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因縁

 いくつもの宿場を越え、峠を越え、武松は歩き続けた。

 時折、武松を手配する高札を見たが行者姿のため、見とがめられることもなく距離を重ね、青州に近づくにつれてその高札も数を減らしていくようだった。

 吐く息もかなり白くなり、いつ雪が降り出してもおかしくない時候になっていた。

 すでに十一月、寒さをしのぐため武松は一軒の居酒屋へと入った。裏手には巨岩が重なった山がそびえており、店の脇には谷川が流れていた。

「おやじ、まず酒をくれ。そのあと肉をたんまり持ってきてくれ」

 腰をおろすなり武松がそう言った。僧形の武松を見て驚いた店の主人が愛想の良い顔で近付いてきた。

「お客さま、申し訳ありません。今日は肉がもう売り切れてしまいまして、酒も濁酒(どぶろく)ならございますが」

 武松は腹が減っていたが、ないのならば仕方がない。野菜の煮付けを一皿頼み酒を飲んだ。

 しばらく飲み、体が温まった頃である。三、四人の男たちを引き連れて、ひとりの若者が入ってきた。

 その男は二十四、五くらいだろうか。小奇麗な服をまとい、凛とした風情だ。

 店の主人の態度があからさまに恭しくなった。

「これはこれは若さま。寒い中わざわわざありがとうございます。お待ちしておりました」

 若さまと呼ばれた男は鷹揚に頷くと、頼んでいたものはできているか、と主人に言った。

 横目で見ていた武松は、ふと施恩の事を思い出した。この若さまとやらは、土地の金持ちの息子なのだろうか。

 奥から出てきた主人は大きな酒の瓶を抱いていた。若さまの卓で封を切り、杯に注ぐ。芳醇な香りが漂ってきた。

 続いて鶏の丸煮を二羽分と牛肉を盛りつけた大皿を運んできた。

 これには武松も目を丸くした。先ほど主人は肉は品切れだと言っていたはず、これは話が違うではないか。

 武松は主人を引きとめると低い声で言った。

「おいおやじ、肉があるならこっちにも出してくれ、あの酒もだ。金は払うから」

 主人は困ったような顔で、

「行者さま、落ち着いてください。あの肉や酒は若さまがご自分で持ち込んだのです。うちは調理をしただけなんですよ」

 寒さのせいでいつもよりも酔いが回っていたのだろう。武松は主人と、出せ、出せないの押し問答を始めた。

 ふいに武松が主人の胸のあたりを押してしまった。加減はしていたのだが、常人にとって武松の力は簡単に耐えうるものではない。

 主人は後ろによろけると椅子に躓(つまず)き引っ繰り返ってしまった。

 すまぬ、と手を伸ばそうとする武松に若さまと呼ばれていた男が怒鳴った。

「おい、坊主のくせに乱暴をはたらくとは一体どういう事だ」

 武松は男を一瞥して言う。

「わざとではない、はずみだよ。大体あんたには関係ないだろう。引っこんでいてくれ」

 その言葉に男が怒りをあらわにした。

「何だと、この坊主。ここをどこだと思っていやがる」

 知らんよ、と武松は酒を飲もうと杯に手を伸ばす。

 と、その杯が叩き落された。

「知らねぇではすみませんぜ、お坊さま」

 男の取り巻きたちが武松の卓を囲んでいた。どの顔もならず者といった風だ。

「おい行者。表で話し合おうじゃないか」

 男が先に店を出ると、武松も黙ってそれに続いた。

 男が腰を落とし、構えを取る。いっぱしの武芸はできるようだ。

 どれ、と武松も拳を握り、構えを示した。

 一瞬にして男の顔色が変わった。

 この行者、これほどの実力の持ち主だとは。

 男の目には武松が倍ほどにも大きく見えていた。ごくりと唾を飲み込む。

「若さま、やっちまってくだせぇ」

 取り巻きの声援に突き動かされたのか、男が踏み込み拳を放つ。

 武松は頭を傾げ、それをかわす。連続で拳を放つ男だったが、どれも武松には当たらない。手で払われ、いなされる。

 男は体勢を整えようと一歩後ろへ飛んだ。

「どうした、それで終いか」

 巨大な拳が突然目の前に飛んできた。避ける暇もなく、胸に突き刺ささった。嗚咽をもらした男だったが、何とか踏み堪えた。

 一撃で倒れると思っていたが、少しは骨のある男のようだ。

 ならば、と武松は続けざまに拳を放った。

「加減するのは、かえって失礼だな」

 全部で十発ほどだろうか。

 武松の拳をまともに食らった男は息も絶え絶えによろめくと、脇の谷川へと足を滑らせた。

「たいした若造だ。おい、お前ら何をぼうっとしている、早く助けてやれ」

 二人の戦いを見ていた取り巻きは、武松の言葉に弾かれたように川へと入って行った。

 気を失った男を担ぎ、捨て台詞を吐きながらどこかへ去って行った。

「代金は置いておくぞ」

 武松は卓に銭を置くと、瓶の酒を一杯飲み、鶏の脚をもぎとって店を後にした。

 

 川沿いを歩きながら、武松は喰い終えた鶏の骨を道端へと放り捨てた。すると塀の陰から犬が飛び出してきて、その骨を拾おうとした。犬は骨をくんくんと嗅ぐと、武松に向かって唸り声を上げた。

「すまんな。もう肉はないのだ」 

 犬に構わず歩き出す武松。だが犬は武松に向かって吠え猛りはじめた。犬は武松の後についてまわり、吠え続ける。

「うるさい犬だな」

 武松が追い払おうとした時、さらにもう二匹が武松に飛びかかってきた。

 そしてさらに通りの向こうから、十数人が現れた。めいめいが白木の棒などを手にしている。犬はこいつらが放ったのだろう。

「いました、あいつです、旦那さま」

 中央の、旦那さまと呼ばれた大柄な男が近づいてくる。

 武松は刀の柄に手をかけ、走り出した。男は棒を構え、迎え討つ態勢だ。

 刀を抜き放ち、男に斬りかかった。

 だが、刀が鞘から抜けなかった。

 刃が引っかかっているのか。武松はそのままの勢いで前につんのめると体勢を崩し、谷川へと落ちてしまった。

「そこにいたのか、くそ坊主め」

 さらに先ほど武松に倒された若さまと呼ばれる男が、三十人ほどを引き連れて駆けてきた。

「こいつにやられたのか、亮(りょう)」

 大柄な男が聞いた。

「そうです兄者。おいお前ら、とっととふん縛っちまえ」

 この二人は兄弟のようだった。そして手下どもに命じ、武松を縛りあげてしまった。

 水を滴らせながら、武松が引きたてられてゆく。

 白壁に囲まれた大きな屋敷だった。塀の周りには松や柳が植えられている。

 屋敷の庭に引き立てられ、一本の大きな柳に武松は縛りつけられた。上半身は着物をはぎ取られていた。

 弟が籐(とう)の鞭を手に近づいてくる。大柄な男は脇で腕を組んでいる。

「へへ、覚悟してもらうぞ」

 鞭が振りあげられた。

 武松は目を閉じ、それを待った。

 だが、そこに別の声が聞こえてきた。

「一体、誰を打とうとしているのだ」

「お師匠さま」

 二人の男が同時に声を上げた。聞き覚えがあった。

 武松は目を開けると、驚きの声を上げた。

「宋江の兄貴ではないか」

「なんと、武松か。孔明(こうめい)、孔亮(こうりょう)、縄を解いてくれないか。この武松は私の義弟(おとうと)なのだよ」

 師匠と呼ばれた男、それは宋江であった。どうして柴進の館にいたはずの宋江がここにいるのか。

 縄を解かれた武松に、宋江は二人を紹介した。

 孔明と孔亮というこの兄弟は、なんと宋江を武芸の師匠と仰いでいるのだという。

 孔亮が、頭を下げながら武松の衣服などを返してくれた。

 行者の姿に戻り、刀の柄に手をかける。少しだけ刀を引き抜いてみる。

 それほどの力を入れずとも、その刃があらわになった。

 しかしあの時、兄の孔明と対峙した時は抜く事ができなかったのだ。

 お前が斬るべき相手は、俺たちが教えてやる。

 刀が囁いた言葉を、武松は思い出していた。

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