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招安

 忠義堂に百八の頭領が勢揃いしている。

 その中央を宿元景が歩く。これほどの豪の者に囲まれても、堂々としたものだ。

 宋江の正面で止まり、捧げ持った金の盆を差し出す。

「招安の勅書にございます。どうぞお納めくださいますよう」

 宋江が神妙にそれを押し戴く。

 蕭譲を呼び、詔書を渡す。蕭譲は恭しくそれを広げ、読み上げる。

「制して曰う」

 蕭譲も緊張の面持ちである。

 宋江以下全ての者の罪を赦免する、とはっきり帝の文字で書かれていた。

 前回のように、詐欺まがいの言葉ではない。ここに梁山泊の叛乱の罪は消えたのである。

 読み終えた蕭譲は、汗をかきながらも興奮した様子だった。

 梁山泊一同が再拝の礼をとる。

 宿元景は供の者たちに命じ、金銀錦などを運ばせた。さらに堂内に運び込まれたのが、御酒の甕であった。

 宿元景自らが封を開封し、柄杓から金杯へ注ぐ。頭領たちに向けて、その杯を掲げる。

「君命を奉じ、御酒を持って参った。梁山泊にいる酒造りの達人には負けるかもしれないが、ご覧の通り上等な酒である。もちろん、濁酒でもない」

 笑い声が上がる。

 にやにやしながら阮小五が、阮小七を肘で小突いた。

「しかし、まだお疑いもありましょう。まずは私が飲んでみせ、ご懸念のないようにしましょう」

 そう言うや、ぐいと酒を一気に飲み干し、空(から)になった金杯の底を見せた。

 喝采が起こり、頭領たちが手を叩き喜んでいた。

 順に酒が回り、そのまま宴となった。

 贈られた御酒があっという間に空になり、宿元景は目を丸くしていた。入れ替わるように新しい甕が次々と運び込まれてきた。

「どうぞ、梁山泊の酒です。口に合うかどうか」

 微笑みながら朱富が酒を差し出してきた。

 宿元景は笑顔で応えた。

「お主の酒は抜群だと聞いておる。それが飲みたくて、御酒を少なくしたのだよ」

「嬉しいことを言いなさる」

 周りから笑いが起きる。

 その中で、宋江が宿元景と杯を交わしていた。

「西嶽華山以来ですね。ご健勝そうで何よりです、宿太尉」

「何を言う。お主たちこそ童枢密、高太尉を赤子のようにあしらうほど意気軒高ではないか」

「私は何もしておりません。ここにいる頭領たちが成し遂げたのですよ」

 他でもないお主だから、その彼らを束ねられているのだよ。宿元景は思いを口には出さずに微笑んだ。そう言われて宋江は喜ぶ男ではないからだ。

「少し涼もうか」

 立ち上がり、宿元景が外へ向かおうとして、宋江をちらりと見やる。それに気付き、宋江が追うように立ちあがった。

 外は、中天に差しかかる陽が心地良かった。

 宿元景が翻る巨大な旗を仰ぎ見た。横に宋江が並ぶ。

「替天行動か。大胆なことを言ったものだな」

「勘違いなさらぬよう。我々の目的は、民を救う事です」

 微妙に宿元景の口調が変わった。

 ほろ酔いの気分も飛び、背筋が伸びる。

 旗から目を移し、宿元景は梁山泊を一望していた。

「本来なら、招安を受けた梁山泊は解体されるべきだった。だが東京開封府を陥とせるだけの圧倒的な力がある事を見せつけた。交渉を有利にするためだ。そしてそれを飲まざるを得なかった」

 宋江も梁山泊を見渡している。

「お主が言ったように、いまの国は腐った官僚どもに支配されている。だから梁山泊ならば、と思った。そして帝は再び政に関心を取り戻し出した。わしも梁山泊を利用した。だからそれについては目を瞑ろう」

 だが、と宿元景は続ける。

「招安を受けたとはいえ、いまだ梁山泊は喉元に突きつけられた刃だ。この先、もしもの事があったならばどうなるか。それはあえて言いはすまい」

「しっかりと心に刻みつけておきます」

「これでも、信じているのだ、梁山泊をな」

 ああ、そうだと宿元景が元の顔になる。

「聞煥章に会いたいのだが。独りで寂しがっていると思ってな」

 しばらくして、忠義堂に聞煥章がやってきた。

「あなたが勅使で来るとは」

「たまには仕事もするさ。それで、どうだね」

 梁山泊は、という事だ。

 聞煥章は酒を口にし、しばし考える仕草をした。

「太尉のお考えの通りかと。それと」

「それと、何かね」

「やはり私は村で静かに暮らします。まだ小さい娘もおりますし」

「官軍の軍師として、正式に招聘したいと思ったのだが。嫌かね」

「戦に負けたのですよ」

「百戦錬磨の人間などおらんよ」

 杯を干し、聞煥章が苦笑した。

「太尉のお気持ちだけ、ありがたく受けとっておきます。もしわたしが必要とされる時が来たら、否応なく出てこざるを得ませんよ。そうならない事を祈りますが」

 そうか、とだけ言って、宿元景はそれ以上の話をやめた。

 二日ほど滞在し宿元景は、聞煥章を連れて梁山泊を後にした。

「では再会できるのを、楽しみにしております」

 梁山泊は東京開封府へ行き、帝に拝謁する。そこで初めて招安が正式のものとなるのだ。

 宿元景一行が盛大に見送られてゆく。先の勅使の時とはえらい違いだ。

 呉用がその様子を見ている。

 面白い人だ。

 太尉でありながら、山賊であった我らにも高圧的ではない。もちろん招安を成功させなければならない立場であるが、それ以上に人の心を掴むのが上手い。

 なにより梁山泊の事を、公平な目で見てくれている。

「まだ安心はしない方がいい。宿どのも太尉にまで上り詰めた男。あの蔡京らと権力の座を争っているのだ。ひと筋縄で行くような男ではないだろうな」

 盧俊義が呉用の思いを知ってか知らずか、そう呟いた。呉用は黙っている。

「あくまでも国のため、帝のためだろう。それならばこちらも上手く折り合いをつけるのだ。もし上手くいかない時は」

「その時は」

 呉用が問いかけるように、繰り返した。

「軍師どの、お主に任せるさ」

 前を見据えたまま、盧俊義は意味ありげな笑みを浮かべた。

 呉用の口元は微笑んでいたが、目は笑っていなかった。

 

 梅の香がほのかに漂ってくる晴れた日。

 東京開封府が、熱に浮かされたように高揚していた。

 南薫門上、見張り番の兵士が叫ぶ。

 梁山泊が、来たと。

 開封府の人々がひと目見ようとひしめいている。通りにはみ出さないようにするための兵たちが必死に抑えている有様だ。

 見えた。

 梁山泊百八人の頭領だ。

 宋江を先頭に、盧俊義が横に並ぶ。その後ろに軍師の呉用と公孫勝、朱武。そして五虎将以下、すべての頭領が行進する。

 城門を潜り、通りに姿を現すと、待ち構えた人々から一斉に喝采が送られる。開封府全体が揺り動くような盛大な喝采であった。官軍の凱旋時よりも大きなそれに、兵たちも苦笑いするしかなかった。しかし梁山泊の堂々たる見事な姿を見て、感嘆を漏らすのであった。

 梁山泊一行が朱雀門を抜ける。

 幾度となく忍び込んだ開封府。いまやこうして誰に恥じる事もなく闊歩しているのだ。宋江の感慨はひとしおだった。

 他の頭領たちも多くの賛辞を受け、実に誇らしげな表情である。宋江が帝になれば良い、などと言っていた李逵も胸を反らしていた。

 右手に大相国寺が見えてくる。

「懐かしいのお」

 と目を細める魯智深に、

「兄貴」

 という声が飛んできた。

 見ると張三と李四である。楽和、蕭譲救出に尽力してくれたのだ。二人に気付いたのか楽和も手を振った。

 沿道の人ごみの中に知った顔を、盧俊義が見つけた。少し隠れるように、だがはっきりと盧俊義の目を見ている。

 盧成である。

 北京大名府での件から連絡を絶っていた。それ以前から直接会ってはいなかった。晁蓋のいる梁山泊を支援しており、迷惑がかからぬように、燕青を介しての連絡のみだった。

 何年になるのだろう。互いに年をとったものだ。

 目が合い、盧成が軽く頷いた。盧俊義も同じようにした。それだけで充分だった。

 宮城を囲む高い壁が徐々に大きくなってくる。

 先頭を行く宋江が、一度大きく息を吐き、緊張を和らげようとした。

 ついに宮城へとたどり着いた。

 壮麗だった。忠義堂と比べるのもおこがましいほどの偉容だった。

 一蓮の様子を楼上で見ていた帝は満足そうに笑った。側に宿元景が控えていた。

「これが梁山泊か。お主の言っていた通り、実に勇壮な連中ではないか。これは期待できるというものだ」

「まことに」

 宮廷の侍従官がやって来て、宋江らに指示をする。梁山泊の武装を解かせ、文徳殿へと通した。

 整列した梁山泊一同の前に帝が姿を現した。

 侍従が朗々と宣言を発し、招安の聖旨が下賜された。

 百官が見守る中、帝が立ち上がった。

「今日、汝ら好漢を迎え入れる事ができて、朕は誠に僥倖である。国のため臣民のため、力を尽くすよう期待している」

 揺らぎの無い水面のような張り詰めた雰囲気の中、童貫の目が落ち着かない様子だった。

 梁山泊の頭領たちも微かな異変に気付き始めた。林冲や花栄、呼延灼そして武松、史進なども眉をぴくりと動かした。跪いた姿勢のまま、咄嗟の事態に備える。

 大勢の気配が部屋の外を囲いだした。微かに聞こえる音から、それは武装した兵だと知れた。

 童貫の頬を汗が伝う。

「奴らが宮中に入った時が好機です。どんなに強かろうと丸腰ならば、手も足も出ますまい。梁山泊が本当に招安を受けたと思っているのですか。必ず二心を抱いているに違いありません。寝首をかかれてからでは遅いのです」

 数刻前に童貫が、帝に奏上した。だが取り合ってはくれなかった。

 これで奴らを許しては、梁山泊に討たれた将たちが浮かばれないではないか。童貫は歯嚙みをした。そこで独断で兵たちを集め、忍ばせていた。そして今まさに、突入の時を待ち構えていたのだ。

 気付くと宿元景が隣にいた。びくりと童貫が上擦った。

「よせ。神聖な宮中を血で汚すことは許されぬぞ。しかも敗戦の憂さを闇討ちで晴らすなど言語道断」

 軍人である童貫を射竦めるような視線だった。

 兵たちに命令を、と頭では思うのだが、体が動かない。声も出せない。

 歯を食いしばり、童貫の指先が動いた。

 次の瞬間、雲が晴れるように、取り囲んでいた気配が消えた。

 童貫が出した指示は、撤収せよ、であった。

 そして何事もなかったかのように式は終わった。

 帝が退席し、梁山泊一行が宴の場へと案内されて行った。

 宿元景が静かに言った。

「賢明な判断だ。もし実行していたならば、帝の顔を潰していたところだ。それに梁山泊どころか、お主の首が飛んでいた」

 無意識に童貫は自分の首に触れていた。汗をびっしょりとかいていた。

 見上げるとそこに蔡京の目があった。

「馬鹿者が」

 冷たくそう言い捨て、蔡京も去って行った。

 やり場のない怒りをどこにぶつけたら良いのか、童貫は分からなかった。

 

 建前上、梁山泊は済州の管轄下に置かれることとなった。

 知府の張叔夜は宿元景とも気心を通じており、梁山泊としても文句はなかった。

 梁山泊へ戻り、しばしの間穏やかな時を過ごしていた。それでも呉用や蔣敬、裴宣などは忙しそうだったが。

「まさかこんな事になろうとはな。たいしたものだ、宋江よ」

 花栄と宋江が差し向かいで酒を酌み交わしていた。本当に久しぶりの事であった。

 私はなにもしていない、と言おうとするのを花栄が制す。

「お前の良いところでもあるが、悪いところでもあるのだぞ。必要以上の謙遜は却って嫌味になってしまうことだってあるのだ。もう少し威張ってみたらどうだ、及時雨さま」

「さま、は勘弁してくれないか」

 二人は弾けるように笑った。

 花栄が手酌で酒を注ぐ。

「いろいろ言う者もあったが、お前の選択は間違ってなかったと思っている」

 晁蓋は国と戦うと掲げていた。李逵をはじめ、帝もろとも腐った官僚たちを一掃し、宋江が帝に就けばいいという考えの者も多かったのだ。

 宋江は微妙な顔つきだ。

「今でも、これが正しかったのか悩んでいるよ。童貫、高俅を倒した時、開封府まで攻め込んでいたら、などと考える事もあるのだ」

「もう決めた道を進むしかあるまい。二本の道があって一方を選んだとしても、別の道を選べばよかったと思ってしまうものさ。もう引き返せはしないのだ。選んだ道を良くすればいいのだ」

「ありがとう、花栄。私はお前のような友を持って果報者だ」

 にやっと花栄が微笑んだ。

「呼延灼や徐寧の倅たちは故郷へ戻ったらしいな」

「そうだ、いつ戦に巻き込まれるか分からないからな。私の甥も帰らせた。いまは父に面倒を見てもらっているよ」

「宋清は残ったんだってな」

「うむ。私は宋家村に帰るよう勧めたんだが」

 ふふと花栄が笑った。

「なにが可笑しい」

「いやね、梁山泊で初めて会ったが、宋清はお前にそっくりだと思ってな」

「それは兄弟だからな」

「見た目じゃない、性格さ。宋清もお前と同じくらい、いやそれ以上に頑固だからな」

 そうかもな、と宋江は困ったような顔で酒を飲んだ。

「ところで、花栄。息子は元気なのか。随分会ってないのだろう。良い機会だ、一度行ってくればいい」

「元気だと、爺やの便りには書いているよ」

 花栄の息子は江南に住んでいる。世話をしているのは花栄の父の代から仕えてきた者で、宋江も往時は面倒を見てもらっていた。花栄と宋江は、爺やと呼んでいた。

「あいつには文武両道になってもらいたいのだ。俺は文に関してはこの通りで、爺やに怒られてばかりだったからな」

「私は武がからきしで怒られていたよ。懐かしいなあ」

 子供のころは怖かったが、思い返すと良い思い出になっているものだ。

「それに、今会うとどうしても甘い顔を見せてしまいそうでな。するとまた爺やに怒られる」

「違いない」

 二人が大笑する。

「おや、もう酒が切れちまった。もう少し飲みたかったのに」

「私も今日はまだいけるぞ。よし、持ってきてもらうとしよう」

 宋江が立ち上がったところへ、外から声がした。

「やあ、兄さん。父さんが鄆城の酒を送ってきてくれたので、どうかと思って。やあ花栄どのも」

「こいつは良い。丁度、宋清どのの話をしていたところだ。一緒に飲もうではないか」

「懐かしい酒だな。せっかくだ、朱仝や雷横にも声をかけよう」

 すると宋清の後から朱仝と雷横が入ってきた。

「ええ、そう思いましてね。もう呼んでしまいました」

「宋江どの、お邪魔いたします。花栄どのも」

「俺と朱仝を忘れずに呼んでくれるなんて、さすが宋清どの。さあ宋江どの、花栄どの今日は飲みますぜ」

 五つの杯が満たされ、話に花が咲く。

 招安を受けた。だがそれはまだ始まりなのだ。

 梁山泊が向かう先に待ち受けるものは、一体なんだろうか。

 栄光か、それとも挫折か。

 改めて梁山泊を率いる者としての重責を痛感する。

 晁蓋の顔が思い浮かんだ。すべてを委ねられる、あの笑顔だった。

 選ぶ道が間違いかどうか、ではない。選んだ道を信じるしかないのだ。

 雷横が冗談を言い、一同が笑う。

 宋江は心底、幸せだと感じた。

 月がゆっくりと動いている。

 時おり雲が前を横切ってゆく。

 家々の明かりが消える頃、北からの冷たい風が、梁山泊を吹き抜けて行った。

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