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魔王

 史進が頭を下げている。

「俺のせいだ。俺が前線から下げられるのは構わん。だが、朱武は残して欲しいのだ。まだ朱武は、その力を出してない。必ずその力が必要になる。お願いします、宋江どの」

 陳達も楊春も、そして朱武も驚いていた。

 史進が頭を下げて、人に頼むことなどあっただろうか。そして三人とも、気がつくと史進と共に膝を折り、頭を下げていた。

「頭を上げなさい、史進」

「嫌です。わかった、というまで上げません」

「わかりました」

「ですから、わかったと言うまで」

 がばりと史進が顔を上げた。

「今、何と」

「わかった、と言ったのだ。明日の戦に朱武を使おう。良いな呉用」

 呉用は軽く頷いた。

 徐寧が声を上げた。本隊の先駆けをしていて、敗走する史進らと合流したのだ。

「史進を擁護する訳ではありませんが、芒碭山の奴らも深追いして来なかったところを見ると、馬鹿ではないと考えるべきでしょう。力押しが通じる相手と思わない方が」

「なるほど。徐寧の言うことはもっともだな」

「宋江どの」

 ここで、公孫勝が口を開いた。

「朱武どのの力、お借りしたいのですが宜しいですかな」

 朱武の顔に緊張が走った。

 公孫勝がいかなる策を考えているか分からないが、持てるものを全て出し切るしかない。

 史進が作ってくれた機なのだ。絶対に無駄にする訳にはいかない。

 あのような姿の史進を見るために、梁山泊に来た訳ではないのだ。

 朱武は袖の中で拳を握りしめた。

 朱武を見る史進の顔は、どこまでも嬉しそうだった。

 

 朱武は朝靄に包まれた平原を見つめていた。

「不思議ですか」

 公孫勝が音もなく現れた。公孫勝は軍師として、朱武の力を借りたいと言った。そして呉用は不平を言いもせず、それに同意した。

 確かに、不思議ではあった。

 朱武は無言で、戦場となる平原を見つめ続けていた。

「お主の方が、こと戦(に関しては長けている、と呉用どのも認めたのだ」

「史進の嘆願もあったし、新参者の我らに花を持たせているのでは」

 公孫勝が薄く笑い、隣で平原を眺めだした。

「そんな事をする男ではないよ、あ奴は」

「では、どうして」

「勝つためさ」

 朱武は平原から目を外し、公孫勝を見た。公孫勝は目線を少し上げた。

「梁山泊を勝利に導くためなら、何でもする。呉用どのはその覚悟でいる。たとえ小賢しい策だと言われようとも。芒碭山の首領は妖術を使うのは間違いない。だからこそ呉用どのは自分ではなく、今回はお主が適任だと考えたのさ」

 朱武は再び平原を見た。

 朝靄は晴れ、芒碭山も視界に入っている。数瞬だけ目を閉じ、開ける。

 その時、朱武の目には、平原に展開する陣形が浮かび上がっていた。

 公孫勝がにやりと笑う。

「さあ、出陣の指示を出してくれ。軍師どの」

 朱武は踵(きびす)を返した。足取りは強く、頼もしかった。

 宋江に布陣を告げると、すぐ頭領たちに命令が飛んだ。

 中央には大将の宋江が陣取り、それを守るように中軍を置いた。周りには八つの陣が組まれた。それをさらに八つに分け、計六十四隊の堂々たる構えだ。

 芒碭山から銅鑼の音(ね)が聞こえた。

 馬蹄の響きと共に、軍勢が駆け下りてくるのが見えた。左右に項充と李袞(りこん)が展開し、中央には樊瑞だ。三騎はしばし中腹辺りで梁山泊の陣営を眺めた。

「あれが梁山泊の本隊か。さすがに圧倒的なものを感じるな」

「ああ、だが俺たちの敵ではない。ゆくぞ、項充」

「おうよ」

 項充と李袞の隊が勢いよく駆ける。

 油断するな、昨晩の言葉を思い出しつつ樊瑞はそれを見守る。

 迎え討つ梁山泊の陣、八方を守るは呼延灼、徐寧、花栄、黄信。それぞれ天地風雲の機に則り、軍を動かす。さらに竜虎鳥蛇の状に則るのは史進、穆弘、朱仝、孫立であった。

 芒碭山軍が突っ込んでくる。朱武の指示で旗が振られる。呼延灼、徐寧はぶつからずに隊を左右に分けた。

 おかしい、と察した項充が咄嗟に反転の合図を出そうとする。だが項充の隊も、李袞の隊も半数ほどが止まれずに、梁山泊の陣の中へと突っ込んでしまった。

「いまだ」

 朱武の号令を受け、陳達が旗を振った。旗の合図で、八方の頭領たちが動き出した。

 天地が揺れ動き、風雲が渦を巻きだす。

 竜虎が吼え猛れば、鳥蛇が妖しく蠢いた。

 朱武はひたすらに司令を飛ばし、旗を動かす。中央の宋江は大きく目を見開いて趨勢を見守りながら、ごくりと大きく喉を鳴らした。

 芒碭山軍の加勢も近寄らせないほど、陣形が激しく変化してゆく。

 八八六十四の隊が生き物のように回転し、まるで太極図のような形を描きだした。

 項充と李袞は出口を求めて駆けまわるが、陣形はことごとく変化して、脱出する術を見いだせずにいた。

 呉用は目を細め、朱武を見ていた。

「公孫勝どの、仕上げを」

「分かった」

 公孫勝が背中の古定剣を抜き放った。切っ先を陣に向け、口の中で文言を唱えた。

 奴が梁山泊の道士か。駆けだした樊瑞だったが、公孫勝の方が早かった。

 公孫勝の一喝で烈風が巻き起こり、それが項充と李袞に襲いかかった。さらに空が暗くなり、辺りに闇の帳(とばり)が下りてきた。

「気を付けろ。これは術だ。怖れることはない、焦るんじゃないぞ」

 項充は兵たちを鼓舞するために叫んだ。応、と返事はあるものの一寸先も見えない闇に包まれてしまった。前がどちらかさえ分からなくなってきた。

「項充、どこだ、どこにいる」

 李袞も必死に出口を求めて走る。樊瑞と何年も行動を共にしてきたのだ、これしきの術で驚きはしない。しかし視界が奪われてしまったのは、いかんともしがたい。これでは無闇に標鎗を放つ訳にもいかなくなった。

 さらに風が強くなってきた。李袞は前につんのめるようにして歩くしかなかった。腕で目をかばいながら何とか前を見ると、ほんのり光が見えた。

 樊瑞だ。助けに来てくれたのだ。

 そう思い、李袞は足に力を入れた。

 目の前の光が形を取り始めた。ぼんやりとしたそれは段々と人の形へと変わってゆく。

 光はゆったりとした衣服だった。李袞は顔を上げ、何ごとかを呟いた。

 張聖者、と李袞はうわ言のように呟いた。

 張聖者は同安県の主簿であったが、神速通を用いて飛ぶように走ることができたとされ、神として奉られていた。その張聖者、またの名を飛天大聖と呼ばれたという。

 李袞は幼い頃、飛天大聖廟の前で拾われた。やがて標鎗の技を会得し、李袞は周りから飛天大聖と呼ばれるようになった。この張聖者にあやかったのだろう。

 李袞は力強く大地を踏みしめ、張聖者が導く方へ進んだ。

 しばらく進むと張聖者が止まった。李袞は咄嗟に悟った。

 これは術だったのだ、と。

 次の瞬間、李袞の足元の大地が消えた。

 李袞は手を伸ばした。張聖者の衣に触れた気がしたが、手は空を掴むばかりであった。

 李袞を飲み込んだ奈落は、術ではなく現実のものだった。

 

 朱武の繰り出した陣形、それはかの諸葛亮が編み出したと言われる陣だった。

 八方に天地風雲と竜虎鳥蛇の陣を配し、さらにそれぞれを八つに分けて合計六十四の隊とする。攻撃してきた敵を迎え入れるように陣形を変化させ、陣の内部に閉じ込めてしまう。

 ここまでは諸葛亮のものと同じだ。だが公孫勝の術がこれに加り、さらなる力を発揮する事になる。

 辺り一面を闇と化し、内部に閉じ込められた敵から光を奪うのだ。なすすべもない敵は進む方向さえわからないまま落とし穴へと導かれるのである。

 諸葛亮を敬愛しているという呉用に当てつけた訳ではないが、戦場を見たとき朱武は、この陣を思い浮かべたのだ。呉用も、それを顔に出す訳でもなく、勝利の報を淡々と受けるのみであった。

 項充が叫びながら飛び起きた。汗をひどくかいていた。

 明るかった。暗闇の中、一条の光を頼りに進んだが、奈落へと落ちたのだ。

「那吒太子でも見たか」

 声の方を見ると、そこに李袞がいた。項充はいぶかしみながら李袞を見た。李袞は上体を縄で縛られていた。いま気付いたが、自分も同じだった。

 李袞の言葉を思い出した。

「どうして、那吒太子だと」

「俺は張聖者だった」

「なるほど。そういう事か」

 あの時確かに、項充の目の前で光が那吒太子に変わった。

 言わずもがな、八臂那吒という項充の渾名の由来であった。

 項充はそれが樊瑞の導きだと思い、それを追った。そして、李袞と同じように陥穽に落ちたのだ。

 やがて二人は宋江の前へ引き立てられた。項充と李袞の背後に刀を持った男が控える。宋江の右手が上がった。

 項充も李袞も、覚悟を決めた。二人は顔を見合せ、笑った。

「我らの命もここまでだな。お前と共に死ぬことができて俺は嬉しいぞ、項充よ」

「嬉しいことを言ってくれる。俺も同じだ。だが、樊瑞の事が気がかりではあるな」

「そうだな。樊瑞と共に掲げた大義を全うできずに死ぬとは」

 宋江の手が振り下ろされた。項充と李袞は目を閉じ、息をつめた。

 おかしい。

 首にあるはずの痛みがやってこない。

 目を開けると、宋江が微笑んでいた。

「勘違いしないでほしい。二人を処刑しようとしていたのではないのだ」

 はらりと、二人を縛っていた縄が落ちた。

「大義とは、どういう事ですか」

 宋江は項充と李袞に、真剣な目を向けた。

「大義は、大義さ。なあ李袞」

「ああ、樊瑞と誓った、世直しの大義だ」

 項充と李袞は、悪びれることなく堂々と胸を張り、その目はとても澄んでいた。

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