108 outlaws
竜顔
三
酒屋の二階から、賑やかな声がする。樊楼という店だった。
「なるほど、そこで李俊の旦那が船で現れたって訳か」
目を輝かせながら、史進が杯を空けた。空いた杯に、穆弘が酒を注ぐ。いつも寡黙である穆弘が、すこし嬉しそうな顔をしているようだった。
だが途端に、表情を険しくした。窓から身を乗り出す。史進もそれに続いた。
「おい、あれは」
「うむ、宋江どの達だ」
史進と穆弘は、樊楼から飛び出し、宋江らの元へと駆け寄った。
「一体、何があったんだい、戴宗どの」
「鉄牛が騒ぎを起こしちまってな。む、お前たち、酒臭いな」
「道端で黙って待ってる訳にも、いかないでしょうが」
などと史進が弁明しつつ、宋江らを守りながら駆ける。
後方から、喧騒が聞こえてくる。振り向くと、開封府の兵が追って来ていた。賊だ賊だ、という声が聞こえる。
もう少しだったのだ。宋江は駆けながら思い返す。
もう少しで、帝と直接話ができたかもしれないのだ。だが、あの詞を李師師に渡してある。まだ望みの糸は切れてはいない。
兵たちが近づいてきた。向こうには馬もいるのだ。柴進が喘ぐ。
史進と穆弘が、朴刀で道を斬り開きながら、門へと突き進む。九紋竜と没遮攔、この二人には、開封府の兵もひとたまりもなかった。野次馬に集まった民衆も、逃げだしてゆく。
門が見えた。しかし命を受けた兵が、門を閉じてゆく。
「くそっ」
戴宗が甲馬を取りだすが、間に合いそうもない。万事休すか。
門兵が倒れた。魯智深と武松だった。
「宋江どの、急ぐのだ」
二人はそのまま門の守兵たちを薙ぎ倒してゆく。足をもつれさせながらも、宋江は城門を抜けた。魯智深の言う通り、そこには五虎将に率いられた梁山泊兵が並んでいた。
「ご無事で何よりです」
「すまんな、林冲。しかし随分と迅い出動だったな」
「宋江どのが発たれて、すぐに待機しておりましたよ。軍師どの命です」
「呉用が」
もしものために、という男ではない。こうなること、を想定していたのだろう。
李逵を連れて行ってよい、という呉用の言葉が、脳裏に蘇った。
宋江らに馬を与え、五虎将が前に出る。
林冲、関勝、董平、秦明そして呼延灼。たった五人が馬に乗り、睨みを利かせる。ただそれだけで、開封府の兵は足が竦んだようになってしまった。
「行くか」
呼延灼が踢雪烏騅の首を叩き、開封府に背を向けた。皆もそれに続く。
だが林冲だけが、闘気をみなぎらせ、城門を睨み続けていた。
視線の先には、ひとりの男。白馬に乗った、高俅であった。
林冲の目は、あの獣のものだった。
「ええい、追わぬか。何をしておる。役立たずどもめ」
兵を叱咤する高俅が、ぞくりと震えた。
あれは、林冲か。
あの、林冲なのか。
夢でうなされる、あの獣の目が、実際にそこにあった。
白馬が林冲の視線を避けるように、竿立ちになりかけた。だがそのおかげで、高俅は自分を取り戻した。
叫び、逃げだしたい。それが本音だった。
だが開封府中の兵が、この場面を見ている。梁山泊に対して、太尉はどうするのか。それを、見ている。
高俅は、頬に流れる汗を拭きもせず、不敵に笑みを浮かべた。
「これはこれは。誰かと思えば、禁軍教頭の林冲ではないか。いや、元か」
ぴくりと、林冲の片眉が動いた。
いつでも止められるように呼延灼が林冲の側へ、馬を寄せる。高俅は続けた。
「おや、隣にいるのは呼延灼ではないか。仲良く元宵節見物にでも来たのか。まったく、不敗の将軍だと聞いて推薦したは良いが。帝から金と兵を取るだけ取って、梁山泊に寝返るとは、お主の方がまさに山賊だったな」
「なにを」
飛び出そうとした呼延灼が、林冲の腕に遮られた。
「熱くなるな。奴の思う壺だ」
林冲が飛びだそうとしたならば、自分がそう言って止めるはずだったのだ。どうやら林冲の方が、冷静なようだった。
「おや、誰かと思えば、高太尉どのではないか。なんだか痩せたのではないですかな。まだ、あの放蕩息子に手を焼いておられると見える」
くすくすと開封府の兵の間から笑い声が漏れる。高俅の顔が赤くなる。
「貴様、言わせておけば」
「どうやら図星のようだな。安心しろ、高俅。いまは開封府を攻めはしない。だが、次だ。次にお前の顔を見た時は」
それ以上言わず、林冲は馬首を返した。
高俅の顔がさらに赤くなった。
「おのれ林冲め。わしを呼び捨てにするとは、偉くなったものだな。それに次に会ったなら、何だというのだ。いいだろう。梁山泊へ、直々に会いに行ってやろうではないか。いま吐いた言葉、後悔するでないぞ」
呼延灼が林冲を追う。
「林冲」
「行こう。宋江どのは無事だ。梁山泊へ戻ろう」
見る間に梁山泊軍が遠ざかってゆく。
鼻息を荒くする高俅だったが、追うことはできなかった。
梁山泊軍が視界から消えるまで、ただ動かずにいることしかできなかった。
火は何とか消し止めた。
だが店の大半が焼けてしまったため、営業はしばらくやめることとなった。李師師は無事だった自室で、ふいに訪れた休息を持て余していた。
帝は無事に宮城まで逃げおおせただろうか。などと考えながら、卓に目をやる。
火事の直前にいた客の、田舎の金持ちと言っていた、主人が書いた詞が置いてあった。何を言いたいのか分からないものだった。それを聞こうとした時、たしか主人の顔つきが変わった気がした。まるで、聞かれるのを待ちわびていたような。
李師師はもう一度、読んでみた。
山東の煙水の寨を借り得たり、という一句があった。あの主人は、山東の出ということなのだろうか。はたと思い浮かんだ。
梁山泊。山東の湖水に浮かぶ、難攻不落の塞にならず者たちが集っていると聞いたことがある。
あの主人というのは、もしかして。
だが同時に、まさかという思いもあった。どう見ても山賊には見えなかった。これまで幾多の人間を見てきた李師師である。目は肥えているという自負はある。
強いて言えばあの若い従者が、気にはなった。ただの田舎の金持ちの元にいるにしては、出来すぎの感があるのだ。そつのない言動、隙のない挙措、一介の従者にしては、と思われた。
さらに読み進める。
ただ待つ、金鶏の消息を。
金鶏とは、天上に住む鶏で、これが暁を知らせると天下の鶏が応じて鳴くという。つまり、すべての鶏の頂点に立つ鶏、帝のことだ。帝の言葉を待つという意味か。
これを渡すためにここへ来たというのか。帝に、これを伝えるために。
李師師は悩んだ。このまま焼き捨ててしまおうか。だが危険を冒してまで、そこまでする理由があったのか。
詞を卓に置いたまま、じっと考えた。やがて日が傾いてきた。
いつもの茶も、その味が分からなかった。
梁山泊に辿りつき、やっと人心地ついた。
林冲たち五虎将のおかげで、無事に逃れられた。その指図をした呉用が涼しい顔をしている。
「落ち付かれましたか。宋江どの」
「何とかな。しかし、もう少しだったのだ。帝が目の前にいたのだ。だが李逵が暴れ出してな」
その李逵は、開封府で行方が知れなくなった。燕青がいることだし、心配はしていないのだが。は、と宋江が腰を浮かせた。
「そうだ。李逵を連れて行ってよいと言ったのは、軍師どのだったな」
「そうですが」
「李逵がいなければ、会えていたかもしれないのだ」
「そうでしょうか」
「どういう意味だ」
「よしんば会えたとして、帝が我らの言葉をすんなりと受け入れるとは思えません」
「それは分からんではないか。それに、それと李逵と何の関係が」
そこへ戴宗が駆けこんできた。開封府からの急報だという。
「童貫元帥、それに太尉の高俅を主将として、梁山泊討伐軍が出されることが決まったそうです。これまでにない規模の軍だそうです」
一機に報告し、戴宗が水を呷った。
宋江は腰を浮かせたままだ。ついに来たか。準備はしているという情報はあったが、ついに来るのだ。
宋江が呉用を見た。呉用は当然だと言わんばかりに、羽扇をくゆらせている。
「まさか、李逵が」
「帝の喉もとで刃を振りまわす。そうすれば恐れをなした帝は、ありったけの力で梁山泊を討ちにかかるでしょう」
「梁山泊を認めさせるために、梁山泊の力を知らしめるために、そうする必要があったと」
「林冲、呼延灼、関勝、秦明、花栄と肩を並べられるほどの将は、開封府にはもういません。残るは童貫、そして高俅です」
たしかに彼らを徹底的に討ち破ることができれば、帝も認めざるを得ないのだ。
「よし、もう一度全軍に告げよ。開封府軍を迎え討つ準備を急げ、と」
ついに国と戦うのだ。
にわかに梁山泊が緊張に包まれた。
宋江は、晁蓋を思い浮かべ、目を閉じた。