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遺志

 晁蓋、死す。

 その報は東京開封府にも届いた。

 蔡京は無表情だった。卓の上で手を組んだまま、動かない。

 楊戩が覗き込むように言った。

「宰相どのの、差し金ですか」

 蔡京は相変わらず黙っている。

 では誰が、と楊戩が場を見回すが、高俅も童貫も関与している気配は見られなかった。

「まあ結果、良しとしようではないか。誰かが刺客を放ったにせよ偶然だとしても、梁山泊の頭領が死んだのだ。これでひと安心ではないか」

 童貫がにやにやとしていた。

「同じく梁山泊に逃れた林冲などには、晁蓋ほど集団をまとめ上げる力はありません。王倫の代のように、ただの賊の集まりと化すのは時間の問題でしょう」

 高俅も、本当にほっとしたようにそう言った。楊戩も、再び梁山湖辺りから美味い汁を絞ることを頭に浮かべているようだ。

 本当にそうだろうか。蔡京は眉間を険しくした。

 晁蓋が死んだ。梁山泊の活動がもう少し大きくなれば暗殺という手も講じただろう。だが、まだ自分は手を下していない。晁蓋は、戦で死んだ。ただそれだけなのだ。

 この時を上手く利用しない手はない。

「曾頭市とは、どんなところだ、楊戩」

「はい。凌州の南西にある三千戸ほどの集落で、なんでも家長の曾弄というのは女真族の出だとか」

「女真、か」 

 女真は契丹族の遼国に長年、支配されてきた。だが近年、女真の力が強くなり、ついには金という国を興すに至ったのだ。

「遼を牽制するのに使えるかもしれんな。よし、曾頭市にまずは報償を贈れ。そこからゆっくりと取りこんでゆくのだ」

 楊戩が頷いた。童貫の顔から笑みが消えていた。

 宋は何度も遼と戦をしている。だが強力な騎馬隊を擁する遼軍に、負けを重ねるばかりであった。結果、宋にとって屈辱的な盟約を結ぶこととなった。毎年、莫大な銀や絹などの貢物を差し出すかわりに、この安寧が約束されているのだ。

 軍を率いる童貫にとっても頭の痛い問題であった。

「敵の敵は味方という訳ですな。さすがは宰相どの」

「お主のためではないぞ、童貫」

 笑みかけていた童貫が、再びおとなしくなった。

 三人が去った後、いつものように蔡京だけが部屋に残っていた。

 目を閉じ、組んだ手の指を動かしている。

 晁蓋が死んだ。

 林冲には頭領たる力がないと、高俅が言っていた。確かにその通りだろう。禁軍で兵を統べるのと、さまざまな人間から成る賊徒を統べるのでは質が違い過ぎる。

 だが、まとめる者がいなければならない。ここまで大きくなってしまった梁山泊だ。晁蓋がいなくなったからといって、すぐに崩壊するとは考えられない。

 では、誰が。晁蓋ほどの男の後を継げる者がいるのか。

 ふと蔡京の脳裏に、歌が浮かび上がってきた。

「国をつぶすは家と木で、か」

 開封府で一時流行った童唄だ。それは蔡京自身が流行らせたものだった。

 蔡京は冷めきった茶を飲み干すと、やおら腰を上げた。

 朝議を終え、自室へ向かう蔡京の足が止まった。

「おや。これは宰相どの。顔色が優れぬ様子ですな。賀太守の事は本当に残念でしたが」

 宿元景だった。太尉であるこの男は忠臣で通っており、帝の覚えもめでたい。蔡京にとっては、自由にならない男のひとりであった。

 殺された華州の賀太守は、蔡京の弟子であった。宿元景のあてつけに、心中おだやかではない蔡京だったが、それはおくびにも出さず、

「これは宿太尉、ご心配痛みいる。太尉こそ、華州にて梁山泊の連中に捕らえられたと聞いたが、よくぞご無事で戻られましたな。連中に何と命乞いをしたのやら。いや、これは失礼」

 宿元景も、蔡京の皮肉を前に悠然とした態度だった。

 蔡京は続ける。

「まあ、その梁山泊も頭領が死に、すでに怖るるに足りん存在となった。これで誰かがありもしない事を吹聴して、帝に余計な心配をかけさせることもなくなったという訳ですな」

 宿元景の目じりがぴくりと動いた。

 蔡京が笑いながら廊下の向こうへと消えた。蔡京のいなくなった廊下に、宿元景はしばらく立っていた。

 帝へ梁山泊の脅威を奏上する寸前に、西嶽華山への任務に就かされた。己の職務の怠慢を暴露されたくない蔡京たちの仕業だ。

 だが、そこで梁山泊に会ってしまった。良民を殺し、善人から略奪している悪逆非道の賊徒だと聞いていた。しかし、どうも違うかもしれないと思った。

 そこで会った男、梁山泊の中でも上の立場にいる男は語った。

 国を救いたいのだ、と。

 宿元景は、男の言葉が嘘ではないと思った。河北、淮西、江南の賊どもとは、何かが違うようだった。だから帝には奏上せず、その動向を見守ることにした。

 その矢先、梁山泊の頭領が死んだと聞いた。

 はたして、このまま梁山泊は終わるのだろうか。

 宿元景は梁山泊に何かを期待している事に気付き、首を振った。

 

 呉用は机に向かっていた。

 一心不乱に、何かを紙に書きつけていた。

 晁蓋の訃報が届き、亡骸が運ばれてきた。だが呉用は晁蓋を一瞥しただけで、すぐに部屋へとこもってしまった。

 晁蓋とは東渓村からの長い付き合いだ。涙にくれているのだろう、と誰もがそう思った。

「やはり、そんな男ではないと思ったが」

 林冲が部屋に来た。顔も上げずに、呉用が無愛想に返事をした。

「何の用です」

「素直じゃないな、あんたも」

 そう言われ、呉用が林冲を見た。

「晁蓋どのが亡くなった。だからこそやらねばならない事が山のようにあるのです。悲しいのはみな同じです。だからといって、手を休める訳にはいかないのですよ」

 呉用が書類に目を落とす。そこに、林冲の手が伸びてきた。その手には、矢が握られていた。呉用が再び、顔を上げた。

「晁蓋どのの命を奪った矢だ。毒が塗られていた」

 呉用は、そっとその矢を受け取った。何の変哲もない、ただの矢だった。こんなものが、晁蓋を殺したのか。

「自分の仇を討った者を、梁山泊の頭領にせよ」

 矢を持つ呉用の手がぴくりとなった。

「晁蓋どの、最期の言葉だ」

 呉用の指が、矢をくるりと回した。呉用の目が見開かれた。

 矢の中ほどに、史文恭という文字が書かれていた。

「この史文恭とは、曾頭市の」

「そうだ武芸師範だ。直接、刃を交えてはいないが史文恭は、強い」

「そうか」

 林冲をして、強いと言わしめる男、史文恭。だが、仇は討たなくてはならない。

 いや、絶対に仇は討つ。呉用は強く、静かにそう思った。

「俺も、呼延灼も、悔いても悔い足りぬ思いだ。仇を討つためならば何でもする。何でも命じてくれ、軍師どの」

 そう言って林冲が部屋を出て行く時も、呉用は矢を見つめ続けていた。

 林冲は見ていた。机の上の書類を。

 梁山泊の新しい編成を書きつけていたのだろう。

 だが、それは水に滲んだようになっていて、ほとんど読み取ることができなかった。

 やはり、素直じゃない男だ。

 林冲は、少し嬉しそうに、そう呟いた。

 涙は思ったよりも出なかった。

 いく筋か、頬を流れたのみだった。

 目の前に晁蓋が横たわっている。

 晁蓋を兄と慕っていた。自分にはない、途方もなく大きな考えと、それを実行に移す行動力を持っていた。

 誰もが晁蓋を英雄、好漢と呼び、梁山泊に集った。

 失敗も笑い飛ばしてくれる大らかな笑い声が、いまにも聞こえそうだった。

 だが、もうそれは聞こえない。

 宋江は、晁蓋の亡骸の前で立ち尽くしていた。

 林冲が聞いたという遺言を、呉用から伝えられた。仇を討った者を頭領に、という言葉だった。

 それまでの間、宋江を頭領にすると、呉用が告げた。晁蓋の遺言が果たせるまで、仮にという話だ。だが、やはりというか、宋江は頑なに固辞した。

 梁山泊をまとめる誰かが、必要なのです。呉用が言う。

 宋江は、少しの間でも晁蓋の代わりを務めるなど無理だと言った。だが呉用の頑固さは、それ以上だった。

 結局、次の頭領が決まるまで、という事で宋江は引き受けることにした。

 晁蓋の兄貴、これからどうすればよいのですか。問いかけても応えてくれる者はいない。

 膝を折り、うなだれ、悲嘆にくれる。

 これまでの宋江ならば、そうだったかもしれない。だがいまの宋江は違った。

 夢半ばにして散った晁蓋の、その夢を潰えさせてはならない。

 それが晁蓋に報いるための道だ。

 そう思い定めた宋江は、顔を上げた。

 まずは梁山泊を上げて弔わねばならない。

 聚義庁を出る宋江の足音はどこか力強かった。

 その背を見たならば、晁蓋が微笑むに違いなかった。

 

 晁蓋の法要が執り行われた。

 近くから僧を招き、亡骸を丁重に棺に納めた。

 頭目たちはみな喪服をまとい、寨の周囲には葬儀用の旗が立てられた。

 やがて読経が終わり、宋江が代表して哀哭の礼を捧げる。

「晁蓋の兄貴が、道半ばで天に還った」

 宋江の目に涙が浮かんでいる。しわぶきひとつ起きることもない。

「兄貴は義の人だった。兄貴は大義を持って、この梁山泊をここまで大きくした。我らは、その義に聚まった。我らは兄貴の遺志を継ぎ、義を果たすことに心を尽くさなければならない。これからも兄貴の義を忘れぬように」

 聚義庁を、忠義堂と呼ぶことにしたいと思う。

 ほんの少しざわめきが起きたようだが、宋江は続ける。

「必ずや兄貴の仇を討ち、その首を霊前に捧げようではないか」

 おお、と一同が拳を上げ、応えた。

「兄貴の遺言通り、仇を討った者が頭領となる、良いな。それまでは、不肖この私が仮の頭領を務めることとする」

「なんだよ、宋江の兄貴が頭領で良いじゃねぇかよ」

 李逵が叫んだ。周りの者がたしなめたが、

「いや、とっとと東京に乗りこんで、兄貴が帝になっちまえば良いんだよ」

 と続けた。

 さすがに宋江も、

「こら、李逵。あまり分別のないことを言うのではないぞ。我らは苦しむ民のために戦っているのだ。決して賊徒ではないのだ。それにまだ法要の最中なのだ」

 宋江からそう言われて、李逵は渋々おとなしくなった。

 宋江が、咳払いをひとつ。

「改めてお願いしいます。私は何もできぬ弱い男です。どうか皆の力を貸してほしい。心をひとつに、互いに支え合って、天に替って道を行おうではないか」

 天に替って道を行う。

 替天行動。

 その響きに、再び一同が呼応した。

 天に替って、ということは帝に替ってということか。やっぱり、宋江の兄貴もそう考えてるんじゃねぇか。

 そう合点(がてん)した李逵が人一倍、両の腕を高く振り上げていた。

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