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魔王

 樊瑞は山寨で目を閉じていた。

 脳裏に先ほどの戦いの顛末を思い起こしている。

 項充と李袞が、梁山泊の陣に飲み込まれた。流星鎚を振り回し、馬を駆けさせようとした時、ふいに陣が閉じられた。

 なんだこの陣は。樊瑞は焦った。

 術に頼りすぎていたかもしれない。戦の根本である陣法を学んでこなかった事を悔いたが、遅かった。

 さらに陣全体を、闇が覆い始めた。

 樊瑞はにやりとした。これは梁山泊の術だ。ならば術で対抗できる。やはり頼るべきは術なのだ。

 背の剣を抜き放ち、呪言を唱える。剣先を陣の上の雲にかざし、喝と叫んだ。

 樊瑞は唾を飲み込んだ。何も起きない。

 どういう事だ。もう一度、次は少し時をかけ術を放った。

 だが、陣の闇は何事もなかったように、黒々と渦を巻き続けていた。

 樊瑞はぶるぶると震え、歯嚙みをした。

「そんなはずはない。俺の術が負けるはずがないのだ」

 しかし幾たび術をかけようが、術は解けなかった。

 樊瑞は退却の鉦を鳴らさせた。

 部下たちは何か言葉をかけようとしたが、できなかった。

 ぶつぶつと何事かを呟きながら馬を駆る樊瑞は、まさに魔王のような形相だった。

 

 項充と李袞が、芒碭山の道を登っている。山頂の寨へ向かっている。

 途中、何度も振り返りながら、また互いに顔を見合せながら登っていた。

 宋江を、梁山泊を信じて良いのだろうか。

 二人が捕らえられた時、大義という言葉を聞いて、宋江は身を乗り出した。

 大義とはなんだ、と宋江に尋ねられた。

 項充は語った。樊瑞との出会い、そして一座を組み、各地を回ったこと。果てしない旅、揺らぐ信念、仲間との別れ、そして決意。

 李袞もそれに加わる。

「すべての賊を平らげるため、芒碭山へ拠った。俺たちの強さと樊瑞の術があればできると思ったし、実際に勝ち続けた。そして最大の賊である梁山泊を併呑する機だと思い定めたのだ。だが」

 結果は敗北だった。

 項充は突如、態度を変え、宋江にひれ伏した。

「我々は降伏します。だから樊瑞を、芒碭山をこれ以上攻めないでくれませんか」

 李袞も同じようにした。項充の意図はすぐに伝わった。かつて命を救ってくれた樊瑞を、今度は救おうという考えだ。

「樊瑞は、どうにかして説得します。俺たちのどちらかが人質となります。それで信用してもらえませんかい」

 しかし宋江は信じられないような言葉を告げた。二人で行きなさい、と。

 項充と李袞は顔を見合わせた。

 周りの誰も、その言葉を咎めようとしない。宋江とはこういう男だ、と言わんばかりに見守っているだけだった。

 寨が見えた。手下によると、樊瑞は中にいるという。

 項充は、扉に手を伸ばすのを、ほんの少しためらった。振り返ると李袞も、何か不穏そうな顔をしていた。

 扉が内側から大きな音を立て、開かれた。樊瑞が出てきた。

 項充と李袞は声をかけられずに立ち尽くした。

 何かが違う。風貌ではない、なにか中からにじみ出るものが、いつもと違うと感じた。

「樊瑞、俺たちの負けだ」

 項充が絞り出すように言った。

 だが樊瑞は、いつもよりも鋭い目つきを項充に向けた。

「俺は混世魔王だ。この世を壊しつくす、混世魔王だ」

 違う、と李袞は思った。このようなことを口走る男ではない。樊瑞に何かが起きたのだろうか。

 すらりと樊瑞が剣を抜き放つ。項充と李袞を品定めするように、ゆっくりと見た。

「役に立たぬ者はいらぬ」

 二人の背筋が凍ったようになった。

「そこまでだ」

 いつのまにか、項充と李袞の前に人が立っていた。

 梁山泊の道士、公孫勝だった。渾名は入雲竜だと聞いている。雲に乗って飛んできたのだろうか。

 公孫勝は二人に下がっているように手振りで示すと、樊瑞の目を見据えた。

「何とか、間に合ったようだ」

「お前が、梁山泊の妖術使いだな。俺の力を抑えていた力を、お前から感じるぞ」

「公孫勝と言う。だが妖術使いは、お前の方だ」

「戯言を。しかし、わざわざ死にに来るとはな。お前の力を見せてみろ」

 樊瑞の声が次第にしわがれたようになってゆく。まるで老人のような声だ。

 樊瑞は剣を背に戻し、自信ありげににやりとしてみせた。

 公孫勝はあくまでも冷静に見える。

「いや、お前から来い。お前の術ごとき、私には通じん」

「ふざけるな。いいだろう、同時に、だ」

 公孫勝が、得たりという顔をした。

 時が止まったように、その場にいる四人が動きをやめた。

 項充も李袞も、目を皿のようにし、息をするのも忘れていた。

 公孫勝と樊瑞は互いを見合ったまま、動かない。

 どちらが先に動くのか。

 このままどちらも動かないのではないかと思われた時、両者の手が背の剣に伸びた。それはまったくの同時であった。

 目を開けていられないほどの光が生じた。

 やがて光が収まり、おそるおそる項充が目を開けた。

 そこに悠然とたたずむ公孫勝の姿と、天を仰ぐように倒れ伏す樊瑞の姿があった。

 樊瑞は弱々しく、だが深い声で何事かを呟いていた。

「ち、力を。俺に、力を」

「お前には力がある、樊瑞。だがその使い方を間違えただけだ。正しい使い方を、私が教えよう」

 項充も李袞も力が抜け、地面にへたり込んでしまった。

 芒碭山に、爽やかな風が吹いた。

 目を開けると、そこに項充と李袞の顔があった。

「無事、だったのか、ふたりとも」

 樊瑞が心配そうに言うと、項充と李袞が嬉しそうな顔をしたが、すぐに涙ぐんだ。

 気付くとそこに道士風の男がいた。梁山泊の公孫勝だと、李袞が言った。

 樊瑞は咄嗟に身構えようとしたが、体中の力が抜けたようになっていて、起き上がることすらできなかった。

「終わったんだ。終わったんだ、樊瑞」

 項充が笑い、やっと樊瑞は悟った。

 負けたのか。負けたのだ。しかし二人が捕らえられてからの記憶があいまいだった。

「魔に、呑み込まれかけていたのだ」

 公孫勝が言い、顔を近づけてきた。梁山泊から放たれていた気と同じものを感じた。

 樊瑞は思った。この男に勝とうとしていたのか。確かに己の方が上だと確信していた。だが公孫勝を目の前にしてはっきりと分かった。勝てるはずもなかったのだと。

「見えるものも見えなくさせてしまう。また、別なものに見せてしまう。魔とは、そういうものだ」

 魔のせいなのか、過信したのか。いや、その過信に心の魔がつけこんだのだろう。

 悲しい顔を少しでもなくすため戦う、という大義を持っていた。しかしいつの間にか、少しずつ、戦いそのものが目的となっていたような気がする。そして梁山泊までも潰してしまおうと考えだしたのだ。

 もう少しで完全に魔王になってしまうところだった、と公孫勝は言った。

 樊瑞はあの老人を思い起こした。老人が魔だったのだろうか。それはもう分からない事ではあった。

「お、おい。よせ、二人とも」

 煩悶する樊瑞を、項充と李袞が抱えた。団牌をつないだものに樊瑞を乗せ、運びだしたのだ。

「はは、動けるようになるまで我慢するのだ、樊瑞」

 樊瑞は観念したように目を閉じ、天を仰いだ。

 紅嘴雀と壺中體は達者だろうか。そんな事を思った。

 息を思い切り吸い込んだ。

 空気が美味い。

 そう思ったのは、いつ以来のことだったろうか。

 

 史進と陳達が騒いでいた。

 朱武の指揮で芒碭山に勝利したのだ。嬉しくもあり、自慢でもあったのだ。楊春の表情にも、珍しくそれが現れていた。

 宋江は、何事もなかったかのような顔をしている呉用を見ていた。

 勝つために、か。呉用がこのような一面を持っていたとは。宋江も少し嬉しくなった。

 芒碭山から公孫勝が戻ってきた。

 やっと上体を起こせるようになった樊瑞が拱手をし、謝辞を述べた。

「聞けば、あなたも項充や李袞も、民のため大義を掲げて戦っていたとか。刃を交えたとはいえ、私たちは同じ目的のために戦っていることが分かりました。これからは力を合わせてゆきましょう」

 朱武は呉用の隣に座していた。芒碭山を破ることができたのは、ひとえに公孫勝の術のおかげでもある。そしてまた樊瑞という術を使う者が梁山泊に入った。さらに項充、李袞という面白い戦い方をする者も加わった。

 朱武の頭の中で様々な陣形と、その応用がめまぐるしく展開されていた。

 気がつくと史進がにやにやしながらこちらを見ていた。朱武は顔を赤らめ、ごほんと咳払いをひとつした。

 帰路は速やかだった。勝利ということもあり、足取りも軽かった。すぐに梁山泊に着き、湖を渡る手配を始めた。

 宋江が、晁蓋へ何から話そうかと考えている時、ふいに呂方と郭盛が守るように馬を寄せてきた。

 葦の茂みかに誰かがいた。

 男は、いきなり飛びだしてくると、宋江の前に平伏した。宋江は男を連れて来させた。

 男は痩せていて、髪と髯が黄色みを帯びていた。 

「及時雨、宋江どのへ献上するために用意した、金の国の名馬を、うかつにも横取りされてしまいました」

 よく見ると唇に切れた跡があり、目の縁も紫色になっていた。なるほど抵抗した際にやられたのだろう。

「曾頭市って所の連中に奪われました。この段景住、一生の不覚でございます」

 段景住と名乗った男は悔しそうに、唸るようにそう言った。

 段景住の目は、野犬のように鋭かった。

 いやむしろ、飢えた狼のようであった。

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