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暗雲

 すでに三日が過ぎた。

 梁山泊軍が攻め立てるが、曾頭市軍は亀のように籠ったきりだった。

 曾頭市の奴らは怖気づいたのだろう。白勝などはそう言っていたが、林冲の考えは違った。あまりにも反応がないのだ。なにか策を巡らせているに違いない。

 だが四日目、集中力も薄れてきた頃に見張りから急報が入った。何者かが近づいてきた。

 来たか。林冲は蛇矛をとり、身構えた。

 二人の僧だった。

「拙僧どもは曾頭市東にあります法華寺で監主を務めておる者です」

 僧たちによると、曾家の五虎はその力を奢り、好き放題暴れているのだという。このごろも寺への布施や供物などを強奪したり、それを止めようとする僧が打たれたりと、看過できぬほどだという。

 だが林冲が割って入る。

「晁蓋どの、ここは敵地。用心し過ぎるに越したことはありません。僧とは言え曾頭市の者。何かの罠かもしれません」

「御どもは仏に仕える身。どうして騙したりなどしましょうか。あなた方は、世のため人のために道を行っているとの噂を聞きました。違いますか」

「よく言った。その通りだ」

 僧たちの言葉を、晁蓋は信じることにした。僧たちが曾頭市内に手引きし、内外呼応する手筈となった。だが林冲はやはり渋面だった。

「ならば私が数人の頭領と、兵を半分率いて乗りこみます。晁蓋どのは外からそれに呼応してください」

「いや、林冲。ここはわしが行く。わしが先に立たねばならん」

 晁蓋は、もう決めたという目をしていた。こうなると後に引かないのは、林冲も分かってはいた。宋江や呉用のように上手く言い含めることが、林冲はできなかった。

 晁蓋は十人の頭領と半分の兵を連れ、乗り込むことになった。劉唐、阮氏三兄弟、呼延灼、欧鵬、燕順、杜遷)、宋万そして白勝である。

「心配するな」

 晁蓋はにっこりと笑った。いつもの、安心感を与えてくれる笑顔だった。

 徐寧が、林冲の肩に手を置き、強く頷いた。

 

 僧らが案内したのは、古い寺だった。

 格式があり由緒ある、いわゆる古刹という感じではない。ただ古びた感じの寺院であった。

 晁蓋らは兵と馬に枚を食ませ、夜陰に乗じて忍び込んでいた。暗くてよくは見えないが、扁額に見える法華寺の金文字も、埃が積もっているように見えた。他の僧の姿も感じられない。

 燕順の眉間に皺が寄っていた。 

「おい、やけに静かだな」

「それもこれも、みな曾家の奴らのせいなのです。奴らの横暴に、ひとりまたひとりと寺を出て還俗してしまったのです」

 僧たちは涙声になり、袖口で目元を押さえた。

「あれを御覧ください」

 その袖口が指す方向に、大きな建物の影が浮かんでいた。

「この曾頭市には、東西南北四つの寨がございます。曾家の兄弟や兵たちが本拠としているのは、北にある寨でございます。そこさえ潰してしまえば、あとの寨は怖るるに足らないでしょう」

 晁蓋が腕を組み、目を眇めて寨を見ている。

「なるほど。では各自、準備をしてくれ。そろそろ住民は寝る頃合いだ」

 一同は静かにそれに応え、めいめい寺の中へと散っていった。晁蓋も堂の中で息を殺し、しばし目を閉じた。

 決まった間隔で、太鼓の音が聞こえてくる。時を告げる太鼓だ。だがそれも徐々に小さくなり。やがて消えた。

「行くか」

 ぼそりと晁蓋がつぶやいた。すでに寺の庭には劉唐らが待っていた。

 二人の僧が梁山泊の兵たちを先導し、暗い道を進んでゆく。防衛のために植えられた木々のせいで視界が悪い。さらに明かりは灯さず、微かな月の光を頼りに進むため、どうしても時間がかかってしまう。

 五里ほど行くか行かぬかの時、先頭の者が僧の姿を見失った。道は入り組んでおり、僧がいなければどちらへ向かえば良いか分からない。

「戻れ、来た道を戻るのだ」

 呼延灼が指示を飛ばす。燕順、欧鵬がすかさず晁蓋の側へ駆け寄る。

 晁蓋は、宋江から聞いていた祝家荘での戦いを想起した。

 謀られた。晁蓋は歯嚙みをしたが、遅かった。

 突如、周囲が明るくなった。無数の松明が現れ、梁山泊軍を照らし出した。喚声が起こり、武器を打ち鳴らす音が響き渡った。

「ちくしょう、ふざけやがって」

 阮小五が毒づき、阮小二は無言で刀を抜き放つ。

 阮三兄弟の方に敵が向かい、戦いが始まった。宋万、杜遷を含めこちらは五人である。そこを突かれた。阮小二たちは数で押され、晁蓋らと引き離されてしまった。

 小七、と叫ぶ晁蓋の声が聞こえた。

「ちっ、兄貴。あそこへ」

 阮小七が指したのは川だった。おそらく外周の川へとつながっていると思われた。小二は皆をそこへ飛びこませた。

 小二たちならば、何とかなるだろう。晁蓋は水の音を聞きながら、不敵に笑っていた。

「どうやら林冲が正しかったようだな」

 ぽつりとそう言い、馬を走らせた。

 呼延灼の双鞭が唸り、欧鵬の槍が閃く。あっという間に敵の死体が道に転がってゆく。松明の明かりは、こちらを有利にもしてくれたのだ。

 だが敵もそれに気付いたのか、松明が消えてゆく。

 曾頭市は、再び闇に包まれた。

 呼延灼は晁蓋を守りながら、慎重に進んだ。闇の中で目を凝らしながら、注意深く馬を進める。

 見覚えのある場所に出たようだ。あの寺の側だ。

 もう一息だ。誰もがそう思った時、横合いから曾頭市の一団が飛び出してきた。一団は十人ほど。全員が弓を構えていた。

 劉唐と共に殿を進んでいた白勝はそれを見て、咄嗟に駆けだした。間に合うのか。そんな事を考える間もなく、白勝は必死に駆けた。

 矢をつがえる曾頭市兵たち。呼延灼がまずそれに反応し、鞭を上段から振るう。晁蓋も刀を構えるが、その前に出た欧鵬にかばわれる形となった。

 敵はあまり狙いをつけずに、急いで矢を放った。

 十本の矢が飛んでくる。呼延灼の双鞭がふたつ叩き落した。燕順の刀と欧鵬の槍も、矢を次々と落としてゆく。彼らの体にも、いくつかの矢が突き立ったが、致命傷になるものではなかった。すぐに放たねばならなかったため、威力が半減していたことが幸いしたのだろう。

 晁蓋自身も、胸元に飛んできた矢を刀で弾いた。

 再び、風を切る音が聞こえた。

 新たな矢が、放たれた。

 白勝が両手をめいっぱい伸ばし、横から飛んできた。

 だが、矢の勢いは先程のものとは別格だった。先の乱れ矢は、この矢のための誘いの矢だった。

 白勝は矢を掴んだ、と思った。しかし、掴んだのは空(くう)だった。

 晁蓋どの、と白勝が叫んだ。

 矢は、勢いを失することなく、白勝の目の前を飛んだ。

 狙いは、あくまでも晁蓋だった。

 矢は過たず、晁蓋を貫いた。

 ずぶ濡れの阮小七たちが、陣に駆けこんできた。

 曾頭市内の川を潜り、敵の手から逃れてきたのだ。

「晁蓋どのが」

 それを聞くや林冲は幕屋を飛び出し、兵たちに出陣を告げた。黄信、楊雄、石秀がその後を追った。

 林冲らがたどり着いた時、ちょうど呼延灼が脱出したところだった。林冲は馬を飛び降り、駆け寄った。

「晁蓋どの」

 林冲の悲痛な叫びが響いた。

 馬に横たえられた晁蓋は、劉唐と白勝に守られていた。白勝の顔は涙と鼻水とで、ぐしゃぐしゃだった。

 林冲が晁蓋に顔を寄せた。

 頬に矢が突き立っていた。

 眼は閉じられていたが、微かに体が上下している。まだ息をしている。

「林冲どの」

 石秀の声に、林冲が顔を上げた。町の中から曾頭市兵たちが、追撃してきたようだ。

「急げ。急いで、陣に戻るのだ」

 呼延灼らを先に行かせ、楊雄と石秀が追っ手の前に立ちはだかった。楊雄が鬼頭刀を掲げ、石秀が朴刀をひと振りしてみせた。

 楊雄は、信じ難い思いだった。時遷を救うための力を借りに、石秀と共に梁山泊へ行った。あの時の晁蓋の、すべてを任せてしまいたくなる笑顔を思い出していた。

 無理な頼みを聞き届けてくれ、二人を梁山泊に快く迎えてくれた。行く当てのない楊雄にとって、晁蓋にはいくら感謝してもしきれるものではなかった。

 その晁蓋が、いま息も絶え絶えになっている。

 楊雄は、薊州で友人だった王押司を思い出した。王押司は賊に襲われ、楊雄の腕の中で死んでいった。

 襲いくる曾頭市兵を立て続けに屠った。敵は、鬼気迫る楊雄に怖れをなした。

 楊雄が去りゆく晁蓋を見た。もうあんな思いはごめんだ。

 楊雄が、来いと叫んだ。

 近づこうとする敵は一人もいなかった。

 曾頭市軍は再び松明を明々と灯した。梁山泊軍の姿が、はっきりと照らし出される。

 道の左右から飽くことなく、敵が押し寄せてくる。林冲、呼延灼そして黄信が必死に血路を切り開こうとするが、さすがに切りがない。

「もう少しです。もう少しですぜ、晁蓋どの。頑張ってください。林冲も助けに来てくれました。絶対に、助かりますから」

 矢が、いくつか白勝の背に突き立った。だが白勝は唇を噛み、それを堪えた。続く矢は、劉唐が払ってくれた。

「白勝、お前」

「晁蓋どのの痛みに比べたら、こんなもの」

「そうか。そうだな」

 劉唐はそう言って、朴刀を振りまわした。その刀は敵を二、三人まとめて胴体ごとぶった斬った。

 人も馬も疲れ果てていた。

 陣にたどり着いた時には、空が白み始めていた。

「すぐに晁蓋どのの治療を」

 林冲が命ずるまでもなく、治療班の兵たちが飛び出して来ていた。

 幕屋の中へと運ばれてゆく晁蓋を見送り、林冲が立ち尽くしていた。

 襲ってくるのは雑兵ばかりのようだった。曾家の五虎はついに姿を現さなかった。

 林冲は天を見上げ、しばし目を閉じていた。

 

 長い夢を見ていたようだ。

 目を開けようと思ったが、できなかった。世界は闇のままだった。

 そうか、夢ではなかったのか、と晁蓋は思った。

 体はもちろん、指も動かせない。足も、体の全てが痺れたようになっている。 

 托塔天王などと呼ばれた、己がこの様とは。笑いたくても、笑えなかった。

 矢の力、そのものは大したことはなかったはずだ。

 毒か。

 息は、苦しいがまだできている。

 晁蓋は、呼吸に集中した。

 身体の隅にまで、呼気が行き渡るよう思い浮かべながら、集中した。

「う、う」

 ほんの少し、声が出せた。

 周りにいた治療班が驚いて、こちらを見たのが分かった。

「林冲を、呼んで、くれ」

 晁蓋は絞り出すようにそう言った。

 

 幕屋の前に杜遷と宋万が立っていた。腕をしっかと組み、晁蓋を守る仁王のように、堂々と立っていた。

 朱仝と雷横がそれを見つめ続けていた。

 宋江は彼らを援軍に送っていた。出陣の際の不吉な出来事が気にかかっていたからだ。だが結局、援軍は間に合わなかった。間に合ってさえいれば、と雷横はしきりに悔しがった。

 朱仝は、仕方ないのだ、と慰めた。反論しようとした雷横は、それ以上言うのをやめた。

 朱仝だって悔しいのだ。朱仝は、自分以上に晁蓋と親しかった。悔しいのは朱仝の方なのだ。すまない、と雷横がぽつりと言った。

 とても静かだった。

 阮小七さえも何も喋ることなく、ただじっと待っていた。阮小五は地面を睨みつけていた。阮小二は杯を手にしたまま、酒を満たすことなく、ただじっとしていた。

「やい、呼延灼」

 李逵が腕を振りまわしながら、呼延灼に近づいてゆく。李逵も援軍に加わっていた。

「お前、強いんだろう。何だって晁蓋どのをこんな目に合わせちまったんだ」

 胸を突き合わせんばかりの李逵に、呼延灼は何も言えなかった。

 李逵の言うとおりだったからだ。自分がついていながら、このような事態になるなど。

「やめろ。やめてくれ、李逵」

 誰かが李逵の腕を引いた。それは、誰あろう白勝だった。

「やめてくれ。呼延灼だって辛いんだ。いや、呼延灼だけじゃない、みんな、ここにいるみんなが辛いんだ」

 涙と鼻水で汚れた白勝が、賢明に李逵の腕を引く。

 ふん、と李逵は腕を払い、どこかへ消えた。

 にわかに空が曇りだし、雨が降りだした。

 すぐに雨で地面は泥となった。

 雨は止まず、勢いを増し始めた。

 だが、そこにいる誰も動こうとはせず、雨に打たれるままだった。

「晁蓋どの」

 林冲が静かに声をかけた。晁蓋の目が薄く開いていた。

 矢を受けた場所が、紫色に痛々しく腫れあがっていた。それでも晁蓋は、林冲を見て微笑んだようだった。

 強い人だ。そう思った。だが同時に悲しくもあった。

「すまない。約束を、破ってしまうな」

 共に、高俅を討とうという約束だった。

 涙があふれた。

 握った拳が、震える。

 奥歯を食いしばり、耐えようとすればするほど、涙があふれた。

 晁蓋どの。

 林冲は言葉にならない言葉で言った。

「林冲」

 晁蓋が真っ直ぐにこちらを見ていた。

「生きろよ」

 全てを包み込むような、あの笑顔だった。

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