108 outlaws
因縁
三
いくつもの宿場を越え、峠を越え、武松は歩き続けた。
時折、武松を手配する高札を見たが行者姿のため、見とがめられることもなく距離を重ね、青州に近づくにつれてその高札も数を減らしていくようだった。
吐く息もかなり白くなり、いつ雪が降り出してもおかしくない時候になっていた。
すでに十一月、寒さをしのぐため武松は一軒の居酒屋へと入った。裏手には巨岩が重なった山がそびえており、店の脇には谷川が流れていた。
「おやじ、まず酒をくれ。そのあと肉をたんまり持ってきてくれ」
腰をおろすなり武松がそう言った。僧形の武松を見て驚いた店の主人が愛想の良い顔で近付いてきた。
「お客さま、申し訳ありません。今日は肉がもう売り切れてしまいまして、酒も濁酒(どぶろく)ならございますが」
武松は腹が減っていたが、ないのならば仕方がない。野菜の煮付けを一皿頼み酒を飲んだ。
しばらく飲み、体が温まった頃である。三、四人の男たちを引き連れて、ひとりの若者が入ってきた。
その男は二十四、五くらいだろうか。小奇麗な服をまとい、凛とした風情だ。
店の主人の態度があからさまに恭しくなった。
「これはこれは若さま。寒い中わざわわざありがとうございます。お待ちしておりました」
若さまと呼ばれた男は鷹揚に頷くと、頼んでいたものはできているか、と主人に言った。
横目で見ていた武松は、ふと施恩の事を思い出した。この若さまとやらは、土地の金持ちの息子なのだろうか。
奥から出てきた主人は大きな酒の瓶を抱いていた。若さまの卓で封を切り、杯に注ぐ。芳醇な香りが漂ってきた。
続いて鶏の丸煮を二羽分と牛肉を盛りつけた大皿を運んできた。
これには武松も目を丸くした。先ほど主人は肉は品切れだと言っていたはず、これは話が違うではないか。
武松は主人を引きとめると低い声で言った。
「おいおやじ、肉があるならこっちにも出してくれ、あの酒もだ。金は払うから」
主人は困ったような顔で、
「行者さま、落ち着いてください。あの肉や酒は若さまがご自分で持ち込んだのです。うちは調理をしただけなんですよ」
寒さのせいでいつもよりも酔いが回っていたのだろう。武松は主人と、出せ、出せないの押し問答を始めた。
ふいに武松が主人の胸のあたりを押してしまった。加減はしていたのだが、常人にとって武松の力は簡単に耐えうるものではない。
主人は後ろによろけると椅子に躓(つまず)き引っ繰り返ってしまった。
すまぬ、と手を伸ばそうとする武松に若さまと呼ばれていた男が怒鳴った。
「おい、坊主のくせに乱暴をはたらくとは一体どういう事だ」
武松は男を一瞥して言う。
「わざとではない、はずみだよ。大体あんたには関係ないだろう。引っこんでいてくれ」
その言葉に男が怒りをあらわにした。
「何だと、この坊主。ここをどこだと思っていやがる」
知らんよ、と武松は酒を飲もうと杯に手を伸ばす。
と、その杯が叩き落された。
「知らねぇではすみませんぜ、お坊さま」
男の取り巻きたちが武松の卓を囲んでいた。どの顔もならず者といった風だ。
「おい行者。表で話し合おうじゃないか」
男が先に店を出ると、武松も黙ってそれに続いた。
男が腰を落とし、構えを取る。いっぱしの武芸はできるようだ。
どれ、と武松も拳を握り、構えを示した。
一瞬にして男の顔色が変わった。
この行者、これほどの実力の持ち主だとは。
男の目には武松が倍ほどにも大きく見えていた。ごくりと唾を飲み込む。
「若さま、やっちまってくだせぇ」
取り巻きの声援に突き動かされたのか、男が踏み込み拳を放つ。
武松は頭を傾げ、それをかわす。連続で拳を放つ男だったが、どれも武松には当たらない。手で払われ、いなされる。
男は体勢を整えようと一歩後ろへ飛んだ。
「どうした、それで終いか」
巨大な拳が突然目の前に飛んできた。避ける暇もなく、胸に突き刺ささった。嗚咽をもらした男だったが、何とか踏み堪えた。
一撃で倒れると思っていたが、少しは骨のある男のようだ。
ならば、と武松は続けざまに拳を放った。
「加減するのは、かえって失礼だな」
全部で十発ほどだろうか。
武松の拳をまともに食らった男は息も絶え絶えによろめくと、脇の谷川へと足を滑らせた。
「たいした若造だ。おい、お前ら何をぼうっとしている、早く助けてやれ」
二人の戦いを見ていた取り巻きは、武松の言葉に弾かれたように川へと入って行った。
気を失った男を担ぎ、捨て台詞を吐きながらどこかへ去って行った。
「代金は置いておくぞ」
武松は卓に銭を置くと、瓶の酒を一杯飲み、鶏の脚をもぎとって店を後にした。
川沿いを歩きながら、武松は喰い終えた鶏の骨を道端へと放り捨てた。すると塀の陰から犬が飛び出してきて、その骨を拾おうとした。犬は骨をくんくんと嗅ぐと、武松に向かって唸り声を上げた。
「すまんな。もう肉はないのだ」
犬に構わず歩き出す武松。だが犬は武松に向かって吠え猛りはじめた。犬は武松の後についてまわり、吠え続ける。
「うるさい犬だな」
武松が追い払おうとした時、さらにもう二匹が武松に飛びかかってきた。
そしてさらに通りの向こうから、十数人が現れた。めいめいが白木の棒などを手にしている。犬はこいつらが放ったのだろう。
「いました、あいつです、旦那さま」
中央の、旦那さまと呼ばれた大柄な男が近づいてくる。
武松は刀の柄に手をかけ、走り出した。男は棒を構え、迎え討つ態勢だ。
刀を抜き放ち、男に斬りかかった。
だが、刀が鞘から抜けなかった。
刃が引っかかっているのか。武松はそのままの勢いで前につんのめると体勢を崩し、谷川へと落ちてしまった。
「そこにいたのか、くそ坊主め」
さらに先ほど武松に倒された若さまと呼ばれる男が、三十人ほどを引き連れて駆けてきた。
「こいつにやられたのか、亮(りょう)」
大柄な男が聞いた。
「そうです兄者。おいお前ら、とっととふん縛っちまえ」
この二人は兄弟のようだった。そして手下どもに命じ、武松を縛りあげてしまった。
水を滴らせながら、武松が引きたてられてゆく。
白壁に囲まれた大きな屋敷だった。塀の周りには松や柳が植えられている。
屋敷の庭に引き立てられ、一本の大きな柳に武松は縛りつけられた。上半身は着物をはぎ取られていた。
弟が籐(とう)の鞭を手に近づいてくる。大柄な男は脇で腕を組んでいる。
「へへ、覚悟してもらうぞ」
鞭が振りあげられた。
武松は目を閉じ、それを待った。
だが、そこに別の声が聞こえてきた。
「一体、誰を打とうとしているのだ」
「お師匠さま」
二人の男が同時に声を上げた。聞き覚えがあった。
武松は目を開けると、驚きの声を上げた。
「宋江の兄貴ではないか」
「なんと、武松か。孔明(こうめい)、孔亮(こうりょう)、縄を解いてくれないか。この武松は私の義弟(おとうと)なのだよ」
師匠と呼ばれた男、それは宋江であった。どうして柴進の館にいたはずの宋江がここにいるのか。
縄を解かれた武松に、宋江は二人を紹介した。
孔明と孔亮というこの兄弟は、なんと宋江を武芸の師匠と仰いでいるのだという。
孔亮が、頭を下げながら武松の衣服などを返してくれた。
行者の姿に戻り、刀の柄に手をかける。少しだけ刀を引き抜いてみる。
それほどの力を入れずとも、その刃があらわになった。
しかしあの時、兄の孔明と対峙した時は抜く事ができなかったのだ。
お前が斬るべき相手は、俺たちが教えてやる。
刀が囁いた言葉を、武松は思い出していた。