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暗雲

 曾頭市は、実に堅固なつくりであった。

 三方を高い岡に囲まれ、集落の周囲には濠のように川が流れている。その周りの柳は、雨のように密に生えていた。

 遠くからは、木々の緑に隠れて人家さえ見えるか見えないかだ。いくつかの大きめな建物の他に寺院のようなものも、辛うじて見える。この深い緑の中には柵など様々な罠を潜ませてあるのだろう。

 梁山泊軍、その数およそ五千である。

 まずは様子見と思っていた矢先、曾頭市の方から攻めてきたのだ。その中から一騎飛び出して来た。

「よく来たな水たまりの賊どもよ。こちらから出向いてゆく手間が省けたぞ。どいつからこの槍の餌食になりたい」

 曾家の五虎が四男、曾魁であった。手にするのは点鋼鎗だ。

 晁蓋は林冲を見た。

 林冲は微かに頷き、愛馬を駆った。あっという間に曾魁の側へと達する。

 速い。これほどの者が梁山泊にいたのか。曾魁は槍を持つ手に力を入れた。

 林冲は馬の速度を緩めることなく蛇矛を振るった。曾魁は辛うじて避けた。馬首を返し、槍を振るおうと構えをとる。だがすぐ目の前に蛇矛の切っ先が光っていた。喘ぐように何か叫び、曾魁はなんとか槍で弾いた。

 数瞬前の余裕の表情は、すでにそこには無かった。

 化けものか。同じ動作のはずだ。だが相手は何倍もの速さでそれをこなしている。

 この、曾家の五虎と呼ばれる俺が負けるものか。

 激昂した曾魁の脳裏に、武芸師範の顔が浮かんだ。武芸師範、史文恭は何も言わず、じっと曾魁を半眼で見つめていた。

 追撃しようとした林冲が、馬の足を止めた。一度、蛇矛を下げ曾魁を見据えた。そして片方の口の端を少しだけ上げた。

 面白い。頭に血を上らせると思ったが、寸前で落ち着きを取り戻したようだ。曾家の五虎の名は、飾りではないということか。

 林冲は一瞬で笑みを消し、馬腹を蹴った。風のように間(ま)を縮めた林冲。だが曾魁は慌てる様子はなかった。突風の如き林冲の連続攻撃を防いでいた。

 だが林冲の手は休まることを知らない。次第に曾魁の顔に焦りが見え始める。

 二十合ほど打ち合い、隙を見て曾魁が離脱した。林冲は追わずに蛇矛を横たえると、梁山泊の陣へと馬を向けた。

「よくやった、林冲」

 晁蓋の労いに、林冲は少し浮かない顔だった。

「林冲のあの攻めから逃げ切ったのだ。曾頭市の武芸師範とやらの腕も、相当のものでしょうな」

 馬を寄せ、呼延灼が言った。

 なるほど、曾頭市には史文恭と蘇定という武芸師範がいると聞いている。確かに、林冲が仕留めきれなかったのだ。充分に注意する必要がありそうだ。

「皆のもの、見張り役を残し、各々食事をとれ」

 晁蓋が命令を発し、自分も幕屋へと向かった。

 そこに旗が翻っていた。晁の字の旗は、きちんと立っていた。

 気にしている自分がいることに気が付き、晁蓋は両の手で頬を挟むようにぴしゃりと張った。

 

 曾家の館へと戻った曾魁はうなだれていた。

「気に病むことはない。あの林冲は元禁軍師範だというではないか。見事な戦いだったぞ、曾魁」

 史文恭の言葉に、曾魁は少し肩の力を抜いた。だが長男である曾塗は、憤懣やるかたないようだ。曾魁に指を突きつける。

「傷ひとつ負わせられずにおめおめと戻ってくるとは。曾家の五虎として恥ずかしいぞ」

「まあ、熱くなるでない。命と引き換えにしてでも相手を倒す、などという考えは愚の骨頂だと教えていたはず。戦うならば勝たなければいけない」

「そう、でした。すみません、師父」

「分かってくれれば良い。さあ、明日のために休むが良い。明日は総力戦だ」

 はっ、と曾家の兄弟が拱手をして、奥に下がる史文恭を見送った。蘇定も、史文恭を追うように広間を出て行った。

 翌日。曾頭市の前には梁山泊軍が既に、五千の陣を敷いていた。

 そこへまったく臆する様子もなく、曾頭市軍が悠々と登場した。

 曾頭市軍を率いる頭だった者が七人、横一列に並んでいる。

 左端に曾密、曾魁。右端に曾昇、曾索が並ぶ。中央上手が副師範の蘇定、下手側に曾塗である。そして中央を進むのが武芸師範、史文恭であった。

 自然、中央の史文恭に目が向く。弓を背負い、方天画戟を手にする史文恭が乗っている、真っ白な馬。あれが段景住の言う、照夜玉獅子に違いない。

 晁蓋は眉をしかめた。中央のあの男、泰然と構えているが相当の腕の持ち主だ。馬の乗り方、姿勢、どれもが他の六人を遥かに凌いでいるのが分かった。

 だが晁蓋はさらにいぶかしんだ。どこかで見た覚えのある気がするのだ。

 いや、史文恭という名に覚えはない。だが、確かに、どこかで。

 晁蓋は思い出そうとしたが、それどころではなくなった。

 曾塗が兵たちに命じ、何かを押し出してきた。数輌の護送車であった。

 台車の上に鉄の檻が乗っており、中には手足に嵌める鎖がぶら下がっている。檻は鉄釘で頑丈に補強されおり、簡単に破壊できないと思われた。

 まさに曾頭市の童唄どおりの代物だ。これで晁蓋、ひいては宋江を捕らえようというのだ。

 曾塗が吠える。

「貴様ら逆賊を簡単には殺さん。生きて閉じ込め、じわじわと引き裂いてやる。だが、我ら曾家は心が広いのだ。今なら間に合う、降参して命乞いをすれば許してやってもよいのだぞ」

「ぬかせ、若造め」

 晁蓋が飛び出した。槍をしごき、曾塗へ向かって突き進んだ。

 林冲の合図で全軍が駆け、それを見た曾頭市軍も前に出る。

 期せずして乱戦となった。

 晁蓋は数合、曾塗と刃を交えたが、互いの兵が割って入り、引き離された。そこへ林冲と呼延灼が脇に馬を寄せてきた。

「晁蓋どの」

「すまんな、つい熱くなってしまった」

「こっちだ、林冲」

 呼延灼が鉄鞭を振るい、血路を切り開く。

 敵を二人ほど刀の露にしたところで、劉唐が顔を上げた。おい、と呼ばれた方を向くと、鄧飛だった。馬上の鄧飛が曾頭市軍の中央に向かって、顎をしゃくってみせる。

 そこにはこの乱戦の中、照夜玉獅子にまたがった史文恭が、まるで散歩にでも来たかのように常歩(なみあし)で馬に揺られていた。

 奴が曾頭市軍で一番強い相手だ。つまり奴を倒せば、この戦は勝ちである。

 劉唐も、鄧飛に劣らずそういった嗅覚には長けている。劉唐は迷うことなく鄧飛の誘いに乗った。

 劉唐と鄧飛が左右から近づいてゆく。だが史文恭はちらりとも見ることがない。あくまでも目は、晁蓋を追っているようだ。

 唾を吐き捨て、劉唐が巨大な朴刀を振り上げた。史文恭は目だけを劉唐に向けた。

 史文恭の右手が動いた。その手が、側にいた曾頭市軍歩兵の襟首を掴んだ。そして振り下ろされる刀に向かって、歩兵を高々と掲げた。

 劉唐の刀は、その歩兵をふたつに斬った。

 劉唐は愕然とした。史文恭が、味方を楯にした事にである。しかも躊躇うことなく。

 史文恭の、劉唐を見る目つきが変わった。左手の画戟が微かに揺れた。

 劉唐はあまりの事に、一瞬だけ史文恭から意識が逸れていた。その動きに対応する事ができない。

 だが史文恭の腕の動きが止まった。左手に鄧飛の鉄鎖が巻きついていた。

「へへ、そうはさせねぇぞ。外道が」

 史文恭は鄧飛を一瞥すると馬腹を蹴った。照夜玉獅子が頭を下げ、駆けだした。

 史文恭は鎖の巻かれた腕を胸に付けるように、しっかりと固定した。鎖がぴんと張りつめ、その先を持つ鄧飛の腕が引っ張られた。

 うお、と叫び、鄧飛が飛びだすように馬から落ちた。そこへ曾頭市の兵が殺到した。

「鄧飛」

 劉唐が駆けつけ、鄧飛に群がる兵たちを一蹴した。

「すまねぇ、劉唐」

「なに。しかし、奴には逃げられてしまった」

 劉唐の目が、遠くなってゆく史文恭の背を見ていた。

「奴は確かに強い。だがそれだけじゃない、何かぞっとするものを感じたぜ、俺は」

「俺もだ」

 鄧飛がそう言い、戻ってきた馬に乗りこんだ。

 曾密と曾索が槍を振り回し、戦場を駆けていた。曾家の五虎、次男と三男である。

 そこへ梁山泊の騎兵が突っ込んできた。穆弘だった。

 穆弘は単騎ながら、圧倒的な威圧感をまとい、曾密と曾索へ向かって真っすぐに突き進んでくる。

 曾家のふたりは槍を構えるが、まだ絶対に届かぬ距離だというのに、体が竦んでしまった。それでも何とか踏みとどまり、穆弘を迎え討とうとする。

「ここは一旦、退くのだ」

 曾密と曾索の間に、割って入る者がいた。副武芸師範、蘇定であった。

「しかし、敵に背を向ける訳にはいきません」

「お前たちでは、奴には勝てない」

 蘇定はぴしゃりと言ってのけた。ぐ、と言葉に詰まる曾密と曾索。勝てぬ事は、当人たちが一番よく分かっている。

「ここは屋敷へ戻るのだ。ここまで乱戦となっては、講じた策など使えはしない」

 わかりました、と二人はその場を蘇定に任せ、去った。

 蘇定は苦い顔になった。

「そうは言ったが、俺でも勝てぬよ」

 そうぽつりと漏らし、槍を構えた。

 穆弘と蘇定が交差した。蘇定の腕がじんじんと痺れた。掠っただけで、なんという力だ。

 蘇定は思い出していた。曾魁と闘ったのが林冲という男だと聞き、まさかと思った。そのまさかだった。

 五年以上前だろうか。蘇定は、他の腕自慢たちと同じように柴進の館に入り浸っていた。

 その時、威張り腐っていた洪という、自称教頭がいた。威張るだけあって確かに腕は立った。だから他の武芸者たちも言うことを聞いていたのだが、そこへ流刑人がひとりやってきた。

 それが林冲だった。

 柴進の、下へも置かぬ林冲のもてなしぶりに、洪教頭が怒りをあらわにした。

 曰く、林冲という男は偽物だと。そして林冲に腕前を見せろと詰め寄った。

 だが林冲は本物だった。本物の元禁軍教頭だった。洪教頭との戦いを、蘇定も見ていた。

 純粋に憧れた。無様に倒れた洪の姿を見て、ああはなるまいと強さを求めた。そして曾頭市の武芸師範となったのだ。

 戦が始まり、梁山泊の大将の側にいた騎兵、それは確かに林冲だった。ならば勝てるはずがない。蘇定は即座にそう思った。

 しかも官軍の猛将呼延灼や、林冲と同じ元禁軍師範の徐寧なども梁山泊に加わっているという情報が入ってきている。ならばなおさら勝てるはずもあるまい。目の前にいる、名も知らぬこの男にしたところで、この強さだ。

 穆弘が勢いをそのままに馬首を返し、再び蘇定に向こうとしている。

 だが蘇定はそのまま馬に鞭をくれ、穆弘から逃げた。

 自分の命を引き換えにしてまで相手を討つのは愚の骨頂だ。史文恭が昨日、そう言っていたのだ。逃げたからといって責められるいわれはない。

 しかし、何故に史文恭は梁山泊との戦いを、こうまでして曾頭市に焚きつけたのか。

 蘇定は馬を駆りながらそう思ったが、それ以上考えるのをやめた。

 

 互いに兵力を相当失う結果となった。

 晁蓋は興奮冷めやらぬ様子で酒を呷っていた。

「ちくしょう。曾家の五虎とやらを、もう少しで倒せたのになあ」

「その通りだ、小七。明日こそは勝負をつけてやるとしようぞ」

 阮小七にそう笑いかけ、晁蓋はなおも杯を重ねる。

「晁蓋どのの言う通り、明日も戦です。それくらいにしては。見張りには孫立と黄信が立っております。ご安心してお休みください」

 呼延灼がやんわりと諫めると、やっと晁蓋は杯を置き、腰を上げた。

 自分が先走ったせいで、梁山泊軍は大きな打撃を受けた。さすがに晁蓋は反省した。それで酒を飲みたかったのもあった。

 陣内の寝床に入り、思う。

 梁山泊の大将として、亡くなった者たちのために、勝利を捧げるのみだ。

 目を閉じ、しばらくするが寝付けなかった。

 久々の戦でもあり体は疲れていた。しかし頭が冴えてしまっているようだ。中途半端な酒がいけなかったのかもしれない。何度も寝返りを打っているうちに、その訳が分かった。

 あの男、史文恭という男の事である。

 開戦前、史文恭の眼差しに覚えがあるような気がした。

 そして戦の最中、幾度もその視線を感じた。

 史文恭の姿は見えないが、確かに自分をはっきりと捉えていることがわかった。

 晁蓋は槍を振るい、敵を跳ね除けながらも、思い出そうとした。しかしついぞ思い出すことはできなかった。

 今も、である。確かにどこかで見た、いや感じたもののはずだった。

 何度、寝がえりを打っただろうか。

 ふと何かを思い出した気がした。

 だが、やっと訪れた睡魔が、晁蓋の意識を闇の中へと引きずりこんでしまった。

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