持って生まれた八字で決まる

 

 そして鈴杵をひと鳴らし。

「さあさ、つまりは時、運、命(めい)じゃ。生死、貴賎を占いましょう。身の行く末を知りたい方は、銀一両で拝見しましょう」

 そうして二人が大名府の通りを練り歩く。その周りを、たくさんの子供たちが囃し立てながらついて来る。呉用は動じる風もなく、句と唄を繰り返していた。

 やがて大きな店のある通りへとやってきた。呉用はちらりと店に目をやりながら足を遅くして、ことさら声を張り上げた。

 店の中では番頭たちが忙しく立ち働いていた。そこへ奥から、背の高い偉丈夫が姿を現した。男は四十ほどだろうか。番頭たちが一斉に頭を下げる。

「通りがやけに騒がしいな。いったい何事だ」

「はい旦那さま、易者が練り歩いているようで。ですが、見料を銀一両も取るなんて、馬鹿げたことを言っているようです。そんな大金誰が払うというのでしょう」

 大番頭の李固(りこ)が、そう言って笑った。

 旦那さまと呼ばれた男こそ、この大店の主、盧俊義であった。

 北京大名府の店は繁盛し、いまは東京開封府に支店も出している。盧員外とも呼ばれる富豪である。

 銀一両など、そんなに自信があるのか、と訝しみながらも盧俊義は、聞こえてくる文句に耳を傾けた。

 盧俊義は少しだけそうしていたが、やがて背を向け、奥へ戻ろうとした。

 だが聞こえてきた別の文句に、思わず振り返った。

 東の渓(たに)から日の兆し、水の寨(とりで)の主(ぬし)となる

 天に昇るその前に、射落としたるは曾(かつ)ての羿(げい)か

 王の栄光寨の繁栄、輔(たす)ける影が月の如し

 是非に伝えん、天王が遺せしその言の葉を

 

「おい、李固。あの易者を呼んできてくれぬか」

 李固は盧俊義の言葉を聞き違えたかと思った。だが確かに呼んで来いと言った。

「わ、分かりました」

 易者の声が遠くなっていた。李固は慌てて飛び出して行った。

 客間に通された呉用と李逵の前に、盧俊義がやってきた。

 ほう、と呉用が眉を上げる。

 人品、武芸、財力の点で人並み以上に優れており、河北の三絶とも言われるほどの男だ。

 歳は晁蓋と同じくらいだろうか。背が高く、商人にしては胸板が厚く、節くれだった拳をしている。

 盧俊義は張用こと呉用に目礼すると、卓を挟んで腰を下ろした。その挙措にも隙らしいものが見られなかった。

「先生は運命を見ることができるとか。銀一両の見料とは、きっと良く当たるのでしょうな。私もそろそろ歳でしてね。これから先の事を見ていただきたいと思い、ご足労いただいた次第です」

 呉用は出された茶を飲んだ。銘は分からなかったが、美味い茶だった。

 呉用は湯呑みを静かに置いた。その横に、銀一両があった。

「はは、当たるも八卦ですよ。さて、よろしいでしょう。では旦那さまの、生まれた年、日、時のそれぞれの干支を教えていただきますよう」

 盧俊義が八字を告げ、呉用が算木を卓に並べた。呉用が雑談でもするように話し始めた。

「日の兆しが消えました。月はどこに隠れているのやら」

「これはしたり。先生が私に問うてくるとは」

 と盧俊義は驚きつつも、すぐに真面目な顔になる。

「月と日が並び立つことは、ありますまい」

「だが日が落ちたならば、月が地を照らさねばならない」

「月が照らすのは夜。衆生は眠りにつき、姿を見ることはございません」

 李逵は二人が何を話しているのか知りたかったが、口の中の銅銭がそれをさせなかった。

「水の寨を照らしていた光も消えてしまいました」

「月の光は変わらず照らし続けるでしょう」

「なぜ、そう言えるのです」

「月が、そう決めたからです」

 盧俊義は呉用の目を見据えたまま微笑んだ。

 呉用が肩の力を抜いた。

「月は、日の最期の言葉を知りたいと思うでしょうか」

「おそらく、とても知りたいと思うでしょうな」

「分かりました。筆と紙をお持ちください。運命のその句をお教えしましょう」

 盧俊義は下男を呼ぶと、すぐに準備させた。

 呉用が、少し声をひそめた。

 

 蘆花の茂みに舟ひとつ

 俊傑此の地より遊び出づ

 義士その理を知るならば

 反みて難逃れ憂無し

 

 盧俊義の筆がぴたりと止まる。目を文字に落したまま、訊ねる。

「どういう意味ですか、先生」

「どう捉えるかは、あなた次第です」

 ふむ、と盧俊義が椅子にもたれかかり、腕を組む。

「南東の方角つまり巽へ一千里向こう。そこに答えがあるやもしれません」

 盧俊義は険しい表情をした。

 呉用はそれだけ告げると算木を片付け、席を立った。銀一両は置いたままだ。

「昼食を馳走したいのですが、張用先生」

 李逵がその言葉に反応したが、すぐに呉用が断りを入れる。

「せっかくですが失礼いたします。またどこかでお会いできることを、盧俊義どの」

「いいえ。それはおそらく無いでしょうが、有意義な時を過ごしました。わざわざご足労いただきありがとうございます」

 呉用が意味ありげな笑みを浮かべ、盧俊義も同じような顔をする。

 盧俊義は呉用らを見送るため、店の外へと向かった。

 その後に、李固が客間へと入ってきた。

「あの占い師め、適当なことを言いやがって。盧花の茂みになんとか、って言っていたな。何の話だ、一体」

 などとぶつぶつ言いながら湯飲みなどを片付けてゆく。

 呉用の湯呑みの前にきた時だ。

 その横に、一両の銀が置かれているのを、目ざとく見つけた。

 す、と口をすぼめ、辺りをうかがう。

 湯呑みをさげるふりをしながら、さっと銀を袖の中へと入れてしまった。

 そそくさと厨房へと向かう李固の顔に、にんまりとした笑顔が貼りついていた。

 戻ってきた盧俊義が、先ほどの席に座り直した。

 懐から紙を出し、書かれた文字をしばし眺めた。

 そして深く目を閉じた。

「晁蓋よ。どうしてわしを置いて行ったのだ」

 盧俊義の目じりから、ひと筋の涙が流れた。

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