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北斗

 庭で夜空を眺めていた。

 美しい。

 後ろに手を組み、飽くことなく星を眺めていた。いったいどれくらいの時間そうやっていたのだろうか。

 おかしい。

 晁蓋は気付いた。星の位置が変わっていないのだ。あれほどの時間が経ったにもかかわらず星が動いていない。まるで夜空に貼り付けられたかのように、星はその動きをやめていた。夜空のあちこちを見回すがどの星も同じだった。

 これは一体、と北を見上げた時だった。星が動き始めた。

自分の勘違いだったか、と安心したのもつかの間、それが思い違いであると悟った。

 動いていたのは視線の先にある星だけだった。その数は八つ。

 北斗七星とその脇に鈍く輝く小さな星だった。動いているといっても、西へと動いている訳ではない。徐々にその姿が大きくなっているのだ。

 瞬きすら忘れ、晁蓋は茫然とたたずんでいた。そうしている間にも北斗と小星は大きさを増してゆく。

 いや、大きくなっているのではない。天空からこちらに落ちてきているのだ。

 今や視界いっぱいに八つの星が広がっていた。晁蓋の顔が星たちの明かりで煌々と照らされている。だが晁蓋は目を閉じる事がなかった。眩しくはないのだ。

 立ち尽くす晁蓋に八つの星たちが降り注いだ。もはや何も見えない。目の前が白い輝きで包まれる。

 晁蓋は叫んだ。

 目の前は暗闇だった。

 目を開けたのに暗闇だった。闇に慣れ始めた晁蓋が見たのは、いつも使っている布団だった。

 夢、だったのか。

 上を見ても暗い天井が見えるばかりだった。障子の向こうも暗い。まだ朝には早いようだ。深呼吸をしてもう一度目を瞑ったが、眠りにつける気配がない。完全に目が醒めてしまったようだ。

 晁蓋は服を着替え、溜まっていた仕事でもしようと書斎へと向かった。蝋燭(ろうそく)に火を灯し、卓に向かう。

 書類に目を通しながらも、夢の事が頭から離れない。北斗七星と小星に何の意味があるのか。

 書類から目を離し、座ったまま両手を上げ、背を反らせる。

 門の方で何か音が聞こえたようだ。耳を澄ませると確かに門が叩かれている。

 こんな時分に気の早い者がいたものだ。

 晁蓋は席を立ち、来客を迎えようと門へと急いだ。

 

「こんな時分に申し訳ない、晁蓋どの。役所へ戻るにはまだ早かったし、ここの明かりが灯っておったので寄った次第で」

 雷横が頭をかきながら挨拶をする。

「なに、遠慮なさるな。日頃から近隣の警備に努めている都頭どのを追い返すはずがないでしょう。丁度、目が覚めておって良かったわい」

 晁蓋は雷横一行を招き入れると下男たちを叩き起こした。さっそく酒と軽い食事を用意させた。

「ところで何かあったようですが」

「さすがは托塔天王(たくとうてんおう)どの」

「やめてください、その渾名は。お恥ずかしい」

 数年前、川を挟んだ隣村の西渓村(せいけいそん)に幽霊が出るという騒ぎがあった。

 幽霊は昼間でも現われ、村人を川に引きずり込んでいたという。だが通りがかった僧侶の助言で宝塔を建ててから、幽霊騒ぎはぴたりと止んだ。

 しかし困ったのは東渓村だった。なんと幽霊が今度は東渓村に現われるようになったのだ。

 晁蓋は東渓村を預かる保正(ほせい)の身。憤慨した彼は西渓村に建てられた、重さ百数十斤もの宝塔を独りで持ち上げ、東渓村側に運んでしまったのだ。

 この一件以来、村人たちは畏怖を込めて晁蓋の事を托塔天王と呼ぶようになったのだ。

 だが再び西渓村が被害にあうようになり、晁蓋も自分の短慮を反省した。そして身銭を切り、同じ宝塔を作る事でこの件は落着したのだった。

「ははは、謙遜なさるな」

 と笑うと、雷横はふいに真顔になり、今晩の不審人物捕縛の顛末を語った。聞くと、男は晁蓋宅の門長屋(もんながや)の軒に吊るしてきたという。

 一体どんな男なのか。興味をそそられた晁蓋は便所に行くふりをして、門長屋へと向かった。

 異様な面相の男がそこにいた。逆立った赤茶けた髪、太い眉、こちらを睨む眼(まなこ)は鬼のようだ。口元からは牙のような歯が覗いている。

「お前は何者だ。ここへ一体何をしに来たのだ」

「俺はある人を訪ねてきたのだ。盗みも何もやっちゃねぇのに、あの都頭の野郎が有無を言わさずふん縛(じば)りやがった」

「わしはこの屋敷の主(あるじ)だが、お前の名はなんという。そして会いに来た人物とは誰なのだ」

「ふん、俺の名は劉唐(りゅうとう)。赤髪鬼(せきはつき)の劉唐だ。この村に天下の義侠、晁蓋どのがいると聞いてやって来たのだ」

 自由を奪われ、軒に吊るされているというのに少しも怯まない豪胆さ。まさに赤髪鬼の名に恥じぬ男だ。こういう男は大好きだ。晁蓋は思わず微笑むと正体を明かした。

「あんたが晁蓋どのか。こんな上から申し訳ない。あんたに話があって来たのだ」

「何の話かな」

「莫大な金蔓(かねづる)さ。この縄を何とかできねぇかい、晁蓋どの」

 そうだな、と晁蓋はしばし思案し告げた。

「お前はわしに会いに来た甥という事にしよう。あまり席を外していて不審に思われるといけない、わしはもう戻る。上手く口裏をあわせてくれ、良いな」

 晁蓋は門長屋の扉を閉めると部屋へと戻った。雷横はひたすら酒を飲み、部下と話をしており、こちらを疑ってもいないようだった。

 

 一番鶏が鳴いた。

 雷横は口惜しそうに杯を置くと、晁蓋に出立の意を告げた。

「長い事お邪魔しました。晁蓋どのも不審者を見たらすぐに連絡してください」

 門長屋の方から劉唐が引っ立てられてくる。

 大人しくしていたか、と雷横が劉唐を引き取った。ふと劉唐が顔を上げ、晁蓋を見た。

「叔父さん、俺です。お忘れですか」

 雷横は驚き、その目線が晁蓋と劉唐を何度も行き来する。

 驚いたのは晁蓋も同じだった。迫真の演技ではないか。この劉唐という男、粗野なだけではないようだ。

 晁蓋は眉根を寄せ、劉唐の顔をしげしげと見聞する。

「おお、お前は王小三(おうしょうさん)か。幼い頃に会ったきりだったが、その髪の色と、尖った歯で思い出したわ」

「そうです、小三です。お懐かしゅう」

 王小三こと、劉唐は事の成り行きを話しだした。

 この東渓村に晁蓋を訪ねてきた事。村に着いたのが夜明け前だったので、廟で一夜を過ごしていた事。そしてそこで雷横に縄をかけられてしまった事。

 雷横は目を丸くして立ち尽くす。捕まえた男は晁蓋の甥だったというのか。確かにこの男が何かを盗んだという訳ではない。誰も立ち入る事のない廟の中で寝ていたので、不審者とみなしたのだ。

 雷横が対応を考えあぐねていると、晁蓋の手にいつの間にか棒が握られていた。部下に持たせている棒だった。

「この馬鹿者め、都頭どのに迷惑をかけおって」

 晁蓋はそう叫ぶと、雷横が止める間もなく、小三を殴りつけた。

 慌てたのは雷横だ。

「や、おやめください晁蓋どの。甥ごどのは何もしていないのですから」

「いえ、雷横どのに捕縛されて当たり前です。家族の恥はわしが責任を持つ」

 そう言って再び棒を構える。雷横が急いで縄を解くよう、部下に命じる。

「叔父さん、すまない。そして都頭どのも」

 手首をさすりながら、小三が頭を下げる。

 雷横も申し訳ない思いで、心地よい酒の酔いなどどこかへ飛んでしまった。

「いやいや、わしも悪かったのだな、よく確かめもせずに。晁蓋どの、甥ごさんを赦してやってください」

「何を言いますか。雷横どのは職務を果たしただけの事。誠にお騒がせをいたしました」

 晁蓋は下男に銀を取りに行かせ、それを雷横に渡した。

 雷横は断ったが、晁蓋が何度も勧めるので仕方なく懐にそれを仕舞った。

 雷横の背には、そのやり取りを見ていた劉唐の視線が注がれていた。

 

 生辰綱(せいしんこう)を奪う、と劉唐は言った。

 十万貫という、にわかには信じ難い額だった。北京(ほくけい)の留守司、梁世傑が義父である東京(とうけい)の蔡京のために贈る誕生日祝いの金銀珠玉だというのだ。

 劉唐は言う。

「いいですかい、晁蓋どの。それらも元は貧しい民草から捲き上げた不義の財宝だ。だから俺らが奪っても、お天道様が見てたって咎めるはずがありません。あんたを義侠と見込んで話を持って来たんだが、どうですかい」

 晁蓋は腕を組み、唸った。

 確か昨年の生辰綱は賊に奪われ、いまだに犯人が見つかっていないと聞いた。ならば今回も多くの賊たちが手ぐすね引いて待ちかまえているだろう。

 また梁世傑とて、同じ轍は踏まずに何らかの策を練ってくるだろう。その十万貫は不義の財には違いあるまい。心は動かされるが、一筋縄でいく案件ではない。

 結論は明日という事にして、劉唐は部屋へと案内された。寝台に腰かけ、劉唐は手首を見た。縄の跡がうっすらと残っている。

「あの野郎、思い出すだけで腹が立つわ。どうして俺があんな目に会わなきゃならねぇんだ。役所へ行くと言っていたが」

 まだそう遠くへは行っていまい。思うが早いか、劉唐は部屋を出て外へ駆けだした。手には槍架けにあった朴刀が一本握られていた。

 屋敷から南へ数里行った所で雷横一行を発見した。劉唐が吠えた。

「おい待ちやがれ、貴様」

 振り向いた雷横は、朴刀を手にした鬼を見た。鬼は更に吼えたてる。

「晁蓋どのから捲き上げた金を返しやがれ」

 雷横は部下を下がらせ、自らも朴刀を構える。

「捲き上げたとは人聞きの悪い。こいつはお前の叔父さん、晁蓋どのからいただいたものだ。お前には関係あるまい」

「確かめもせずに人を一晩吊るしやがって。おまけに俺の叔父から金をせしめやがって、貴様の方こそ盗っ人ではないか」

 売り文句に買い文句、雷横も黙ってはいない。

「何だと、晁蓋どのの甥というから解放してやってだけの事。さもなくばお前など今ごろ牢の中よ」

「ふん、盗っ人猛々しいとは正にこの事だな」

 追いついた劉唐が朴刀を振り下ろす。それを迎え討つ雷横。

 だが雷横はそれを受けず、身をかわした。長年の戦いで培った一瞬の判断が生死を分けた。

 雷横はぞっとした。突風の如き一撃は、己がいた場所の地面を深々と抉っていたのだ。劉唐の肩口から見える腕と肩の筋肉が隆起し、血管が縦横に走っている。

 何という膂力なのか。触れれば骨ごと斬られてしまう。さらに劉唐の刀が唸り声を上げた。

 雷横は後方に飛び、距離をとった。劉唐が横薙ぎに払った刀は空を斬ったが、傍らの塀にしっかりと深い刀傷が残されていた。

「鬼め」

 雷横が唾を地面に吐き捨てる。

「どうした、そっちからもかかって来いよ」

 劉唐の挑発には乗らない。奴の刀に触れた時点でお終いだ。だが威力は確かにあるが、技術はそれほどでもないようだ。

 朴刀を構え劉唐に向かって駆ける雷横。駆けだして三歩、雷横は地面を蹴るようにつま先に力を込める。

 次の瞬間、雷横は跳んだ。矢のような勢いで劉唐に向かって真っ直ぐに跳んでゆく。

 充分な距離があり、鷹揚(おうよう)に構えていた劉唐は目を見張った。

この距離を跳ぶだと。しかも駆けるよりも早く跳んでくる。跳躍というよりも射出という感じだった。

 雷横と劉唐が交差する。劉唐は辛うじて防ぐ事しかできなかった。

「蟋蟀(こおろぎ)か手前(てめえ)は」

 毒づくが、朴刀を持つその手がじんじんと痺れている。その時、見たのは蟋蟀などではなかった。

 劉唐は虎を見ていた。

 牙を剝き、襲い来るその虎は、大きな翼を持っていた。

 

 雷横と朱仝が強盗の一味を追っていた時の事である。

 首尾よく一味を取り押さえたかに見えたが、首領格の男がいないことに雷横は気付いた。

 隠れていた首領は雷横に見つかると寨(とりで)のある山へと逃げた。雷横はそれを追ったが、男は足が速く、雷横も見失わないようにするので精いっぱいだった。

 先を行く男は、深い谷に架かる吊橋を渡り終えると、それを落としてしまった。

 騎馬で追いついた朱仝は見た。雷横がそれでも速度を落とさずに谷に向かって駆け続けるのを。

 跳ぶ気か、まさか。

 雷横は足に力を込め、速度を上げた。

 跳ぶ気だ。よせ雷横、無理だ、と朱仝は叫んだ。

 跳んだ。

 雷横はまったく躊躇することなく、跳んだのだ。

 朱仝は思わず手を伸ばしたが、届くはずもない。

 時の流れが緩やかになったように感じた。見えるもの、聞こえるもの全てがゆっくりだった。風の音が耳鳴りのようだ。

 雷横は宙をゆっくりと駆けるように跳んでいた。朱仝は手を伸ばしたまま雷横の行方を見つめる事しかできない。

 雷横、と叫んでいた。

 雷横、雷横、と何度も何度も叫んでいた。だがそれに反し、言葉はゆっくりとしか出ず、身体も水の中にでもいるかのように緩慢にしか動かせない。

 雷横、とやっと声に出た途端、時の流れが戻った。枷を外されたようにつんのめる朱仝。手を伸ばした先に雷横はいなかった。

 雷横、もう一度叫び目を凝らす。

 いた。

 断崖の向こうで、雷横が首領に馬乗りになっていた。

 跳んだのか。

 断崖の幅は四間(けん)ほどもあろうか。馬ならば跳べもしよう、また平地ならばその幅を跳べる者もいるだろう。だが平地ではないのだ。まさに一歩間違えれば奈落の底である。

 ほんの少しの躊躇(ためら)いが命取りだというのに、雷横は逡巡することなく跳んで見せた。

 朱仝はその胆力と脚力に敬意を払い、それ以降、雷横の事を挿翅虎(そうしこ)と渾名するようになった。

 

 劉唐が見たのはその挿翅虎だった。

 驚いた劉唐だったが、潜(くぐ)った修羅場の数では負けていない。にやりと笑ってみせると、人差指で招くそぶりをする。

「へへ、もう一度来いよ、蟋蟀野郎」

 雷横は呼吸を整え、朴刀を構え直す。同じ手は通用しない事はわかっている。だがやるしかない。ひゅっ、と息を吐き雷横が駆けた。

 本当にもう一度やる気なのか。お互いに駆け引きが得意ではないことは確かだ。ならば持てる力をぶつけるしかないのだろう。

 いいだろう、受けてみせよう。劉唐は腰を落とし、左手を前に出す。朴刀を逆手に持ち、身体を斜(はす)に構える。

「来い」

 劉唐の叫び声とほぼ同時に雷横が跳んだ。射出点の地面が深く抉(えぐ)れていた。

 眼前に迫る空駆ける虎。

「来い」

 劉唐は腰をさらに落とし、力を溜める。

 今だ。劉唐が溜めていた力を爆発させる。朴刀が烈火の勢いで雷横を襲う。

 それと同時に、挿翅虎は右腕を伸ばし、朴刀を劉唐に向かって突き出した。

 二つの刃が交差した。

 そしてその刃は劉唐と雷横、どちらに到達することもなく弾け飛んだ。回転した二つの朴刀は、民兵たちの目の前に落ちた。

 ひっ、と民兵たちが飛びのく。

 二人の手から朴刀が失われた。

 劉唐の手は空を斬り、雷横がそのままの勢いで激突する。もんどりうって地面を転がる両者。

 民兵が落ちた朴刀を見ると、刃が突き合せになったままでひとつになっていた。そこには銅の鎖が巻きついていたのだ。

「誰ですか、こんな早くに騒がしい。少し静かにしてくれませんかね」

 上体を起こした二人が見たのは書生風の男だった。

 どうやら二人が戦っていたのは、彼の家の門前だったようだ。

「ああ、壁にこんな傷までつけて」

 と言って、劉唐と雷横を見る。

「おぉい呉用(ごよう)先生、わしだ。王小三もやめるのだ」

 晁蓋どの、と男が声の方を向いた。

 呉用先生と呼ばれたその男の手には、朴刀に絡みついているのと同じ銅鎖がぶら下げられていた。

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