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遺志

 数日経ったが、梁山泊全体が沈鬱な雰囲気に包まれていた。

 その中でさらに重苦しい雰囲気をまとって、宋江が杯を傾けていた。

 梁山泊内の酒楼である。

「ため息はやめたんじゃなかったのかい、兄さん」

 宋清が水を卓に置いて言った。少し飲み過ぎだ、という事だ。

 宋江は素直に、水に手を伸ばした。それを見て宋清が正面に腰を下ろした。

「呉用が、待てと言うのだ」

「晁蓋どのの喪の最中だから、だろ」

「そうだ。私は、頭領の座などどうでもよいが、晁蓋の兄貴の仇を一刻も早く討ちたかったのだ。だが百日は待てと」

「兄さん、気をつけなよ」

「何がだ」

 と宋江は不思議そうな顔をした。

「頭領の座などいらないと簡単に言うけど、あんまり軽々しく言うもんじゃない」

「しかし、私は」

 と宋江は反論しようとしたが、それ以上言うのをやめた。

 宋清の言うとおりだったからだ。

「もし時間があれば、久しぶりに父上のところに顔を出さないかい」

 宋清がそう言い、いつの間にか酒瓶を置いていた。

「朱富が造ってくれた酒でね。滋養に良いそうなんだ」

「父上か。そうだな」

 確かにしばらく顔を見せていなかった。同じ梁山泊内にいながら、親不孝なことだ。

「おや、珍しい。宋江どのに宋清どの」

 楼にやってきたのは王英と、扈三娘だった。晩飯を食べに来たのだろうか。

「おお、丁度良い。二人とも、これから父上のところへ行かないか」

 え、という顔を王英がした。それを知ってか知らずか扈三娘はすぐに、分かりましたと返事をした。

 王英が小声になり、肘で小突く。

「何だよ、なんで行かなきゃならねぇんだよ」

「なんでって、お義兄さんがああ言ってるじゃないの。私もしばらくお義父さんに会っていなかったから、顔を見せなきゃ」

「じゃあ、お前だけ行ってこいよ」

「駄目よ」

「堅苦しいんだよ、あそこは。なんか尻がむず痒くって」

「嫌なら良いのだぞ、王英」

 宋江がぽつりと言った。

 どうやら声がだんだんと大きくなっていたようだ。

 え、いや、と王英があたふたと弁明しようとしたが、行きますとうなだれたように言った。

「そうか。父上も喜ぶよ。ありがとう」

 真っ直ぐな瞳で笑った宋江を見て、王英は少しだけ照れくさそうにしていた。

 

 ある時、魯智深がひとりの僧侶を梁山泊へと連れてきた。

 北京大名府は竜華寺の僧で、大円といった。

 李立の北山酒店で魯智深が飲んでいたところ、大円がたまたま入ってきた。背は低く老いてはいるが、立派な白髯を垂らし矍鑠とした大円を見て、魯智深は師である智真を思い浮かべた。

 きっと名のある高僧に違いない。そう直感し、頼みこんだのだ。

 大円は嫌な顔ひとつせず、湖を渡る船に乗ったという。

「面白い男じゃな。お主は」

 魯智深がきょとんとしている。

「お主は経を知らぬと言うが、そんな事は瑣末なことじゃ。その者を弔う想い、言葉そのひとつひとつが経に代わるもの、いやもっと大切なものなのじゃ」

「おお、大円和尚もそう思うかね。実は同じ事を、言われてな」

「ふむ。もしそうならば、その者はお主の事を分かっておる、真の友じゃろうて」

「がはは、もちろんだ。やはりあんたは立派な和尚だったわい」

 魯智深が陽(ひ)の光のような笑顔になる。

 金沙灘に着くやいなや、大円をおいてけぼりにして駆け去ってしまった。林冲の元へと急いだのだろう。

 魯智深の姿を眩しそうに見つめる大円の元へ、宋江がやってきた。

「これはこれは。こんな辺鄙なところへようこそおいでくださいました」

 宋江は大円の視線に気づいた。

「魯智深が何か」

「いや、あの者、粗野に見えるが心根は真っ直ぐで、決して卑ではない。いずれ大事を成すじゃろうて。聞けば五台山は智真どのの弟子だとか。良い弟子を持ったものじゃ」

「それを聞けば、魯智深も喜びます。さ、こちらへ」

 大円は篭に案内されたが、自分の足で石段を上ると言った。宋江は少し心配したが、大円の足腰はしっかりとしており、とても高齢とは思えないほどだった。

 やがて忠義堂に着き、休むことなくすぐに経を上げるという。宋江の方が、少し休みたいくらいだった。

 大円は片手に数珠を下げ、棺の奥の位牌を仔細に眺めた。

 しばらくそうしていた後、大円は唸った。呉用が訊ねる。

「どうされましたか、大円さま」

「これも、縁かのう」

「と申しますと」

「まさかこんな形で、再び会うことになろうとはのう」

 大円は真っ白なあご髯を擦りながら、遠くを見つめるような仕草をした。

 呉用がしげしげと手にしたものを眺めていた。

 それは矢だった。林冲に渡された、史文恭の矢だった。

 晁蓋は、仇を討った者を頭領にと言った。つまりそれは、史文恭を討った者ということだ。

 呉用は何度か目を細め、矢をくるくると回したりしている。そして眉間に皺を深く刻んだ。

「解せぬ」

 誰に言うでもなく、ぽつりと漏らした。

 この矢に毒が塗られていて、晁蓋は命を落とした。だが矢は他にも射られていたという。この矢だけに毒が塗られていたのだ。晁蓋だけを狙ったと見てよいだろう。

 だが、それでも疑念は残る。なぜ名を記すのか。

 自分が晁蓋を仕留めたと誇示するためか。確かに、梁山泊の頭領を討ったとなれば、その名声も上がるだろう。

 だが果たして、それだけなのだろうか。

「呉用どの」

 そこへ白勝と石勇がやってきた。二人とも、いささか神妙な面持ちだ。その後から裴宣がやってきた。

「呼んだのは、晁蓋どのの話をするためです。何か、思い当たることはありませんか」

 白勝と石勇は顔を見合せた。裴宣はやや目を細めた。

 意を決したように、白勝が話し始めた。

「晁蓋どのから受けていた件ですが」

 呉用は黙っている。

「誰にも言うな、と厳命されていたので」

「謝ることはありません。あなたは晁蓋どのの言葉を守っていたのですから。晁蓋どのが私や宋江どのにも秘密で、何かをしている事は知っていました。私は晁蓋どのを信じてましたし、当然、梁山泊のためになることだろうと思っていたので、あえて聞きはしなかったのです。だが、いまはそれを知る必要があります。晁蓋どのが何をなそうとしていたのかを」

 分かりましたと言い、白勝は一度、唾を飲み込んだ。

「おいらと石勇は、北京大名府に何度か使いで行きました。ある方に手紙を届けるためです」

 一歩、前に出た裴宣が、白勝の後を引き継いだ。

「私が鄧飛と孟康に救いだされたのは、その方の手引きがあったからなのです。そして、その方の指示通りに飲馬川で兵を集め、梁山泊に合流する日を待っていたのです」

「一体、その人物とは誰なのです」

 石勇が話に加わった。

「俺たちは会ったことはないのです。大名府では、いつもその方の使いと称する若い者が取り次ぐだけで」

「だから、その者の名は何というのだ」

 呉用にしては珍しく、苛立ちを隠しきれない様子だった。

「お待ちください、軍師どの。石勇らと同じく、私たちもその方には会っていないのです。決して姿は見せず、名前さえ聞く事は許されなかったのです。常に、その若い男だけが、代理として来るのですから」

「では、何も分からんというのか」

 落胆したように、呉用が背もたれに体を預けた。

 大円和尚は、過去に晁蓋と会っていたと思われる事を呟いていた。

 宋江と呉用は深く聞きたいところだったが、故人に関わることだからそれ以上は言うまい、と大円は固く口を閉ざしてしまったのだ。

 ですが、と裴宣の眉間に皺が刻まれる。

「その方は、飲馬川に物資の供給や、金銭の工面も惜しみなくしてくれたのです。民間人を襲う事などを禁じ、決して本物の賊徒になり下がるな、と」

 呉用が身を乗り出すようにした。

「それほどの事ができる人物は、北京大名府でも自ずと限られてきます。私が推測するに」

 それを聞き、呉用の頭にもある男の名が浮かんだ。

 玉麒麟の盧俊義。

 裴宣と呉用が同時に言っていた。

 盧俊義とは、河北の三絶とも呼ばれるほど武芸の腕も立つという、富豪である。

 しかし晁蓋から、ただの一度もその名を聞いたことはなかった。

 はたして盧俊義が、本当に晁蓋と関係しているのか。

 史文恭への疑念と合わせて、解かねばならぬ問題であった。

 呉用は決めた。

 北京大名府へ赴き、自分自身で盧俊義に会うことを。

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