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竜顔

 東京開封府、万寿門外にある宿屋に一行がいた。

 ほどなくして元宵節である。

 また元宵節か。宋江は複雑な気持ちでいた。

 元宵節には、あまり良い思い出がない。清風寨での一件。そして北京大名府での一件。しかし宋の都である開封府に、宋江直々に忍び込むには、やはりこの日を置いて他になかった。

 しかも帝に会うのだ。

 そんな竜を捕らえるようなことができるというのか。

 元宵節まであと三日。偵察も兼ねて柴進が城内へ行くと言いだした。宋江は慌てて止めた。見つかれば計画は水の泡だ。そして二度とその機会はやっては来ないだろう。

 だが柴進も意外と強情であった。大周皇帝の末裔だからであろうか。ともあれ、燕青を伴って行くことで、許可をすることにした。

 元宵節を間近に控え、やはり開封府の城内は、どことなく賑やかな雰囲気であった。

 燕青も何度か訪れた事がある。盧俊義の従兄弟である盧成の店があるのだ。いつ訪れても、さすがは都だと感じる。北京大名府も大きいが、開封府と比べてしまうと、見劣りしてしまう。

 そんな中でも、柴進は堂々と、通りを闊歩していた。その顔は、どことなく誇らしげでさえあった。

 世が世なら。柴進がそう考えたことは、一度ではなかった。宋の太祖は、柴進の先祖から帝位を禅譲されたのだ。

 世が世なら。柴進は、帝であったかもしれないのだ。だが歴史に、もしもはない。今の現実が、すべてなのだ。

 広場のあちこちに鰲山が組み立てられつつある。元宵節当日には、さらに煌びやかに飾り付けされるのだろう。

 さて、と柴進は小さな酒屋の二階に上がった。窓から通りを眺め、杯を傾ける。従者役の燕青が、ゆっくりと酒を注ぐ。

 元宵節間近という事で、警備も厳重なようだ。先ほどからそれらしき者たちが、内裏(だいり)あたりで忙しそうにしている。

 おや、と柴進が気付いた。代理を出入りしている者の帽子に、一様に簪(かんざし)のようなものが揺れているのだ。

「王さまでは、ありませんか」

 適当に警護役人を呼び、振り向いた者がいた。帽子に簪があった。

 顔見知りの金持ちが会いたいと言って、燕青が言葉巧みに酒屋へと連れてくる。適当な作り話をして、酒を進める。するうちに王の瞼が重くなる。梁山泊の常套手段、しびれ酒である。

 あやしい者が紛れ込まぬように、決められて衣装を着ているのだという。白目を剥いている王に礼を言い、彼の衣装に着替えた柴進が通りを歩いてゆく。

 疑うものは誰もいない。柴進は堂々と、正面から内裏へと入った。

 禁門を抜け紫宸殿へ向かうが、どの殿も錠がかけられている。やがて柴進は、睿思殿に至った。ここは天子が書見をする場所である。

 堂々と、あくまでも静かに、柴進は中へと滑りこんだ。正面の衝立に国の地図が描かれていた。後ろに回ると、そこにも文字が書かれていた。思わず声を上げそうになった。

 四大叛徒と題され、河北田虎、淮西王慶、江南方臘そして山東宋江、と記されていた。

 やはり国は梁山泊を賊とみなしているのだ。柴進は歯嚙みをした。悔しい。だがこれが現実なのだ。

 柴進の手に、いつの間にか小刀が握られていた。器用に刀を使い、山東宋江の部分を切り取ってゆく。

 宿に戻ってから、事の重大さに思い至った。

 開封府の宮中で、賊が侵入したと、騒然となったのだ。そして警備が、より厳重になされることとなってしまった。太尉の高俅自らが、陣頭指揮を取っているという。

 謝る柴進だったが、してしまったことは仕方ない。こうなれば当日、なんとしても潜り込むだけだ。

 そして東京開封府、厳戒態勢の中、元宵節を迎える。

 帝に会う、などと夢物語のように聞こえるだろう。

 しかし、ある噂があった。帝が、とある妓女にお忍びで会っているというのだ。にわかには信じ難い噂ではあった。だが、火のないところに、という言葉もある。

 宋江が決意した招安。そのため、この噂に一縷の望みをかけたのだ。

 帝に会い、直接伝える。それができれば、と宋江は思う。今の国は、奸臣が権力を握っており、帝を蔑ろにしている。宋江は知っている。帝は昔から、政治に関心がない訳ではなかったのだ。即位後、しばらくの間は、自ら政を行っていた。だが、いつの頃からか、その気持ちを失い、もともと得意であった書画の方面に、関心が移っていったのだ。

 直接会って、国の、民の窮状を伝えられれば、きっと。

 門の脇には屈強な兵たちが、物々しく居並んでいる。見ると、馬上から険しい目つきで辺りを見回す男がいた。側近らしき者から、太尉と呼ばれているのが聞こえた。

 あれが、高俅か。

 思わず目を留めてしまい、柴進に注意された。 

 宋江らは、にぎわう通りを縫うようにして、とある茶店へと入った。共にいるのは柴進、燕青、戴宗そして李逵だ。

 しばらく宿で留守番をさせられていた李逵は、きらびやかな街の様子に目を輝かせていた。だが宋江は不安だった。今回ばかりは連れて来ないつもりだったのだ。李逵がごねるのはいつもの事だ。しかし呉用が、行ってよいと言ったのだ。

「戴宗がいれば言う事は聞きますし、技では燕青に敵いません。いざとなれば頼りになりますし、大丈夫ですよ」

 と、呉用は涼しい顔だった。

 向いの店からは軽やかな音曲が聞こえ、なにやら馥郁たる香りが漂ってくる。店の前には歌舞神仙女、風流花月魁という看板が掲げられている。

 茶店の主に聞くと、開封府きっての売れっ子である李師師という芸妓のことだという。

 各地から評判を聞いた金持ちたちがこぞってやってくるのだが、信用のある紹介者がいなければ、会うことができないという。一見はお断りというわけだ。

 慎重に事を進めなければならない。

 では、と燕青が店へと向かう。大役だというのに、気負いなど全く感じさせない。さすがは盧俊義お墨付きである。

 案の定ひと言めは、お断り、である。それは重々承知の上だ。

 自分は片田舎から来たが、外で待つ金持ちの旦那がどうしても会いたいというのだ、と懐から錦の袋を取り出す。袋は中身の重みで、手からこぼれそうである。

 そして中から大粒の銀を取り出し、お茶の一杯で構わないので、と老女将の手にそっと握らせる。

 老女将が変わった。さきほどまでのにべもない態度が、どうしようかねぇ、などと言いだした。目はちらちらと袋を伺っている。

 ここで押しはしない。そうですか、と燕青は残念そうな顔で立ち去ろうとする。だが老女将は、帰るのかい、などと惜しそうな目をする。

 燕青が店を出る寸前、ちょっと待っとくれ、と奥へと消えた。やがて老女将が作り笑顔を張り付けて、戻ってきた。

「あんたも運が良いねぇ。いまちょうど空いてるんだ。ちょっとでよいなら上がっとくれ」

「本当ですか。ありがとうございます。旦那さまもお喜びになるでしょう」

 そう言いながらさりげなく老女将の手に、お礼を差し出す。少しだけだからね、と言いながらも老女将の目は三日月のようになっていた。

 宋江を呼びに行き、李師師の部屋へと向かう。戴宗と李逵は、外で見張りをする。

 開封府には、とびきりの芸妓がいるの。閻婆惜がいつかそう言っていた。

「女将に聞きました。わざわざいらしてくださるなんて、わたくし果報者ですわ。まずはお茶でも」

 李師師が姿を見せる。

 艶然たる仕草でありながらも、その実、凛としたものを感じさせる挙措だった。濡れたように見えるまつ毛も、しっとりとした艶めいた声も、どの男を陶然とさせるに充分であった。

 噂通り、いや噂以上だと思った。

 出された茶も、柴進が唸るほどの一級品である。宋江はなにか別な世界に来てしまったような感覚に襲われた。

 やがて酒が運ばれ、杯が満たされる。この酒も美味かった。

 とりとめのない話をしながら、機を探る。この李師師が、帝の相手だという。ここまでたどり着いたのだ。何としても、帝とつながりを持たねばならない。しかし焦るばかりで、酒の量だけが増えてゆく。

「では一曲だけ」

 と言い、李師師が唄を披露した。

 看板の言葉を思い出す。まさに仙女ではないかという、甘美で超然とした歌声だった。

 ふいに宋江が店の者を呼び、紙と筆を持ってこさせた。

「お返しとまではいきませんが、私も戯れ詞を」

 酔っているのか、宋江の顔がほんのり赤い。柴進も燕青も、顔には出さぬよう努めてはいたが、心配だった。江州での一件があるからだ。

 李師師は、その詞を読んでみたが意味が分からない。

 宋江を見つめ、梅の蕾のような唇が開いた時である。

 老女将が慌てて部屋に駆けこんできた。李師師の耳元で何やら囁く。ふいに李師師が立ちあがり、

「お約束のお客さまが、少し早く見えられたようです。お名残惜しゅうございますが、開封府へおいでの際は、またお立ち寄りくださいませ」

 と微笑んだ。柔らかい物腰だが、帰れということだ。後ろ髪を引かれる思いだったが、丁寧に礼を言い、部屋を出た。

 だが、宋江らは外へ出ると見せかけ、店の暗がりへと身をひそめた。

「確かにそうなのか、燕青」

「はい。小声でしたが、確かに天子という言葉が聞こえました」

 宋江の鼓動が速くなる。李師師を通じて、と考えていたが、まさか帝本人が来るとは。

「この機を逃しては、ならん。帝に直接訴えるのだ」

「無茶だ、宋江どの。衝立の話をしただろう」

 柴進の言葉に、心が揺らぐ。いや、だが、と相談をしているところへ、声がした。

「いや、すまぬな。上清宮に参って、いま戻ったのだ。楊太尉を待っておったのだが、なかなか来なくての。だから、ひとりで来てしまったのだ」

 宋江が唾を飲む。柴進さえも、身を固くした。

 いるのだ。

 この国の、すべての者の上に立つ、帝がいるのだ。

 宋江は何度も躊躇したのち、隙間から覗き見た。

 いた。

 本当に、そこに帝がいた。

 宋江は、もう一度、唾を飲み込んだ。

「なんだよ、せっかく都に来たってのに、つまらんなあ」

 店の入り口で、李逵が頬を膨らませていた。戴宗が微笑んだ。

「まあ、もう少し我慢してくれよ、鉄牛。宋江どのは大事な用を果たしているのだからな」

「なにが大事な用だい。女と酒なんか飲んでるんだろ。知ってるんだぞ」

「あとで祭りを見に行こうではないか。だから我慢するんだ」

 不満げだったが、李逵もやっと分かってくれたようだ。

 しかし、そこへひとりの小男が近づいてきた。

「なんだ、お前は。恐ろしい面相をしておるな」

 李逵はむすっと小男を睨み返す。

「なんだその目は。私は太尉だぞ」

 男は楊戩だった。帝に置いて行かれ、ここまで急いで来たのだ。

 金切り声をあげる楊戩が、吹っ飛んだ。李逵が拳を握っていた。戴宗が急いで止めに入る。だが怒りに火が付いた李逵は、手足を振り回し暴れ出した。

 置いてあった蝋燭が倒れ、掛け軸や幕などに火が移ってしまった。それでも李逵は暴れ続け、調度などを壊してゆく。

 宋江ら三人が、何ごとが起きたのかと駆け戻ってきた。

「宋江どの、鉄牛が」

 戴宗が李逵を制しながら助けを求める。

 帝にもう少しで会えるところだった。だが突然の騒ぎに、帝は地下の通路へと戻って行ってしまったのだ。

 火は見る間に、屋敷に広がってゆく。老女将も店の者も、近所の者も消火に大わらわだ。

「お逃げください。ここは私が何とかします」

「すまぬ、燕青」

 宋江、柴進、戴宗が逃げてゆく。李逵も、どこかへ走って行ってしまった。

 腰に手を当てて、軽く息を吐き、燕青が首を鳴らした。

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