top of page

北斗

「はは、晁蓋どのが来てくれなければ、どうなっていた事やら」

 呉用は茶をすすりながら笑った。晁蓋と劉唐の前にも茶が置かれている。

 晁蓋は生辰綱の件を呉用に相談しようとしていた。だが家を出る際に、槍架けの朴刀が無くなっている事に気づいた。もしやと思い、急いで劉唐を追ってみると、案の定という様相だった。

 その後、晁蓋の取り成しで王小三こと劉唐と雷横の喧嘩は、一応の解決を見た。

 晁蓋は劉唐、呉用と屋敷へ戻り、雷横は役所へと戻ったのだ。

「晁蓋どの、申し訳ありません。それに呉用どのも。晁蓋どのの金をとり返してやりたくて」

 劉唐は横目で呉用を見やる。

 呉用はあの家を間借りして私塾を開いており、晁蓋とも親交が深いという。色白で華奢な体つき、およそ武芸などには縁遠い、まさに先生という風貌だった。

 だがあの時、雷横との戦いを止められた。朴刀が重なった瞬間に銅の鎖を巻きつけるという妙技を、呉用はしてみせたのだ。

 劉唐も江湖を長年渡り歩いて来た男。呉用から一介の私塾の教師ではない何かを十二分に感じ取っていた。

「まあよい、わしのために良かれと思ってしたことだ。雷横どのにも、この劉唐にも怪我がなくてよかったわい」

 わはは、と豪快に笑い茶をあおる。呉用が湯呑みを置く。

「ところで晁蓋どの、私に相談とは何事ですか」

 うむ、と姿勢を正し、晁蓋は腕組みをした。

「先生、実は昨晩奇妙な夢を見ましてな」

 と、晁蓋は訥々と話し始めた。

 

「なるほど、わかりました。不肖この私も協力しましょう」

 呉用は快諾した。劉唐もその決断の速さに驚くほどだった。

「しかし俺と晁蓋どの、そして呉用どのの三人では心もとない。あとどれくらい集めたら良いだろうか」

「八人」

 劉唐の問いに、呉用は即座に答えた。

「八人です。晁蓋どのの見た夢はおそらく吉兆」

「なるほど、北斗七星と脇の小星あわせて八人という訳ですな、先生」

「そうです。私に三人ほど当てがあります」

「では人を遣って、迎えに行かせましょう」

「いえ、私が直接話しに行きます。しばらく会っていなかったので、丁度良い機会です」

「それでその当てというのは」

 劉唐の問いに呉用が答える。

「石碣村(せきけつそん)の三人の死神たちです」

 口元をほころばせながら、呉用は羽扇をゆったりとくゆらせた。

 

 呉用は石碣村を歩いていた。晁蓋宅での密談の翌日である。日は中天を過ぎたあたり、心地よい暖かさだ。

 石碣村は東渓村から百里ほどの所にある、梁山泊とつながった石碣湖のほとりに位置している村だ。村人は主に漁業に従事しており、今も湖面に浮かぶ舟がいくつか杭に繋がれているのが見える。

「ここを出てから二年か。懐かしいな」

 呉用はそうつぶやきながら迷うことなく歩いてゆく。

 やがて一軒の草葺きの家に着いた。山を背に湖に臨んだその家は十間(じっけん)余りだろうか。外の生け垣には網が干されている。

 門をくぐり、呉用は奥へ声をかける。

「小二(しょうじ)さんはおられるか」

「誰だい」

 奥からのそりと男が出てきた。額のあたりに手拭いを巻き、伸びた髪をおさえていた。手拭いの下から覗く目の辺りがやや窪んでいた。素肌に袖なしの着物をひっかけただけで、足もむき出しのままだった。だが袖から見える腕の筋肉や張りつめた太もも、節くれだった指が、男の経歴を雄弁に物語っていた。

 小二と呼ばれた男は呉用をみとめると一瞬呆けた様な顔になった。

「先生ですか。いやぁ、お懐かしい。一体どういう風の吹きまわしで」

 凶悪そうな顔が一転、満面の笑みを浮かべる小二。

「おい良(りょう)、先生がいらっしゃったぞ」

 奥から少年が駆けてくると、呉用に飛びついた。

「先生。覚えていますか、良です」

「もちろんだとも、阮良(げんりょう)。大きくなったな」

「うん、もう父ちゃんと一緒に漁に出てるんだ」

「まだまだお前なんぞ、ものの役にも立たんわ」

 そう言いながら、阮小二(げんしょうじ)は満更でもないようだった。

「すまないが、お父さんと話があるのだ。ちょっと借りても良いかな」

 阮良を家に残し、阮小二と呉用が家を離れる。阮小二の妻は近隣の村へ買い出しに行っているという。

「それで先生、話というのは」

「うむ、私は今ある金持ちの家を借りて私塾を開いているのだが、その方が今度宴会をやりたいというので、どうしても目方が十四、五斤ほどの鯉が欲しいのだ。そこであんたの顔を思い出したという訳なのだ」

「ありがたい話だが、久しぶりの再会だ、まずは飲みましょうや」

「うむ、私もそのつもりだよ。ところで五郎さんと七郎さんも変わりないかね」

「ええ、相変わらずです。そうだ、二人も呼んで皆で飲みましょう」

「それはこちらも願ったり叶ったりです」

 目じりを下げた呉用が口元で羽扇をくゆらせた。

 呉用と阮小二が乗りこんだ舟が湖上を走ってゆく。向こう岸にある料亭へ行くためである。阮小二の腕が櫂を操るとあっという間に岸が遠のいてゆく。

 湖心あたりで阮小二が声を上げた。

「おおい、小七(しょうしち)。小五(しょうご)の奴を知らんか」

 呉用が見ると、葦の茂みから一艘の舟が出てきた。船上の青年は兄弟の三番目、阮小七(げんしょうしち)である。

 日焼けした顔にはまだ幼さが残っているが、目元には意思の強さが現われていた。阮小二と同じく袖なしの着物を羽織り、太股までの短い物を履いていて裸足だった。手に竿を持っており、どうやら釣りをしていたようだ。

「大兄貴、小五兄貴に何か用かい」

 舟を寄せてきた小七に呉用が声をかけた。

「七郎さん、用があって来たのは私だよ」

「やあ、先生じゃないか」

 小七が少年のような笑顔になった。

 二艘は並んで湖上を進んでゆく。

 遠くの方に大きな山影が見える。梁山泊の姿を懐かしがる呉用とは反対に小二と小七はつれない返事をするだけだった。

 やがて岸に着いた一行は丘の上の一軒家に向かった。

「おふくろ、小五はいるかい」

 そこは兄弟の生家だった。小五と小七が母と共に住んでいるのだ。

「おや小二、小五なら博打に出かけちまったよ。最近、魚も取れないから一文無しだとか言って、あたしの簪(かんざし)まで持って行っちまったよ」

「まったく小五の奴め。わかった捕まえてくるよ」

 呉用が母に挨拶をし、一行は再び舟に乗り込む。

 目に入る家が次第に増えてきた。村の中心部に近づいたようだ。小二と小七が舟を舫(もや)い、三人は賭場へと向かった。

「おお、小五。俺だ、小二だ」

 丸木橋のほとりで舫を解いていた男が顔を上げた。阮小五(げんしょうご)である。

 兄弟順は二番目だが、一番大きく筋骨隆々の体躯。胸には黒豹の刺青がされている。首に手拭いを巻き、褌一丁の姿も様になっている。

「五郎さん、勝ちましたか」

「やっぱり先生か、二年ぶりかね。橋の上から兄貴たちだと思って見ていたよ」

「おふくろが、兄貴が賭場に行ったと言うから、追いかけて来たんだぜ」

「小五、先生が俺たちに話があるそうだ。再会を祝して料亭で一杯やろうという話なのだが」

「そいつは丁度良い。今回は俺がおごるぜ」

 阮小五が手にした銅銭の束を揺らして見せる。

「やるじゃないか、兄貴もたまには」

「たまに、は余計だ」

 と小七を小突く小五。ふふ、と笑い先へ行く小二。

 本当に仲の良い兄弟だ。呉用も思わず微笑んでいた。

 

 四人は料亭に入った。上座を辞する呉用を尻目に、小七はさっさと小二を上座に据え、酒食を運ばせた。

 餅菓子のような牛肉を肴に四人が杯を傾ける。脂ののった牛肉を呉用は二、三切れしか口にしなかった。だが、むしゃむしゃと食べ続ける三人を見て、相変わらずだなと目を細めて酒を飲んでいた。

 やがて日が暮れはじめ、四人は場を変える事にした。この店は人が多く、例の話ができないとみた呉用がそう誘導したのである。

 酒と鶏を買い、舟で阮小二の家へ帰った。小二は戻っていた妻に酒食の用意をさせ、一同を湖上に張り出した亭(あずまや)へと案内した。暗がりの中でも梁山泊の山影はうっすらとではあるが見えていた。

 ひとしきり酒が進んだ頃、阮小二が呉用の用向きを二人に話して聞かせた。

「いつもなら四、五十匹はざらに獲れたんですが、今は十斤のでも難しいんですよ」

 困った顔の小七に小五が付け加える。

「しかし遠くから見えられたんだ。せめて五、六斤ぐらいのでも用意してやらねぇとな」

 だが呉用はにべもなく言う。

「それは困る。どうしても十四、五斤の鯉が必要なのだ。金はいくら出してもかまわないのだ」

「先生、小五と小七も言ったが、今は他の魚さえ獲れなくなってきてるんだ」

 阮小二が杯を置き、神妙な面持ちで言った。

「どうしてです。これほど広い湖なのに大きい魚がいなくなったというのかね」

「いいえ、先生の言うほどの大きさになると、この石碣湖ではなく梁山泊の方にしかいないんです」

「梁山泊は水続きのはずだが」

「それが行けないのです、先生」

 阮小二は語り出した。小五も小七も酒を飲む手を休め、聞いている。

「梁山泊の山賊どもが勢力を増してきて、俺たち地元の漁師にも魚を獲らせないのです」

 それを小五が受ける。

「そいつらの頭領は落第書生の王倫。その下に杜遷、宋万、朱貴って奴らがいるが、こいつらは十人並みだ。だが近ごろ入山したのがとんでもねぇ野郎さ。東京で禁軍教頭をやっていた林冲という奴さ。こいつらが何百人も手下を引き連れ、近隣を荒らしまわってるんだ。だから俺らもここ一年以上向こうでは漁ができねぇんだ」

「その話は初耳だが、それほどの賊に対してお上(かみ)は何をしているのです」

 呉用の質問に小七が答える。

「先生、お上なんかにそんな肝っ玉はありゃしないぜ。おいらたちからふんだくるばっかりで梁山泊になんか近づきもしねぇんだ。まぁ、梁山泊のおかげで役人たちにやられる事も減ったけどね」

「なるほど、事情は分かった。しかしそうなると梁山泊の賊たちは痛快だろうな」

 小五が杯を引っ掴み、ぐいっとあおる。

「まったくその通りだぜ、先生。奴らは天も恐れず地も恐れず、お上も恐れずだ。俺たち兄弟も腕はあるのに、こいつを振るう場所がないのが残念なんだよな」

 小五が座したまま、上半身だけで拳を振るってみせる。

「兄貴の言う通りさ。おいらもあいつらみたいにひと暴れしてみてぇな」

「小五、小七」

 と小二が騒ぐ弟たちを目で制した。小二がちびりと杯に口をつける。

 それを見た呉用は、小二に向けて言った。

「そうです、あんな連中の真似をしてどうなるというのです。捕らえられれば死罪は免れないでしょうに。やっぱりお上には逆らえませんからな」

 小二は杯を静かに置いた。そして絞り出すように話しだす。

「しかし先生、今どきの役人など碌なものではありません。金の有る無しで裁きは決まり、えらい罪を犯した奴が罰も受けずにのうのうと暮らしていやがる。わしとて本当は面白くない。世を変えるためにでも、この力を誰か使ってはくれぬかと思う事があるのです」

「ほお、誰かそういう人物がいれば従うというのですか」

「そうさ、俺たちを認めてくれるんならたとえ火の中水の中さ」

 小七の言葉に、小五もそうだそうだと腕を振り回している。

 呉用は心の中で微笑んだ。

 大きな魚が餌に喰らいついた。だが焦ってはならない。急いて手繰っても糸を切られてしまう。

「なるほど、では三人とも梁山泊へ行って仲間にしてもらったらどうかね」 

「そこなのです、先生」

 小二が渋い顔をする。

「わしらも同じことを思っておりました。ですが頭領の王倫の噂を聞いたんです」

 呉用は黙って続きを促す。

「なんでも王倫という奴はとんでもなく狭量だとか。さっき言った林冲も入山はしたものの、それまでに散々酷い目にあったそうです。それを聞いてわしらも二の足を踏んでいるのですよ」

「まったく、王倫とかいう野郎に先生ほどの度量があったなら迷わず行っているものを」

「はは、私など物の数ではないが、この山東(さんとう)、河北(かほく)にはいくらでも英雄豪傑がいるではないか」

 呉用が小七の言葉を受けた。それに小二が残念そうに言う。

「わしらはこの村から出た事が無く、彼らに会った事もないのですよ」

「ではこの近くの東渓村の晁蓋という男の事は知らんかね」

 呉用の問いに、三人とも口をそろえて、知っているが縁が無く会った事が無いという。

「実は私が私塾を開いているはその東渓村なのだ。それで聞くところによると、晁蓋どのが莫大な金蔓を握ったらしいのだ。そこで相談なのだが、そいつを私らで奪うというのはどうかね」

 だが三人は呉用の提案を否定した。

 曰く、晁蓋は義を重んじ、財を疎んじる人物、そんな彼の足を引っ張るような真似をすれば天下の英雄たちから笑い者にされるというのだ。

 呉用の思った通り、晁蓋の威名はこの石碣村にも轟いていた。

 魚はついに網の中に入った。

「すまぬ、阮の兄弟たちよ」

 呉用はいきなり床に手をつき、ひれ伏した。

 突然のことに戸惑う兄弟たち。

「三人の心の中がはっきりと分かった。私も本当の事を言おう」

 呉用は顔を伏せたままゆっくりと語り始めた。

 鯉の買い付けは作り話で、実は六月十五日の生辰綱、それを強奪するために三人の力を借りようと赴いた事。そして北斗七星の夢の事。そして騙すような真似をした事を詫び、この計画に参加すれば、もう後戻りはできない事を告げた。

 呉用は何よりもそこを伝えたかった。梁山泊の賊に向けた、捕まれば死罪という言葉は、そのままこの件にもあてはまる。

 去年、生辰綱を強奪した賊はいまだに捕まらないというが、今回もそうとは限らない。成功しても加担したと露見すれば、元の生活には戻れないという覚悟が必要なのだ。

「先生、わしらで良ければ力になりましょう」

 阮小二が呉用を助け起こしながらそう言った。妻と子供のいる小二が始めに意思表明するとは意外だったが、それだけ世に不満があったのだろう。

 阮小五と阮小七は表情を引き締め、自分の首筋を叩きながら言った。

「俺たちに流れる滾(たぎ)る血は、俺たちを本当に知っている人のためにあるのさ」

「ありがとう小二さん。五郎さんに七郎さんも」

「水臭いこと言うなよ、先生。さ、そうと決まれば乾杯だ」

 小七がさっと皆に酒を注ぐ。四人が杯を上げ呉用が乾杯の言葉を告げる。

「では、生辰綱に」

 乾杯、と四つの杯が音を立てる。

 湖上の亭ではその後も笑い声が絶えなかった。

 ちゃぽん、と湖面で音がした。

 どうやら鯉が跳ねたようだった。

bottom of page