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暗雲

 揺れて鳴る鳴る鉄の鈴

 神さまも鬼も驚くよ

 鉄の車に鉄鎖(てつくさり)

 上にも下にも釘だらけ

 梁山つぶして水泊清め

 晁蓋つかまえ東京へ

 及時雨智多星生け捕りに

 曾家の五虎はここにあり

 天下よその名をようく聞け

 

 通りを駆ける子供たちが、無邪気に笑いながら唄っていた。大人たちも、微笑ましくそれをにこやかに見ている。

 凌州から西南にある曾頭市であった。

 唄っていた子供たちが何かに気付き。そちらへ駆け始めた。

 その方向、曾頭市の入り口から五騎がやってきた。子供たちが回りで嬉しそうに、若さま若さま、と呼びかけている。

 曾頭市を取り仕切る曾家府の曾長者と呼ばれる曾弄の息子たち。

 曾家の五虎と呼ばれる兄弟であった。いずれも立派な体躯をしており、武芸の腕もあった。上から曾塗、曾密、曾索、曾魁、曾昇である。

 この曾弄、女真族であった。

 女真の地からこの地に到り、いまは戸数三千ほどの町となっている。しかし驚くのは曾頭市が有する軍勢であった。

 その数およそ五千。

 曾塗が自慢げな顔で、家の門をくぐった。

「見てください、先生。素晴らしい馬でしょう」

「うむ、誠に。どうしたのだ、この馬は」

 先生と呼ばれた男は、史文恭といった。

 曾頭市の武芸師範として雇われており、兄弟を曾家の五虎と呼ばれるまでに鍛えあげたのである。曾弄はもちろん、兄弟からの信頼も厚かった。

「あたりを巡回していたら、怪しい奴がいましてね。そいつがこの馬を連れていたんです。男はいかにも盗っ人のような風体でしたので、我らが奪ってやったという訳です」

 なるほど、と頷く史文恭の横で、さらに大きく頷く男がいた。副師範の蘇定という男だ。

「さすがは曾家の五虎ですな。腕が立つだけではなく、正義の心もある」

 曾塗は、蘇定を横目で見ただけで、それには答えなかった。そして史文恭に頭を下げ、兄弟たちの元へと戻って行った。

 史文恭は目を細め、馬を眺めている。その史文恭を、噛みつきそうな顔で蘇定が見ていた。

 だが史文恭はそれに気付いているのかいないのか、蘇定にかまうことはなかった。

「では、これで」

 蘇定が去った。史文恭はその背を、蔑(さげす)むような目で見つめていた。

 蘇定はいかにも面白くなさそうに大股で歩いていた。庭にあった小石を見つけ、腹いせに蹴とばし、唾を吐いた。

「なにが先生だ」

 奴が来るまで、自分が一番の武芸師範だったのだ。

 だが数年前、ぼろを纏った物乞いのような男が曾頭市に現れた。それが史文恭だった。

 飯をもらい、宿を借りた史文恭は礼に何かしたいと言った。そこで曾長者は畑仕事を与えようとした。だが蘇定が口を出した。

「曾長者、甘やかしてはいけません。そのような、どこの馬の骨ともわからぬ輩。どこぞが放った間者かもしれませぬ。わしが成敗いたしましょう」

 蘇定は言うが早いか、刀を閃かせた。

 斬った。蘇定はそう思った。だがそこにあるはずの史文恭の姿がなかった。

 ひたり、と蘇定の首に冷たい物が当てられた。蘇定は唾を飲み込むのもためらうほど、動くことできなかった。

 刀だった。冷たい刃の感触が、嫌というほど蘇定に伝わってきた。

 いつの間に、背後へ。

 蘇定はそんな事を考える余裕もなく、ただ喘ぐように息をしていた。

 それを機に、史文恭は曾頭市の武芸師範となった。放りだされると思った蘇定は、副師範として残ることになった。

 後から聞いたが、史文恭の嘆願があったのだという。放りだされると思っていた蘇定は首の皮一枚つながったことになる。

「これも何かの縁というものです」

 史文恭はそう言ったが、蘇定はうすら寒い気を感じた。

 この男、そんな事を欠片も思っていない。蘇定には分かった。

 蘇定を見る史文恭の目に震えた。壊れた家具か何かを見て、もう少し使えそうだからとっておこうかどうしようか、という目だった。

 その後、史文恭は武芸師範という役目をいかんなく発揮した。明らかに曾家の兄弟たちの腕が上がるのが分かった。腰が低く、しかし実力のある史文恭に、曾家は絶対の信頼を置くようになっていった。

 ある時、史文恭が提案した。

「皆さんも聞いたことがあるでしょう。近ごろ梁山泊という凶悪な賊が大きな顔をしていると。曾頭市からは離れているとはいえ、いつ何時奴らが攻めてくるか分かったものではありません」

 確かに、と曾弄が頷いた。

 聞くところによると、梁山泊の連中は遥か南の江州(こうしゅう)にまで軍を出し、州城を好き放題に荒らしたのだという。

「先生、ではどうすれば」

 曾塗が急きこんで聞く。

 史文恭は、慌てるなと手振りをして言った。

「曾頭市も軍を置き、自分の身は自分で守るのです。私はこの曾頭市が大好きなのです。私の命を救ってくれた曾家の皆さんに、ぜひとも恩返しがしたい。この史文恭、命を懸けて、軍を育ててみせましょう」

 拱手する史文恭に、曾家一同が喝采を送った。

 蘇定も後ろで、素晴らしい、と心にもないことを言っていた。

 自警団などではない、軍だと。史文恭め何を考えている。

 蘇定はそう思いながらも、従うしかないと分かっていた。

 蘇定はあの時の目を思い出し、また震えた。

 そして小石をまた蹴とばした。

 晁蓋が刀を振っていた。

 兵のいなくなった練兵場である。心地よい陽気の中、晁蓋は上着をはだけさせていた。

 刀を振るたびに肩から腕に血管が浮き、張り詰めた筋肉がそのたびに盛りあがる。四十を前にした男の身体とは、とても思えなかった。肌は程よく日に焼けており、それが晁蓋の肉体を引き立てていた。

「出陣の準備はできたか、軍師どの」

 言われた呉用は、少し離れた場所で黙ったままだった。

 聚義庁で、晁蓋が曾頭市を攻撃すると言いだした。

 段景住という男が宋江に献上するはずだった名馬を、曾頭市の連中に盗まれたのが始まりだった。

 曾頭市という名は晁蓋も耳にしていた。

 曰く、祝家荘のように梁山泊を潰すと豪語しているらしいと。

 探りに行った戴宗は愕然とした。祝家荘どころではない。曾頭市内で、梁山泊を潰し晁蓋や宋江を捕らえるという童唄を流行らせていたのだ。

 おのれ良い度胸だ、と晁蓋は憤慨した。

「たかが童唄です。放っておいて良いでしょう」

 宋江は必死に晁蓋を止めようとした。

「違います、宋江どの。たかが唄、が危険なのです。人々の口に乗り、唄は全国へと広がる。梁山泊を潰し、晁蓋どのや宋江どのを捕らえることが当たり前のこととして刷り込まれるのです。正しいか正しくないかは別として、です。いつぞや開封府で、宋江どのの名を隠し文字にした童唄が流行りました。その唄が、宋江どのが叛乱を企てているという証拠とみなされたのです」

 意外にも呉用が口を出した。呉用も、晁蓋に前線に立って欲しくはないはずだ。

 ですが、と呉用は続けた。

「晁蓋どの自らが行かれることはありません。宋江どのと私が出向いて、曾頭市にひと泡吹かせてご覧にいれましょう」

 宋江は胸をなでおろし、呉用に大いに賛同した。

「そうはいかん。わしはもう決めたのだ」

 そう言って聚義庁を飛び出した。

 裴宣が呉用に何か渡してきた。出陣する頭領たちの名が書かれていた。晁蓋が書いたのだという。

 呉用は呆れたような、困ったような顔をした。

 練兵場で刀を振る晁蓋は、出陣はすでに決定事項であるという顔だった。

 駄目です、呉用がそう言いかけた時である。

「今度こそ、駄目だとは言わせないぞ」

 晁蓋の言葉には有無を言わさぬ響きがあった。呉用は再び沈黙した。

「駄目です」

 晁蓋と呉用が同時に、声の方向を見た。

 宋江だった。

「呉用も何度も言っているでしょう。晁蓋どの、あなたは梁山泊の柱なのです。その柱にもしもの事があっては、断じてならないのです」

「そう言ってくれるのはありがたい。だが、わしもただこうやって座ってる訳にはいかないのだ。軍師どのや宋江、お主などはわしの事をよく知っているだろうが、新しくやってきた者たちの中には、知らぬ者も少なからずいる。そ奴らの目に、わしの戦う姿を見せておいた方が良くはないか」

 呉用は頷きそうになった。確かにそうであった。

 初期からいる宋万、杜遷、林冲などは晁蓋の強さを知っている。

 だが晁蓋は江州を最後に、二年ばかり戦場に立っていない。祝家荘戦でも、呼延灼戦でも、先頭に立ったのは宋江だった。

「しかし、だからと言って」

「頼む、宋江。正直なところ、体が疼いて仕方ないのだ。お主や頭領たちの活躍を聞くたび、飛びだしてしまいたい気持ちを抑えるのに必死なのだ」

 晁蓋が大きく鋭く刀を振った。空気が切り裂かれるような音を発し、玉のような汗が四方に散った。

 宋江は思わず魅入ってしまった。東渓村の保正だった頃よりも、引き締まっているかもしれない。余計なものが削ぎ落された体だった。

 結局、呉用と宋江が折れた。

 晁蓋の名を誰かが叫んでいる。どうやら白勝が呼びに来たようだ。

「では、行ってくる。留守は頼んだぞ」

 と笑う晁蓋はまるで少年のようだった。

 皆、この笑顔に惹かれるのだ。

 宋江と呉用は顔を見合せ、肩の力を抜いた。

 

 照夜玉獅子という馬だという。

 雪か練り絹のように全身真っ白であるという。また体躯も大きく、一日に千里走ると言われているらしい。

「金国の王子の乗馬だったんだってな。しかしよくそんな馬を盗めたもんだ。さすがは狗児だな」

「及時雨と噂高い宋江どのに馬を届けてから桃花山へ寄ろうと思っていたんだが、まさかここで会えるなんてな、周通よ。人生とはまったく面白いもんだ」

「まったくだ」

 周通と段景住が再会を喜んでいた。

「しかし、あの時、金に残ったのはそういう訳だったのか」

「まあな。そのうちお前にも良い馬を探してきてやるさ。おっと、晁蓋どのが来たようだぜ」

 白勝が前を駆け、晁蓋が石段を下りてきた。

 梁山泊の頭領たちがそれを出迎える。

 壮麗な旗が翻っていた。侯健が新しく作った旗で、中央に大きく晁の字が刻まれていた。

 けっして豪華ではないが威厳を感じさせる装飾で、晁蓋という人間ををよく表していた。それを晁蓋が満足そうに見た。

 頭領たちの前列は晁蓋自らが選んだ二十人だった。林冲、呼延灼、徐寧、孫立をはじめとするそうそうたる顔ぶれだ。中でも阮氏の三兄弟と劉唐は興奮を隠しきれない様子だった。

 晁蓋を頭と頂き、共に生辰綱を奪って以来の縁なのである。そしてその列の一番端に白勝も加わった。

「皆のもの」

 一同の背筋が伸びた。静かな湖面に朗々と響きわたる、凛とした声だった。

 宋江のために馬を盗んできた段景住さえも、このひと声で魅了されてしまった。それが梁山泊の頭領、晁蓋という男だった。

「こたびは曾頭市へ出陣する運びとなった。そこの奴らは段景住の馬を盗んだばかりか、この梁山泊を潰し、わしの首を開封府へ送ると息巻いているらしい」

 場がざわついた。

 阮小七が何か言いたくてうずうずしているようだった。

「曾頭市が我らを潰すというのなら、堂々と戦ってみせようではないか。わしの首が欲しいのなら、奪ってみよと奴らの前に立ってみせようではないか」

 おおお、と梁山泊の頭領から一兵卒に至るまでが、晁蓋の言葉に呼応した。山寨すべてが揺り動くような喚声が巻き起こった。

 その時、一陣の風が吹いた。

 旗が風に勢いよく煽られた。

 みしり、という嫌な音が聞こえたかと思うと、旗を支える柱が徐々に傾き、折れた。

 晁の字を頂いた旗が落ちた。

 誰も、阮小七さえも。ひと言も発する事ができなかった。

 長い沈黙がそこにあった。風に旗がなびく音だけがむなしく聞こえていた。

 呉用が眉間に深い皺を刻んでいた。宋江も同じだった。

「畏れながら申し上げます、晁蓋どの。旗が倒れるというのは、何か良からぬ事の前触れ。こたびの出陣、いま一度お考え直しを」

 呉用にしては珍しい、畏まった物言いだった。

 すかさず宋江もそれに続く。

「これはきっと日を改めよとの徴かと。一同うち揃っている事ですし、ここは酒宴に切り替えて気持ちを新たにしてはいかがかと」

 そう言って宋清と朱富に目配せしようとした。

「ならぬ」

 晁蓋は一喝した。

 不吉だ不吉だと言われれば言われるほど、それに反骨心を示すのが晁蓋という男でもあった。

「ならぬぞ、宋江、軍師どの。今日、出陣と決めたのだ。曲げる訳にはいかぬぞ」

 それに、と晁蓋が笑う。

「旗が地に落ちたのではない。見よ、晁の字が地を覆い尽くしたのだ。我らの意志が地に満ちるという徴ではないか。お主は悪い方悪い方へと考える癖がある」

 気にする事はない。

 高らかに笑い、晁蓋は再び出陣の鬨の声を上げた。

 呉用はまだ、落ちた旗を睨むように見ていた。

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