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魔王

「力が欲しいか、小僧」

 目の前の、ぼろ布をまとった小柄な老人がそう言った。

 確かに樊瑞は小僧と呼ばれる年だったが、見ず知らずの者にぶしつけにそう言われる筋合いもなかった。

 樊瑞は老人を無視して通り過ぎようとした。だが、意に反して樊瑞の目はその老人を見てしまい、足が止まってしまった。

 にやりと老人が笑った。

「頭で避けようとしても駄目だ。お前の心が、力を欲しているのだからな、小僧」

 だが明らかに樊瑞は怪訝そうな顔をしていたのだろう。老人は、まあ良い、と去ろうとした。そして去り際、樊瑞の額に指を、とんと当てた。

「今は分からんだろうが、お前には才能がある。これはわしからの贈り物だ」

 思わず後ずさった樊瑞の近くでつむじ風が巻き起こった。

 また会おう小僧、という言葉を残し、風と共に老人の姿は消えていた。

 樊瑞は不思議に思ったが、すぐに忘れてしまった。

 気味の悪い老人よりも、孤児だった樊瑞にとっては日々の生活の方が重要だったからだ。

 数年経ち、樊瑞の背が伸び、体格も逞しくなっていた。

 ある日、いつも仕事をくれる商人の荷を運んだ帰りの事だった。

 道の先に人が何人も倒れていた。

 血の跡、壊された荷車。間違いない、山賊だった。

 隠れようと思ったが、山賊はすでに遠くへ行ってしまったようだ。凄惨な様子に眉をひそめ、道を通り抜けようとした。

 声が聞こえた。呻くような声、それも子供の声だ。

 樊瑞は駆けた。一散に声のする方へと向かった。壊れた荷車の陰に、二人がうずくまっていた。樊瑞と同じくらいの年齢のようだった。

「大丈夫か。山賊か、怪我は無いか」

「う、なんとか。り、李袞は」

 李袞とは、もう一人のことだろうか。李袞と呼ばれた方は意識を失っているが、息はあるようだ。

 二人とも、怪我はしているが、深手ではないらしい。子供であったことと、荷車の陰になったことが幸いしたのだろう。

 樊瑞は自分の着物を裂き、二人の傷に巻いた。

「ありがとう。君は」

「礼など。俺は樊瑞という」

 少年は項充だと名乗った。

「待っていろ。いま水を探してくる」

 言って立ちあがった樊瑞だったが、そのままその場に立ち尽くした。そのまま項充に、動くなと手で合図をした。

 樊瑞の前に五人ほどの男がいた。手には朴刀、人相はどう見ても良いとは言えなかった。

 山賊が戻ってきたのだ。樊瑞は唾を飲み込んだ。

 首領格の男が、朴刀をひらひらとさせながら近づいてきた。

「あん、なんだお前は。こんな所で何してるんだ、小僧」

 樊瑞の眉がぴくりと動いた。

 お前らこそ、と言いたかった。だが樊瑞の上下の歯はがっちりと合わさってしまい、息をする事すら苦しくなってしまっていた。

 山賊が憎かった。孤児になった理由だったからだ。だが同時に、山賊を実際に目の前にして、やはり怖くもあった。相手は五人、しかも凶悪そうな顔をした大人である。

 五人はにたにたとしながらさらに近づいてくる。樊瑞はやはり動けない。

 突如、端の二人が後ろにのけぞるようになった。残りの三人は、二人が地面に倒れる音でやっとそれに気付いた。

 ぴくぴくと痙攣する二人の額に何かが突き刺さっていた。短刀のようなものに見えた。

「樊瑞、大丈夫か」

「助けてくれたってな、ありがとう」

 項充と、そして目を覚ました李袞が後ろに立っていた。

 だが二人とも立つのがやっとのようだ。今にも膝をつきそうなところを必死に耐えている様子だった。

「死にぞこないが」

 首領格が憤怒の表情になり、朴刀を振り上げた。

 弾かれたように樊瑞が前に出た。やっと体が動いた。だが出たところで、どうする。樊瑞は武器すら持っていなかったのだ。

「うわあ」

 悲鳴に似た声を上げ、樊瑞は両の手を前に出した。

「うわあ」

 同じような悲鳴が上がった。山賊たちだった。山賊たちが立ちつくしている。その顔は恐怖で凍りついていた。

 驚いたのは樊瑞だ。

 なんと山賊の体にたくさんの蛇が巻きついているではないか。

 蛇は毒々しい色をしており、炎のような舌をちろちろとさせながら、山賊の体をゆっくりと動いていた。

 首領格の顔の近くに蛇の顔が近づく。悲鳴を必死に堪える首領格。

 そして突如、先の二人と同じように後ろにのけぞり、倒れた。三人の額には、やはり短刀のようなもの。

「今の蛇、お前がやったのか」

「何だい、あれは」

 項充と李袞はそう言って、安心したのか同時に膝をついた。

 慌てて樊瑞が駆け寄る。傷口は開いていない。疲れただけのようだ。

 山賊たちを見る。ぴくりとも動かない。先ほどの蛇はどこかへと消えてしまっていた。

「今度こそ大丈夫だろう。水を探してくる」

 こくりと項充が頷いた。

 樊瑞は駆けた。早く戻らねばならない。また山賊の残党が戻ってくるかもしれない。

 お前には才能がある。

 川にたどり着いた時、忘れかけていた老人の言葉が脳裏に浮かんだ。

 あれは、あの蛇は、俺が出したというのか。

 しかし、どうやって。

 樊瑞は、両の手を覗き込むように見つめた。

 川面にあの老人の姿が見えた。

 だが、振り向いたそこには、誰もいなかった。

 項充は飛刀を、李袞は標鎗の技を得意としていた。

 山賊を倒したのも、その技だった。

 二人とも徐州沛県の生まれで、樊瑞と同じように孤児だった。

 二人は幼い頃から旅芸人の一座に引き取られ、そこでこの投擲の技を磨き、披露していた。今では一度に十本ほど投げられるという。

 樊瑞と、寄る辺のない身となった項充と李袞は生きてゆくため、旅芸人を始めることにした。

 子供だけで何ができるのか、と初めは笑い物にしてやろうと来た者も驚くこととなる。

 項充と李袞の技はもちろん、なにより樊瑞の術に驚くのだ。

 道術や妖術の類であるという触れ込みはしない。それらに否定的な者も少なくないし、何よりまだそこまで大げさな術は使えなかったからだ。

 三人は各地を回った。その中で樊瑞は、二人に負けじと武芸にも精を出し、流星鎚の腕を磨いた。

 旅の中で仲間も増えた。

 女性かと見まごう演技を見せる紅嘴雀(こうしじゃく)。小さな壺の中に体を納めてしまう軟体の壺中體(こちゅうたい)などを加え、旅をつづけた。

 前後左右、どの的にも飛刀を命中させる事のできる項充は、那吒太子よりも腕が二本多い八臂那吒と呼ばれた。

 また李袞は駆けながら、そして跳躍しながらの投擲に才を発揮した。そして拾われた場所にあやかってか、飛天大聖と呼ばれた。

 項充、李袞が縦横に飛ばす飛刀と標鎗の乱舞、紅嘴雀らの演技、それにとてつもない臨場感を演出するのが樊瑞の術である。

 獅子や虎が現れればその息づかいを、炎が現れればその熱気をも、肌に感じるほどなのだ。観客がのめり込まないはずがなかった。

 樊瑞らには信念があった。山賊などに襲われた村などを回り、芝居を楽しんでもらうことである。

 項充、李袞も山賊に襲われたところを樊瑞に救われている。なにより樊瑞自身が孤児となったのも山賊なのだ。紅嘴雀、壺中體も、この信念に共感した。

 悲しみに暮れた顔を少しでも笑顔にする。そのために樊瑞たちは各地を回った。そして皮肉なことに、それは終わりなき旅をも意味していた。

 どこへ行っても悲愴な顔ばかりなのだ。

 この国はどうなっている。樊瑞は時おり、怒りと共に天に叫んだ。

 そして悩みはもう一つあった。銭である。そういうところを回っているので、懐(ふところ)に入ってくるものは無いに等しかった。

 自分らの食い物さえ手に入れることが難しい日もあった。それでも一同はその信念に従い、旅を続けた。

 とある村での公演を終えた後である。

 どこかで噂を聞きつけてきたのか、一座を見にきていた近隣の金持ちが樊瑞に話を持ちかけてきた。一座を買い取ろうと。

 破格の申し出だったが、樊瑞はその誘いを断った。金持ちは、一座を大きな都市中心で回らせようと考えていたからだ。樊瑞はあくまでも信念にこだわった。

 しかし、樊瑞は悩んだ。実際のところ、これ以上続けてゆくことができるのかと。自分だけならば良いかもしれない。だが仲間のことも考えなければならなかった。

 一度は断りを入れた金持ちに、樊瑞は頭を下げた。恥も外聞もなかった。

 ほら見たことか、と金持ちは優越感に満ちた顔をした。

「なあに、恥じることはない。信念だ何だと言って、結局は銭なのさ。お前も分かっただろう、貧乏人の相手をしても何の得にもならんということが」

 ふいに樊瑞の脳裏に、これまで出会った村人たちの笑顔が浮かんだ。どの顔も、ひとときではあるが、とても幸せそうだった。

「違う」

「あ、何だって」

「違う」

 樊瑞の目が妖しく光り、金持ちの体が突如燃え上がった。

「うわあああ」

 狼狽する金持ちに、樊瑞が壊刀を突き立てた。

 戻った樊瑞は、今宵の一件を告げた。そして黙って一座を売ろうとしていた事を、詫びた。

「仕方ないさ。一座の事を考えてくれたのだ。私たちは樊瑞に甘えていたのさ」

 紅嘴雀はそう言ってくれた。

 しかし金持ちを殺めてしまった以上、もう続ける訳にはいかなかった。

「すまない。達者でいてくれ」

 樊瑞が紅嘴雀と壺中體の背を見送る。

 そして後ろにいる項充と李袞に声をかける。

「お前たちも早く逃げろ」

「おいおい、命を救っておいて勝手に放り出そうなんて、あまりにも身勝手ではないか。なあ、李袞」

「まったくだ。一人で全部背負おうなんて無茶だぜ。悪いが死んでも付きまとわせてもらうから、覚悟しておくんだな」

「おい、俺を脅しているのか」

 三人の笑い声がこだました。

 芒碭山。ここに居を構えることにした。

 前からたむろしていた賊まがいの者たちを制圧し、樊瑞が頭領となった。

 樊瑞が目を細めて芒碭山を見ていた。青い気が立ち昇っているように見えた。

 漢の高祖となった劉邦(りゅうほう)が、かつてこの山で天下を取るお告げを得たという。ならば我らにもふさわしいではないか。

「力が欲しい」

 呟いた樊瑞の背後に、いつぞやのみすぼらしい老人が立っていた。あの時から年をとっていないのではないかと思われる姿だった。

「覚えていたか、わしのことを、小僧」

「忘れるものか」

 小僧と呼ばれることに、すこし懐かしさを感じながら樊瑞は微笑んだ。

「お前が妖魔だろうが、何だろうが関係ない。さらなる力が欲しいのだ」

「よう言うた、小僧。だが何のために、力を欲する」

「戦をなくすため」

「なるほどのう。戦をなくすために戦をするというのか。なんたる矛盾か」

「それが、俺が出した答えだ。すべての賊を征し、戦をなくせばよいのだ」

「よかろう、小僧。そこまでの覚悟があるのならば、さらなる力をくれてやろう」

 老人があの時のように、枯れ枝のような指を伸ばした。

 樊瑞はぞっとした。老人の目が見えた。老人の目は虚ろでどこまでも深く、見ていると水の底へと沈んでいくようであったからだ。

 気付くと老人の姿は消えていた。そして残された樊瑞は、体の中からこれまでに感じた事のない力が湧きあがってくるのを感じた。

「お前の言葉がどれほどのものか、ずっと見ておるぞ、小僧」

「小僧ではない。俺は、俺は」

 魔王だ。

 樊瑞は小僧であった頃を思い出した。

 隙を見ては、芝居小屋の中に潜りこんでいた。夢中になっていたのが西遊記だった。

 すぐにつまみ出され、話の筋はあまり覚えてないなかった。だが樊瑞はどうしてか、ある者の名前を覚えていた。

 主役である孫悟空でも玄奘三蔵でもない。むしろ孫悟空に打ちのめされる役だった。

 力及ばず敗れ去る姿に己を重ねたのだろうか。幼心(おさなごころ)にその響きが刺さったのだろうか。

 ともかく、

「俺は、混世魔王だ」

 樊瑞はもう見えぬ老人に向かって、そう叫んだ。

 にわかに天がかき曇り、雷鳴が轟いた。

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