top of page

竜顔

 酒屋の二階から、賑やかな声がする。樊楼という店だった。

「なるほど、そこで李俊の旦那が船で現れたって訳か」

 目を輝かせながら、史進が杯を空けた。空いた杯に、穆弘が酒を注ぐ。いつも寡黙である穆弘が、すこし嬉しそうな顔をしているようだった。

 だが途端に、表情を険しくした。窓から身を乗り出す。史進もそれに続いた。

「おい、あれは」

「うむ、宋江どの達だ」

 史進と穆弘は、樊楼から飛び出し、宋江らの元へと駆け寄った。

「一体、何があったんだい、戴宗どの」

「鉄牛が騒ぎを起こしちまってな。む、お前たち、酒臭いな」

「道端で黙って待ってる訳にも、いかないでしょうが」

 などと史進が弁明しつつ、宋江らを守りながら駆ける。

 後方から、喧騒が聞こえてくる。振り向くと、開封府の兵が追って来ていた。賊だ賊だ、という声が聞こえる。

 もう少しだったのだ。宋江は駆けながら思い返す。

 もう少しで、帝と直接話ができたかもしれないのだ。だが、あの詞を李師師に渡してある。まだ望みの糸は切れてはいない。

 兵たちが近づいてきた。向こうには馬もいるのだ。柴進が喘ぐ。

 史進と穆弘が、朴刀で道を斬り開きながら、門へと突き進む。九紋竜と没遮攔、この二人には、開封府の兵もひとたまりもなかった。野次馬に集まった民衆も、逃げだしてゆく。

 門が見えた。しかし命を受けた兵が、門を閉じてゆく。

「くそっ」

 戴宗が甲馬を取りだすが、間に合いそうもない。万事休すか。

 門兵が倒れた。魯智深と武松だった。

「宋江どの、急ぐのだ」

 二人はそのまま門の守兵たちを薙ぎ倒してゆく。足をもつれさせながらも、宋江は城門を抜けた。魯智深の言う通り、そこには五虎将に率いられた梁山泊兵が並んでいた。

「ご無事で何よりです」

「すまんな、林冲。しかし随分と迅い出動だったな」

「宋江どのが発たれて、すぐに待機しておりましたよ。軍師どの命です」

「呉用が」

 もしものために、という男ではない。こうなること、を想定していたのだろう。

 李逵を連れて行ってよい、という呉用の言葉が、脳裏に蘇った。

 宋江らに馬を与え、五虎将が前に出る。

 林冲、関勝、董平、秦明そして呼延灼。たった五人が馬に乗り、睨みを利かせる。ただそれだけで、開封府の兵は足が竦んだようになってしまった。

「行くか」

 呼延灼が踢雪烏騅の首を叩き、開封府に背を向けた。皆もそれに続く。

 だが林冲だけが、闘気をみなぎらせ、城門を睨み続けていた。

 視線の先には、ひとりの男。白馬に乗った、高俅であった。

 林冲の目は、あの獣のものだった。

「ええい、追わぬか。何をしておる。役立たずどもめ」

 兵を叱咤する高俅が、ぞくりと震えた。

 あれは、林冲か。

 あの、林冲なのか。

 夢でうなされる、あの獣の目が、実際にそこにあった。

 白馬が林冲の視線を避けるように、竿立ちになりかけた。だがそのおかげで、高俅は自分を取り戻した。

 叫び、逃げだしたい。それが本音だった。

 だが開封府中の兵が、この場面を見ている。梁山泊に対して、太尉はどうするのか。それを、見ている。

 高俅は、頬に流れる汗を拭きもせず、不敵に笑みを浮かべた。

「これはこれは。誰かと思えば、禁軍教頭の林冲ではないか。いや、元か」

 ぴくりと、林冲の片眉が動いた。

 いつでも止められるように呼延灼が林冲の側へ、馬を寄せる。高俅は続けた。

「おや、隣にいるのは呼延灼ではないか。仲良く元宵節見物にでも来たのか。まったく、不敗の将軍だと聞いて推薦したは良いが。帝から金と兵を取るだけ取って、梁山泊に寝返るとは、お主の方がまさに山賊だったな」

「なにを」

 飛び出そうとした呼延灼が、林冲の腕に遮られた。

「熱くなるな。奴の思う壺だ」

 林冲が飛びだそうとしたならば、自分がそう言って止めるはずだったのだ。どうやら林冲の方が、冷静なようだった。

「おや、誰かと思えば、高太尉どのではないか。なんだか痩せたのではないですかな。まだ、あの放蕩息子に手を焼いておられると見える」

 くすくすと開封府の兵の間から笑い声が漏れる。高俅の顔が赤くなる。

「貴様、言わせておけば」

「どうやら図星のようだな。安心しろ、高俅。いまは開封府を攻めはしない。だが、次だ。次にお前の顔を見た時は」

 それ以上言わず、林冲は馬首を返した。

 高俅の顔がさらに赤くなった。

「おのれ林冲め。わしを呼び捨てにするとは、偉くなったものだな。それに次に会ったなら、何だというのだ。いいだろう。梁山泊へ、直々に会いに行ってやろうではないか。いま吐いた言葉、後悔するでないぞ」

 呼延灼が林冲を追う。

「林冲」

「行こう。宋江どのは無事だ。梁山泊へ戻ろう」

 見る間に梁山泊軍が遠ざかってゆく。

 鼻息を荒くする高俅だったが、追うことはできなかった。

 梁山泊軍が視界から消えるまで、ただ動かずにいることしかできなかった。

 火は何とか消し止めた。

 だが店の大半が焼けてしまったため、営業はしばらくやめることとなった。李師師は無事だった自室で、ふいに訪れた休息を持て余していた。

 帝は無事に宮城まで逃げおおせただろうか。などと考えながら、卓に目をやる。

 火事の直前にいた客の、田舎の金持ちと言っていた、主人が書いた詞が置いてあった。何を言いたいのか分からないものだった。それを聞こうとした時、たしか主人の顔つきが変わった気がした。まるで、聞かれるのを待ちわびていたような。

 李師師はもう一度、読んでみた。

 山東の煙水の寨を借り得たり、という一句があった。あの主人は、山東の出ということなのだろうか。はたと思い浮かんだ。

 梁山泊。山東の湖水に浮かぶ、難攻不落の塞にならず者たちが集っていると聞いたことがある。

 あの主人というのは、もしかして。

 だが同時に、まさかという思いもあった。どう見ても山賊には見えなかった。これまで幾多の人間を見てきた李師師である。目は肥えているという自負はある。

 強いて言えばあの若い従者が、気にはなった。ただの田舎の金持ちの元にいるにしては、出来すぎの感があるのだ。そつのない言動、隙のない挙措、一介の従者にしては、と思われた。

 さらに読み進める。

 ただ待つ、金鶏の消息を。

 金鶏とは、天上に住む鶏で、これが暁を知らせると天下の鶏が応じて鳴くという。つまり、すべての鶏の頂点に立つ鶏、帝のことだ。帝の言葉を待つという意味か。

 これを渡すためにここへ来たというのか。帝に、これを伝えるために。

 李師師は悩んだ。このまま焼き捨ててしまおうか。だが危険を冒してまで、そこまでする理由があったのか。

 詞を卓に置いたまま、じっと考えた。やがて日が傾いてきた。

 いつもの茶も、その味が分からなかった。

 

 梁山泊に辿りつき、やっと人心地ついた。

 林冲たち五虎将のおかげで、無事に逃れられた。その指図をした呉用が涼しい顔をしている。

「落ち付かれましたか。宋江どの」

「何とかな。しかし、もう少しだったのだ。帝が目の前にいたのだ。だが李逵が暴れ出してな」

 その李逵は、開封府で行方が知れなくなった。燕青がいることだし、心配はしていないのだが。は、と宋江が腰を浮かせた。

「そうだ。李逵を連れて行ってよいと言ったのは、軍師どのだったな」

「そうですが」

「李逵がいなければ、会えていたかもしれないのだ」

「そうでしょうか」

「どういう意味だ」

「よしんば会えたとして、帝が我らの言葉をすんなりと受け入れるとは思えません」

「それは分からんではないか。それに、それと李逵と何の関係が」

 そこへ戴宗が駆けこんできた。開封府からの急報だという。

「童貫元帥、それに太尉の高俅を主将として、梁山泊討伐軍が出されることが決まったそうです。これまでにない規模の軍だそうです」

 一機に報告し、戴宗が水を呷った。

 宋江は腰を浮かせたままだ。ついに来たか。準備はしているという情報はあったが、ついに来るのだ。

 宋江が呉用を見た。呉用は当然だと言わんばかりに、羽扇をくゆらせている。

「まさか、李逵が」

「帝の喉もとで刃を振りまわす。そうすれば恐れをなした帝は、ありったけの力で梁山泊を討ちにかかるでしょう」

「梁山泊を認めさせるために、梁山泊の力を知らしめるために、そうする必要があったと」

「林冲、呼延灼、関勝、秦明、花栄と肩を並べられるほどの将は、開封府にはもういません。残るは童貫、そして高俅です」

 たしかに彼らを徹底的に討ち破ることができれば、帝も認めざるを得ないのだ。

「よし、もう一度全軍に告げよ。開封府軍を迎え討つ準備を急げ、と」

 ついに国と戦うのだ。

 にわかに梁山泊が緊張に包まれた。

 宋江は、晁蓋を思い浮かべ、目を閉じた。

bottom of page