108 outlaws
魔王
一
夕方、執務を終えた蕭譲が、侯健の工房へ向かっていた。
すれ違う女性たちに挨拶を交わす。工房で働いている女性たちだ。梁山泊の中から手先の器用な女性たちを集めたという。
「お疲れ様」
返事はないが、蕭譲はいつものように中へと入ってゆく。作業場である大部屋から、また一人出てきた。
「あら、蕭譲さま。あの子は、奥にいますよ」
「ありがとうございます」
女性を見送り、奥の部屋へと向かう。そこは侯健だけの自室を兼ねた作業室だ。
思い立ったらすぐに作業ができるように寝台まで備えており、いまではほとんどここで寝起きしているという。
この作業室で、製作する衣服や軍袍、旗などの雛型を作る。雛型を図面に起こして、それを元に女性たちが縫い上げるのだ。
「入るよ、侯健」
おう、という声が戸の向こうからした。
「お疲れ様」
「うむ。ちょっとだけ待っていてくれ」
と侯健は図面を睨みつけ、腕組みをしてしばらく唸っていた。そして途端に明るい顔になり、なにか書きこんだ。
「すまないね、これだけ終わらせたかったんだ」
その図面を片づけながら侯健が笑った。紙の束を棚にしまい、寝台へ足を向けた。
「今日は忙しくて、あまりかまえなかったから寝ちまったよ」
侯健の寝台に小さな女の子が、寝息を立てていた。小さな手には布の切れ端が握られていた。
「いつもすまない。本当に助かっているよ。邪魔だったら言ってくれよ」
蕭譲はその娘を、起こさないように優しく抱き上げた。娘は布をしっかりと、宝物のように抱きかかえていた。布にはさまざまな糸が縫いつけられていた。
「いやいや、この子なかなか見どころがあるのだ。将来、大物になるかもしれないぞ」
「はは、買いかぶりだよ」
「そんな事はないさ。見ろ、その布を。まだ読み書きができる年でもないのに、その針の使い方だ」
蕭譲の幼い娘がここに来るようになったのは、たまたまだった。
妻が風邪で寝込んでいた時、何かを届けにこの工房を訪れた。その時に娘も連れて来ていたのだ。
目を離した隙に、娘は針を手にしていた。危ない、と思ったが初めて触ったとは思えないほど器用に遊び始めたのだ。
家では、蕭譲の筆に興味も示さないのに、針を楽しそうに手にしている娘を見て、少し寂しく思ったことを覚えている。
それ以来、娘はこの工房を気に入ってしまったようで、こうして迎えに来るまで遊んでいるのだ。仕事の邪魔になるから、と何度も言い聞かせたのだが駄々をこねる始末で、結局は侯健の厚意に甘える形となってしまっていた。
「そう言えば、陝西の少華山から新たに合流したんだってな、蕭譲。そのせいか、いろんな旗や服を作れって命令さ。湯隆のとこも同じらしい。また忙しくなりそうだよ」
そう言って袖捲くりをし、長い腕をのぞかせた。
「ああ、その少華山の好漢を救い出すために、、官服を奪って太尉に成り済ましたという。まったく軍師どのは、よくそのような策を思いつくものだ」
「はは、確かに。しかし分かっていれば官服を持って行ってもらったのに。まあ突然の出発だったから仕方ないか」
侯健もそろそろ夕飯だろう、と言って蕭譲は工房を後にした。
侯健が作ったという官服ならば、州の長官が見ても偽物だと露見する事はないだろう。
侯健は使う生地や色合いにもこだわりを見せる。官服ともなれば、本物に使用されている素材を使い、同じ染料を求めるのだという。手配するのに、国中を駆けまわらされる者たちの方が大変なようだと聞いた。
蕭譲などは着物には無頓着な方なので、そこまでと思ったりするが、妻が言った。
「あなたも筆や紙にはとてもこだわってらっしゃるでしょうに」
そう言われると、なるほどと納得したものだ。文書の偽造には、実際の命令書に使われている紙を揃え、使われている筆を用いる。侯健と同じことだった。
蕭譲はふと娘を見た。この子が大きくなった時、梁山泊はどうなっているのだろうか。
蕭譲は、その先は考えないようにして、家への道を急いだ。
抱いている娘がむにゃむにゃとねごとを言った。
蕭譲が優しい目になった。
西日に照らされた練習場に、三人の男たちがいた。
武器を構える史進、それと向かい合う徐寧。そして離れて彼らを見守る林冲であった。
史進と徐寧は、穂先を取り外した練習用の槍を手にしていた。
じりっと、史進の右足が擦るように動いた。それに合わせ、徐寧の左足が動く。
「へへ、強えな、あんた」
「お前もな、史進」
嬉しそうに笑う史進だったが、徐寧は表情を崩さずに、ぴたりと槍を構えている。
史進が、じりじりと近づいてゆく。
間合いに入るか入らないかの時、史進が駆けた。左足を踏み込むと同時に力を込め、右手を突き出す。風を切る音が、徐寧の耳元で唸りを上げた。徐寧は、片方の口の端を歪めた。
避けるので精いっぱいだった。九紋竜の史進、これほどまでの腕だとは。
史進の槍が戻るのに合わせて、徐寧が前へ出た。史進が迎え討とうとしたが、ふいに徐寧が消えた。
下か。徐寧は体を沈ませながら、回転していた。その勢いを利用して、低い位置に回し蹴りを放った。
金鎗法のひとつ、払いの手の応用である。
ここで体術だと。意表を突かれた史進は避けられず、足首を刈られた。
史進が背中から地面に落ちた。しかし史進は立とうとするのではなく、そのまま後方に転がった。追い打ちをかけようとした徐寧との距離があいた。
そこで史進は跳ね起きると槍を一気に突き出した。徐寧が槍を突き出すのとほぼ同時だった。
穂先と穂先が激突した。史進と徐寧、二人の手に握られている槍が、中ほどから粉々に砕けてしまっていた。
林冲が思わず身を乗り出した。
王進の技だった。
まだ粗削りではあるが、史進はしっかりと王進の教えを受け継いでいるのが分かった。
林冲も徐寧も、禁軍一と言われた王進には特別な思いを持っていた。
「おおい、林冲よ。こんなところにいたか。一緒に飲もうと思って、酒を持ってきたぞ」
ばたばたと足音を響かせ、魯智深がやってきた。
徐寧と史進が破壊された槍を持っているのを見て、魯智深は呆れたような顔をした。
「まったく、お主らはいつもどっちが強いかなどと比べてばかりだな」
「おいおい和尚こそ、どっちが酒が強いか、といつもやっているではないか。同じ事だ」
徐寧が真顔でそう返した。横で史進が苦笑している。
「まあ良い、俺たちも飲みに行くぞ、史進。王進どのの事を語ろうではないか。それにそれほどの腕だ、もっと良い武器も持たねばならんな。湯隆に言って早急に造らせよう」
「それは願ってもない。だが良いのかい。順番を守らないと鉄面孔目ってのが怖いって聞いたが」
「なあに、心配するな。湯隆には、大きな貸しがあるのだ。嫌とは言わせんよ」
なあ林冲、と徐寧がにやりとした。林冲は苦笑いするしかなかった。
史進と徐寧が行ってしまった。
残された林冲と魯智深は、湖を見下ろせる場所まで行き、飲み始めた。いつものように皆でわいわいと飲むのも良いが、たまにこうするのも悪くないと林冲は思った。
「しかし林冲よ、驚いたな」
「何がです」
「鍛冶屋の湯隆だ。あ奴、わしが五台山にいた時に、あの禅杖を打った男だったのだ。各地を放浪していると言っていたが、まさかこんな所で会おうとは、まったく」
「仏のお導きかな」
「がはは、先に言うでない」
魯智深が笑って杯を空けた。林冲も杯を空けた。
「ううむ、しかしこの朱富の造る酒は美味いのう。武松に言わせると景陽岡の銘酒、透瓶香にも劣らぬ美味さだとか。いくらでも飲めるわい」
「ふふ、朱富が聞いたら喜ぶだろうな。しかし、魯の兄貴と武松がいたのでは、いくら酒があっても足りないな」
「がはは、じゃんじゃん造ってもらうさ」
魯智深には、梁山泊に戻った日に妻のことを伝えてある。魯智深は、そうか、と悲しそうな顔をしていた。しかしその後も、ことさら同情するでもなく、普段通りの魯智深で接してくれた。
林冲にはそれが何より嬉しかった。
梅雪よ、俺は素晴らしい友を持ったぞ。
やっと出た月の光が、林冲と魯智深をやさしく包んだ。
朱富は卓を片付け、腰を伸ばした。
梁山泊の山寨内にある酒屋である。
今日はこれで終いかな。そう思ったが、宋清が卓に皿などを並べ始めた。
「こんな時間だ。さっきの客で終わりだよ」
朱富がそう言った直後である。
「遅くにすまんな。まだやってるかい」
そこへどやどやと入ってきた客がいた。徐寧と史進、そして湯隆であった。
三人は卓に座り、酒と肴を注文し始める。さきほど宋清が準備していた卓だ。
「たぶん来るんじゃないか、と思ったんだ。魯智深どのが朱富の酒を持っていったろう。ならば、酒を見た誰かが飲みたくなるだろうって」
「なるほど、鉄扇子ねえ」
朱富は呆れているような感心しているような顔で宋清を見た。
兄の宋江は及時雨、恵(めぐみ)の雨と呼ばれている。そして宋清は鉄扇子だった。雨を降らせる芭蕉扇を持つという鉄扇仙の事だ。
兄さんのついでのようなものさ、と本人は言っていたし、朱富もそう思っていた。
だが宋清の仕事ぶりを目にして、朱富の考えは変わった。
この梁山泊という大所帯の、それも大喰らい大酒のみばかりの、大規模な宴会を見事に取り仕切っていたのだ。
宋清は宋家村を、宋太公の代わりに実質的に切り盛りしていたのだ。だからといって梁山泊の宴会を仕切られる訳ではないが、その事も理由のひとつなのだろう。そしてもちろん宋清自身の力があるからこそ、できることなのだ。朱富は、宋江すら一目置く宋清の力を知った。
卓では徐寧たちがにぎやかに酒を飲んでいた。朱富は目を細めた。
自分が造った酒を美味いと言って飲んでくれる。これ以上の喜びがあるだろうか。
とっくに店を閉める時間は過ぎていたが、まあ良いだろう。
宋清は店の外で片づけをしていた。
顔を上げるとひとりの男が歩いていた。道士の服を着ており、白髪(はくはつ)だった。
あれは、公孫勝どの。しばらく姿を見ていなかったが。
公孫勝は、軽く会釈すると聚義庁の方へと向かって行った。
晁蓋と呉用は、まだ聚義庁にいた。その二人の前に公孫勝が現れた。
三月(みつき)ほど前である。
公孫勝は非常に好戦的な魔の気を、南の辺りに感じた。そしてそれを抑えるために、庵で祈祷をしていたのだ。
「いつまでも抑え続けることはできませんので、機を見て出てまいりました」
「苦労をかけたな。して、どうなったのだ、その魔とやらは」
「すぐにでも攻め込んでくるやもしれません。準備を、晁蓋どの、呉用どの」
「それほどなのか。うむ、明日の朝一番で皆に伝えるとしよう」
冬は終わりに近づいていた。
だが梁山泊を吹き抜けた風は、まだ冷たかった。