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魔王

 男が目を開けた。暗い庵の中だった。

 男は何か見えるかのように、北を向いて座していた。

 来るか。男はにやりと笑うと、庵の外へと出た。

 そこは山の上だった。

 山の上に寨が築かれており、庵はその一角にあった。

 芒碭山という名の山だった。梁山泊から二百五十里ほど南の徐州である。

 道士の服を着ている、その男の名は樊瑞。この芒碭山を根城とする、三千もの山賊の頭領であった。

 樊瑞が本寨へと歩いてゆく。

「兄貴、出てこられたのですか」

「兄貴、大丈夫でしたか」

 第二の頭領、項充と第三の頭領、李袞が驚いた顔で出迎えた。

「すまん、李袞よ。水をくれないか」

 はい、と李袞が飛ぶように駆けていった。

「わしが庵に入ってから、どれくらい経った」

「三月(みつき)ほど」

「そんなに経ったか」

 項充の目が、樊瑞をじっと見つめている。

「梁山泊から放たれていた、わしの力を封じようとする気は消えた」

「では」

「うむ。いよいよ梁山泊との戦だ」

 李袞が碗に水を汲んできた。

 樊瑞は喉を鳴らし、それを飲み干すと逆さまに持った。

 微かに残った水が地面に滴った。

「向こうにも道術を使う者がいるようだが、わしらの敵ではない」

 樊瑞が手にした椀から、水がまだ滴り落ちていた。落ちた水は地面に吸い込まれずに、何かの形を作りつつあった。水は細長く伸びてゆき、やがて人の大きさほどの大蛇になった。

 ちろちろと、炎のような赤い舌をちらつかせながら、大蛇が樊瑞に絡みついた。

「項充、李袞、戦の準備をせよ。じきに奴らがやって来る。返り討ちにしてくれようぞ」

「おお」

 項充と李袞が拳を上げ、呼応した。

 大蛇の目と樊瑞の目が、遥か北の梁山泊を見ていた。

 獲物を狙う蛇のように、樊瑞の目が妖しく光っていた。

 

 芒碭山の賊が、梁山泊を併呑すると息巻いていた。

 朱貴の部下の報告では、五百ほどの兵が向かって来ているという。先発隊だろうと思われた。

「俺たちに行かせてくれませんか」

 史進が立ち上がり、言った。だがすかさず李逵も立ちあがって吼えた。

「駄目だ、駄目だ。お前はまだここに来たばっかりだろう。今回はおいらが行かせてもらいますよ。最近、戦に出てないんで腕が鈍ってるんです。いいでしょう、晁蓋どの」

 晁蓋が、史進と李逵を見比べてにこりとする。

「よし、史進よ。お前の力を見せてもらおう」

「ありがとうございます、晁蓋どの」

 史進は、拱手すると飛ぶように聚義庁を出て行った。その後を朱武と陳達、楊春が追った。

 怒りだす李逵だったが、

「慌てるでない、李逵よ。お前は梁山泊のとっておきなのだ。我々でも勝てない相手が出てきた時こそ、お前の出番ではないか」

 という晁蓋の言葉に、満更でもない顔をして、新入りの顔を立ててやるとするか、などと言っていた。

 すっかり李逵の扱いが上手くなったものだと、戴宗と宋江は顔を見合せ、苦笑した。

 史進を先頭に、梁山泊軍五百が進んでゆく。

「どうして同じ数にしてくれって言ったんだい、史進。倍とは言わなくても、もう少し多めに兵を連れて行っても良かったんじゃないのか」

「楊春、だからお前は甘いのだ」

「何がだい、陳達の兄貴」

「考えても見ろ。俺たちは梁山泊に来たばかりなんだ。ここでひとつでかい手柄をあげて見せなきゃ、箔がつかねぇってもんだ。だからさ、なあ史進」

「分かってるじゃないか」

 史進と陳達がにやりと笑った。楊春は朱武と目を見合せ、困ったような顔をした。

 あの二人がああいう顔をすると、決まって碌な事がない。

 はじめ史進は三百と言ったらしい。だがそれを止めたのが朱武だった。

 数がいないのならば仕方ないにしろ充分な兵力があるのにそれはできない、と史進を諌めた。だが史進は、陳達が言ったように、手柄を立てたいあまりに気が急いているのだろう。

 こうなると頑固なのが史進だった。しかし朱武も譲るわけにはいかない。

 朱武も史進の気持ちは分かる。梁山泊に来て大事な初戦だ。負けるわけにはいかないのだ。

 結局、頑として譲らぬ朱武の前に史進が何とか折れる形となった。

 もっともその五百は少華山から来た、気心の知れた連中ばかりだ。そこで同数ならばと、朱武はしぶしぶ承知するのだった。

 翌日、斥候からの報告があった。向こうが意外な速度で進軍していたらしい。

 すでに徐州に入っている。すぐに芒碭山軍が見えた。

 史進が雄叫びをあげた。

 芒碭山軍を苦もなく蹴散らした。少華山軍の、いつもの戦い方だった。

 梁山泊の三千の本隊も、じきに追いついてくると報告があった。史進、陳達そして楊春さえも、この圧倒的勝利に興奮しているようであった。

 さらに徐州を進んだ。さしたる敵もなく、芒碭山へと着いた。麓に兵たちがずらりと、待ち構えるように居並んでいた。

 それを見て、史進が腕を回した。

「へへ、いっちょ見せてやるか。俺たちの強さを」

「だが、公孫勝どのの話では、芒碭山の賊は妖しげな術を使うかもしれぬとか」

「心配性なんだよお前は、楊春。なあに、妖術だか何だか知らねぇが、そんなもの使う暇もなく叩きのめしてやるぜ」

「陳達、逸るな。ここは敵地なのだ。そしてその術とやらは得体が知れない。決して、無理はするんじゃない」

 朱武が一同を見回し、そうたしなめた。

 過日の戦で、梁山泊は高廉の妖術に苦杯をなめさせられたと聞いている。同じ轍を踏むことは、軍師としてあるまじき事だ。

 攻撃の合図を出そうとした史進だったが、芒碭山軍の先頭に推したてられてきた三人を見て笑みを消した。

「なんだ、あいつら」

 左右の男は二人とも徒歩(かち)で、団牌を手にしていた。団牌には獣の顔が刻まれている。

 そしてその二人に守られるように立つ中央の男が、妖しく笑った。

「よくここまで来たな、梁山泊の賊どもよ。だが生きてお前たちが帰ることはできない。お前らは、この芒碭山の土となるのだ。項充、李袞、やってしまえ」

 項充と李袞、と呼ばれた団牌の二人が、史進らの方へ駆けだした。その後ろに同じように団牌を持った手下たちが続いて駆ける。

「我が名は芒碭山、第二の頭領、八臂那吒の項充だ」

「同じく第三の頭領、飛天大聖の李袞。俺たちに会ったことを後悔させてやる」

 だが、迫る敵を前にしても、史進はやはり堂々たる落ち着きだった。

「聞いたか。俺たちの強さ、思い知らせてくれる。ゆくぞ陳達、楊春」

 三騎が同時に駆けた。

 李袞が手を払うと、五つほどの黒い影が飛んできた。それが兵たちに襲いかかる。数人が影に当たり、倒れた。

 そして影がひとつ、史進に向かって飛んできた。史進は弾き飛ばさずに、三尖両刃刀の柄で受け止めてみた。短い槍のような武器だった。

「標鎗か。小癪な」

 さらに今度は項充が手を払った。同じように黒い影が五つほど飛んでくる。陳達はそれを槍で弾き飛ばした。

「こっちは飛刀だぜ」

 項充と李袞は、さらに飛刀と標鎗を飛ばしてきた。

 まだ相当の距離があるにもかかわらず、その狙いは正確なようで、ぶつかり合う前から梁山泊兵が倒れてゆく。

「あいつらを何とかしないと」

 と、前に出ようとした楊春が馬から放り出された。

 楊春がすぐに体勢を整えて見ると、馬の首に標鎗が突き刺さっている。

 芒碭山軍とぶつかった。相手は団牌を持っていたが、史進と陳達はそれをものともせず、蹴散らしてゆく。だが数に物を言わせる敵に、徐々に取り囲まれ始めてしまう。

 歯噛みする史進の目の前に項充が現れた。獲物を見つけたとばかりに、史進が駆ける。

 項充は飛刀を飛ばそうと背に手を伸ばすが、史進の方が速かった。

 火花を散らし、項充が団牌で両刃刀を受けた。

「ぐ、こいつ」

 項充が膝をつきそうになる。

 団牌で攻撃を受け、それを弾き返して飛刀を放つ。項充の必殺の手であった。だが項充は、史進の一手を受けるのが精いっぱいだった。

 飛刀に伸ばしていた手を戻し、両手で団牌を支えた。渾身の力で史進の刀を押し返した。すかさず後方に飛び、背に手を回した。

 追い打ちをかけようとした史進に、飛刀が襲いかかる。史進は馬を止め、両刃刀を少し引いた。

 一本、二本、そして五本。史進は落ち着いて飛刀を弾き返す。

 今度こそ、と馬を進めた時、飛刀が史進の頬をかすめた。

「まだ、飛刀を持っているだと」

 八臂那吒、という渾名が脳裏をよぎった。飛刀の一つが馬の耳をかすめた。史進の乗馬が、驚いて棹立ちになってしまった。

 まずい、これでは恰好の標的だ。

 項充が狙いすまして飛刀をいくつか放った。どうする。

「史進」

 陳達の声がした。横から跳ぶように現れた陳達が、点鋼鎗で飛刀を打ち落とした。

 陳達は勢いを殺すため地面を転がった。馬が駆けてきて、陳達を助け起こすように鼻を押しあてた。

「すまん、陳達」

 馬に戻った陳達がにやりと笑っていた。

 史進の危機を見て、陳達は馬の鞍に槍を突き立てた。そしてしなる槍の反動で、文字通り飛んできたのだ。跳澗虎と呼ばれる所以だった。

 史進は史家村での闘いを思い出していた。

「史進、あれを」

 陳達の言葉に振り向くと、朱武と楊春のいる中軍が乱れていた。もうひとりの頭領、李袞という男の隊が襲いかかっていた。

「おい、早くこっち来いよ。決着つけようぜ、若造」

 項充が史進に向かって手招きしてみせた。史進が三尖両刃刀を突きつけた。

「今はお前に構ってる場合じゃねぇんだ。次に会う時まで、命は預けておいてやる。いくぞ、陳達」

 おお、と陳達が吼え、二騎は項充に背を向けた。背後で項充が何やら喚いているようだったが、すぐに聞こえなくなった。

 朱武の元へと駆けながら陳達は思った。項充の挑発に、史進が乗ってしまうのではないか思っていたのだ。だが違った。劣勢といえる状況の中で、頭に血を上らせることがなかった。

 陳達は史進の横顔をちらりと見た。 

「どうした、陳達。急ぐぞ」

「おうよ」

 史進たちが駆けつけた時には、すでに中軍は敗色が濃厚だった。

「すまん、史進。防ぐので精いっぱいだった」

 楊春が大桿刀を振るいながら、駆けつけた。李袞は手下たちに突撃を命じている。史進は朱武を見た。

 朱武はこくりと頷いた。撤退の鉦が鳴らされた。

 陳達も楊春も悔しそうだった。だが朱武が一番悔しそうな顔をしていた。

 半数以上が討たれた。敗北だった。

「すまない、朱武。俺がこの人数で行くと言ったからだ」

「いや、わしのせいでもある。先発隊を倒した後、梁山泊の本隊を待つべきだったのだ。敵の力も見極められず、わしの戦略の拙さが敗因だ」

 追っ手を警戒しつつ、馬と兵を休ませた。

 史進は水を飲み、敗走の様子を思い出していた。

 殿を走る史進の目に、芒碭山第一の頭領である樊瑞が見えた。史進には樊瑞の声が聞こえた。

 術を使うまでもなかったな。

 顔も見えない、声など届くはずもない距離だった。しかし、はっきりとそう言っているのが聞こえたのだ。

 叫びたかった。吼えたかった。

 だが史進はそれを堪えた。

 史進の背が震えていた。

 

「梁山泊とは、あの程度だったか。なあ李袞」

「ああ、明日の戦いも、樊瑞の術なしで勝てるかもしれんな」

 史進の隊を打ち払った項充と李袞が、酒を碗で飲みながら笑った。だが樊瑞は、渋い顔をしていた。

「油断はしない事だ。もちろん、お前たち二人の力があいつらよりも上だったことが勝因だ。だが梁山泊から感じていた強力な気は、今日の隊からは感じられなかったのだ」

「ふむ、明日にでも来るだろう本隊に、そいつがいるというのだな。まだ浮かれてる場合ではないという事か」

 項充がそう言い、碗の酒を飲み干すと表情を引き締めて、立ち上がった。

「明日も頼むぜ、樊瑞」

 去り際に李袞が微笑んだ。

 樊瑞はゆっくりと頷いた。

 遠くの平野に松明が星の数ほど見えた。梁山泊の本隊だ。

 三月(みつき)の間、樊瑞の力を抑えていた気を、はっきりと感じた。

 油断はしない事だ。

 項充と李袞への言葉は、樊瑞が己自身に向けて言ったものでもあった。

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