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竜顔

「朕に隠し事をしている者がいる」

 玉座から発せられた言葉に、蔡京は思わず顔を上げそうになった。同じく顔を伏せていた高俅と童貫、楊戩も体をびくりと震わせた。

 朝議の場で、帝が口を開いた事などいつ以来だろうか。普段は、こちらからの報告が終われば、すぐに奥へ消えるというのに。 

「いま、この国の民が困窮していると奏上があった。今年は作物が不作だったのか」

 蔡太師、と名を呼ばれ、蔡京は恭しく返事をした。

「さすがご聡明でございます。すべてお見通しのようでございますな」

「追従はよい。山東の税を上げたと聞いた。それで小さくはない争いが起きたとも」

 誰の告げ口か、見当は付いているが、そこまで知っていたとは。そうなると下手に隠せば、不信感を誘うだけだ。

「はい。ですが不作はあくまでも山東地方だけのこと。苦渋の決断でしたが、やむなくそうせざるを得なかった次第。またその争いはすでに収束しております」

「その争いに、梁山泊という連中が関わっているというが」

 蔡京はまたも顔を上げそうになったが、必死に堪えた。

 顔を伏せたまま、宿元景の方を睨みつける。顔は見えない。大方、ほくそ笑んでいるのだろう。

「梁山泊という山賊どもが世間を騒がせておりますが、所詮は水たまりの賊ども。まったく心配するような存在ではございません。童元帥と高太尉が睨みをきかせているおかげで、民たちは安心して過ごしております」

「宿太尉」

「はい。蔡太師の言う通りにございます。梁山泊の他にも河北の田虎、淮西の王慶そして江南では方臘という者が人心を掌握し、国土を侵しております」

 やや沈黙があり、帝が告げた。

「蔡太師はそれらの対策を考えよ。それと山東には国庫から糧食を出そう。それくらいの余裕はあるのだろう。宿太尉はそちらを手配するように」

「なんとお優しきお言葉。民たちも感謝の意を禁じえないでしょう。急ぎ、手配いたします」

 うむ、と満足そうに微笑むと、帝は玉座から立ち上がり奥へと消えた。

 蔡京は急いで宿元景を探したが、すでにその姿はなかった。その代わりに楊戩が寄ってきた。

「どうなることかと思いましたな。我らが必死に隠してきたことを、あの男は」

「よせ。まだ人がいるのだ」

 これは、と楊戩が袖を口に当てる。

 童貫と高俅はさりげなく頭を下げ、朝議の場から出ていった。

 まあ、うまく切り抜けたと思う事にしよう。童貫と高俅にも、さりげなく恩を売っておいた。本当に梁山泊を抑えつけてくれればよいのだが。

 宿元景め、余計な事を吹きこみおって。またぞろ政に関心を示しはじめたではないか。

 蔡京は、肩が重く難じた。今日は早く帰り、休むことにしよう。考えねばならぬ事が山とできた。

 ひたりと、首に手を当てた。

 首がつながった。喩えではない。

 若い頃、政争に敗れ、下野した時を思い出した。二度とあのようなみじめな思いはしない、と誓った。

 わしが、わしこそがこの国を動かしているのだ。

 やはり梁山泊は潰すべきだった。

 めずらしく蔡京が、怒りをあらわにしていた。

 宋江は決めた。

 梁山泊のこれからの道である。

 晁蓋は、国と戦うと公言していた。しかし宋江の心は少し違っていた。その思いは、宋江も自分の口で語っていた事だった。

 国を救う。ひいては民を救う。それが宋江の考えだった。

 晁蓋の遺志を継ぎ、国と戦う事が忠義なのだろう。だが、本当にそれでよいのだろうか。

 晁蓋が天に還り、すでに一年。考えに考えぬいた。

 呉用、盧俊義とも腹を割って話し合った。

 そして、決めたのだ。

 菊の花が咲き誇る、心地よい秋風の中、重陽の宴が催された。

 卓には牛や羊の肉料理が並べられ、酒の甕がありったけ並べられている。

 百八人の頭領が杯を酌み交わす。馬麟が簫を吹き、燕青が筝を奏でる。それに合わせて楽和が歌を唄う。李逵や陳達などは、歌よりも飯とばかりに、競うようにして口に詰め込んでいる。

 そんな様子を見て宋江は目を細めた。ここに晁蓋の兄貴がいたら。ふと浮かんだ想いを酒と共に飲み込んだ。

 雷横や王英といった面々が代わる代わる酒を注ぎに来る。この時間が永遠に続いて欲しいという思いが、胸に去来する。

 宋江が、なにかを断ち切るように、すっくと立ち上がり、一同の顔をゆっくりと見た。

 軽く眉に皺を寄せ、やがて口を開いた。

「これだけの顔ぶれが梁山泊に集まるとは。わたしは幸せ者だ」

 頭領たちの目が、宋江に向けられる。

「おい、宋江。酔うにはまだ早いぞ」

 という花栄の野次に、笑い声が起きる。呉用の視線に気づき、宋江は座に着いた。

 言いたいことがあった。だが、まだそれは言うべきではなかったし、宴の場で話すことではなかった。

 翌日、忠義堂に頭領たちが集まった。

 蔡慶が呼ばれ、立ちあがった。

「先日、梁山泊の辺りをうろちょろしていた官軍を捕らえました。そいつが吐いたんですが、大規模な討伐軍を近いうちに起こすとの事です。指揮は童貫元帥とも、高太尉とも言われているそうです」

 高俅という言葉に、林冲が反応した。

「聞いただろう。ついに官軍が総力を挙げて攻めてくる。次の戦は、梁山泊の存亡をかけての戦となろう。梁山泊を攻め落とすことなどできないと、分からせてやろうぞ」

 宋江の言葉に、一同が応える。

 その後、呉用が騎兵軍、歩兵軍、水軍にそれぞれ指示を出してゆく。

 神妙な面持ちの宋江に、呉用が声を掛ける。

「それでいいのです。今はまだ、その時ではありません」

「すまぬな」

 宋江が決めた、梁山泊の道。

 それは招安という道だった。

 それは数日前の事である。

 地図を広げた。楽和、時遷、段景住、白勝が集めた情報を、その地図に落とし込んでゆく。いま世間を騒がせている田虎、王慶、方臘という賊がいる。彼らがそれぞれ制圧した河北、淮西、江南を塗りつぶす。さらに北の遼と、遼から独立をした金が国境を脅かしている。

 宋江は愕然とした。塗りつぶされた地域と比べて、梁山泊は本当に小さな点にすぎなかったのだ。まさに井の中の蛙だ。

 国と戦う、国を救うなどと言っていた事が、途方もない夢物語であるような気がした。

「こうして見ると、実感できるな」

 盧俊義が、宋江の気持ちを代弁するように言った。呉用はただじっと地図を見つめている。

 宋江も地図を見つめた。何か、見えてくるものはないか。穴があくほど、見つめた。だが何も浮かび上がってはこない。

「なに、簡単なことですよ」

 ふいに、呉用が言った。なにが簡単だというのか。

「彼らと同じようにやれば良いのですよ。武力で占領し、民を恐怖で支配する。逆らう者は誰であろうと、切り捨てる。そうすれば、このように征服地を広げ、国を名乗ることは難しいことではないでしょう」

 椅子にもたれた呉用が、羽扇をくゆらせる。

「我々は違う。我々は、梁山泊は決して賊ではないのだ」

 思わず宋江が立ちあがっていた。顔を赤くし、息も荒くしていた。

 呉用が満足そうに目を細め、

「安心しました」

 と言った。

 はっと、宋江が気付く。言わされたのだ。盧俊義も苦笑していた。

 改めて、地図に目を落とす。しかし、である。もはや梁山泊に、収まり切らぬほどの所帯となっているのだ。

 叛徒である田虎や王慶らは支配地で国を興し、その王を僭称していた。

 李逵などは梁山泊を国として、宋江が帝になれば良いなどと言っている。梁山泊を国にするなど、あり得ない。梁山泊が、国だと。

 おや、と宋江の中で何かが生まれた。

 もし、もしも、だ。梁山泊が、国の敵ではなくなったならば。

 宋江の心臓が高鳴った。

 招安、という言葉が、不意に頭をもたげた。

 呉用も、盧俊義も、その言葉を思い浮かべたのだろう。やや沈黙があった。

「あいつらは、とても受け入れないだろうな」

 険しい顔で、盧俊義が言う。その通りだと思う。

 晁蓋の遺志を継ぎ、果てようとも国と戦う道を選ぶ者ばかりだ。

 だが、宋江は彼らを死なせたくはなかった。賊の名のまま、命を散らせる訳にはいかなかったのだ。

「宋江どの」

 呉用が、宋江の決断を求めた。いつになく困難な、そしていつになく重い決断をしなければならない。

「開封府へ行く」

 宋江が言い放った。

「開封府で、帝に会う」

 再び、宋江の心臓が大きく高鳴った。

 自分の言葉ではないように、聞こえた。

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