top of page

断罪

まったく真面目すぎて、面白くない男だ。

 裴宣は部下からもそう言われている事は知っていたが、気にしていなかった。

 ここ京兆府(けいちょうふ)で法律を扱う孔目という身、真面目であらねばならない、と裴宣は常々思っていたからだ。

 鉄面孔目(てつめんこうもく)。賞賛とも揶揄(やゆ)ともとれる渾名で呼ばれていたが、裴宣はそれも気にしていなかった。

 裴宣はその日も、誰よりも早く、開門と同時に役所へと登庁した。報告されてくる書類に次々と目を通してゆく。

 東の華州(かしゅう)華(か)陰(いん)県(けん)では山賊が跋扈しており、役人は大変な目にあっていると聞く。幸いにも京兆府付近ではそういった話は聞かないものの、明日は我が身である。しかしこれほどまでに各地で落草する者が増え、それに比例して賊の類(たぐい)も増えているのは何故だろうか。

 裴宣は、それ以上考えるのをやめた。それを考えるのは自分の役目ではない、もっと中枢の官が考えるべき事だからだ。

 そして裴宣は目の前の書類に目を落とした。今日の裁判の内容を確認する。

 役人を殺した、孟(もう)康(こう)という船大工(ふなだいく)の裁判であった。

 

 孟康は腕の良い船大工だった。

 その腕を見込まれ、花(か)石(せき)綱(こう)の運搬船建造に駆り出された。

 正直、孟康は乗り気ではなかった。かの悪名高い花石綱である。下手をすれば死罪もあり得ると聞いていたからだ。

 しかしお上の命令に逆らえば、のちの仕事にも影響するだろうし、花石綱といっても船の建造だ。直接、自分が運ぶ訳ではない。そう言い聞かせて、渋々であるが受けざるを得なかった。

 現地では朱勔(しゅべん)の威を借る役人たちが威張り腐っていたが、孟康は船の建造に熱中した。

 何だかんだ言っても船を設計し、それを造る事が好きなのだ。孟康は改めてそう思っていた。

 黄河にも勝るとも劣らぬ長江を見ていると、まさに奔流のように孟康の頭には様々な船の図面が浮かんできた。そこで作業の合間を見ては、運搬船以外の図面を隠れて書くようになった。

 別にそれらの船を作る訳ではなく、できあがった図面を見ては満足する。定められた仕事に対する、ほんの息抜きのような感じで、孟康はそれをしていたのだ。

 とある日のことである。孟康の脳裏に稲妻のように何かが閃いた。

 孟康は忘れないうちに、とその考えを図面に起こし始めた。他の作業を捨ておいてまで、その船の設計をし続けた。

 そうなると本来の作業、花石綱運搬船の建造に支障をきたす事になる。それでも孟康はやめなかった。早く書いてしまわねば、忘れてしまうからである。

「どうしたんだい、この頃顔色が悪いじゃねぇか、玉旛(ぎょくはん)竿(かん)」

 同僚の船大工である葉春(しょうしゅん)が心配そうに、孟康の顔を仰ぎ見て言った。

「ん、ああ、大丈夫だ。この所、寝付けなくてな」

「もう期日も迫ってるんだ、このままじゃ間に合わなくって、お咎めを喰らっちまうぜ」

「分かってるさ。もう少しだよな」

 とある船の図面を書いている、などとは言えぬ孟康はそうごまかした。

 その日の作業を終え、葉春は孟康の部屋を訪ねる事にした。心配だったのもあるが、何か隠しているような気がしたのだ。

「孟康、いるかい」

 返事はなかった。戸が開いていた。

 葉春が覗き込むと、孟康が鼾(いびき)をかいて机に突っ伏していた。

 起こさぬように近づいた葉春は見た。腕の下に何やら図面らしき物を敷いていたのだ。

 細心の注意を払い、ゆっくりとそれを引きぬいた葉春は思わず声を上げそうになった。

 何だい、こいつは。

 これが、船なのか。ずんぐりとした、それはどこか鰍(かじか)を思わせる形をしていた。

 これは傑作だ。同じ船大工である葉春は直感した。孟康は夜な夜なこれを書いていたのだ。その気持ちが葉春にも分かった。これほどの物、今の作業そっちのけにしても描き上げたくなるものだ。

 見れば見るほど、恐ろしくなってきた。孟康の才能と、この船自体にである。

 横では孟康が、幸せそうな顔で鼾をかいていた。

 葉春はにやりと口もとを歪めた。

 

「すでに期日だというのに、何をやっているのだ」

 建造を監督する役人が顔を赤くして、孟康を怒鳴る。

「お前の腕が良いから多少は大目に見ていたが、これ以上遅れる事は許されんぞ」

「すみません、監督どの。すぐに完成させますので、どうか勘弁してください。しかしそんな事よりも」

 あの図面が無いのだ。

 目が覚めた時、孟康が作成していた船の図面がなくなっていた。部屋の隅々まで、作業場の隅々まで探したのだが見つからなかったのだ。

 孟康は気が気でなかった。図面の完成までもう少しだったのだ。自分でも傑作だと思えるほどの出来栄えだったのだ。孟康にとって花石綱の運搬船建造など二の次になっていた。

「そんな事、とはなんだ。これは天子さまのためにお造りしている運搬船であるぞ。それをそんな事とは、貴様」

 監督官が鞭を振り上げた。

「す、すみません。そういうつもりでは」

 孟康は弁明するが、監督官は聞かない。鞭がしなり、孟康を打ちつけた。

「お、お止(や)めください」

 孟康は鞭を遮るつもりだったのだが、伸ばした手が監督官を突き飛ばす形となってしまった。

 虚を突かれた監督官は尻もちをついてしまった。周りで見ていた職人たちから思わず失笑が漏れた。

「貴様、何をするか。反抗するとは許されぬぞ、孟康」

 顔を真っ赤にして監督官が立ち上がり、鞭を捨てると腰の刀を抜き放った。

「いや、そんなつもりでは」

 殺される。孟康は思った。

 孟康も必死だった。刀より速く、孟康は再び監督官を突き飛ばした。

 玉旛竿と呼ばれる孟康である。背も高く、力も大工仕事で鍛えられていた。監督官は先ほどよりも激しい勢いでふっ飛んだ。その先には梁や帆柱に使う木材が立て掛けられていた。そこへ監督官が突っ込んだのだ。

 がらがらと激しい音を立てて木材が、監督官の上に崩れ落ちる。

 しまった、と孟康は思ったが遅かった。喧噪の後、職人たちが救い出したのだが、すでに監督官は圧死していた。

 孟康は顔を白くし愕然とした。

 死なせてしまった。わざとではないが、死なせてしまったのだ。

 騒ぎを聞きつけた他の役人が駆けつけてきた。

 焦ってしまったのだ。孟康は、思わず落ちていた刀を拾うとそれを振り回し、その場から走り去った。

 孟康は逃げた。無我夢中で逃げた。

 だが逃げている時も、船の図面の事が頭から離れなかった。

 数か月、遠くへ逃げた。ひたすら西へ向かい、ここまで来れば大丈夫だろうと思った。 だが捕えられた。そしてとり急ぎ、近くの京兆府へ送られた。

 引き出された孟康は、府尹(ふいん)の横にいた気難しい顔をした男が気になった。

 だがその男の目には、どこか安心感を与えてくれる何かがあった。

 

 裴宣(はいせん)は、目を軽く閉じ、深い息を吐いた。

 その船大工を死罪にせよ。府尹の元に中央から、そういう命令が届いていたのだ。

 どうやら死んだ監督官は、朱勔(しゅべん)の親族らしいと聞かされた。しかし監督官の死亡原因は、あくまでも事故である。現場の目撃証言も多数あり、間違いないだろう。

 金と権力さえあれば、法さえも自由にできる。そんな事があってはならないが、今の世ではそれも事実であった。

 それでは何のための法なのだ。

 法は人が生きる上での規範である。裴宣はそう考えていた。

 生きていれば誘惑にかられ、また仕方なく悪事をするかもしれない。それが小さくても大きくても、悪い事は悪い事なのだ。

 行動には責任が伴う。裴宣は人の良心を信じているが、しかし人は弱いものだとも思っている。何も罰がなければ、咎める者がいなければ、悪事を行ってしまうのも人間なのだ。

 だから、法が必要となる。人としての道を踏み外さぬようにするのが、法という道標(みちしるべ)なのだ。裴宣はそう考えていた。

 裴宣は目を開け、府尹の元へと向かった。

「しかしな、裴宣。朱勔さまからの厳命なのだぞ」

 裴宣は何か言おうとしたが、その前に府尹が口を開いた。

「法は何のためにあるのか、だろう。お前に何度も聞かされているからな。ならばどうせよと言うのだ、裴宣」

「何度でも言いますよ、府尹さま。しかしあの船大工、孟康は監督官を殺す気はなかったのです」

 眩しい光でも見るように、府尹は裴宣から目を背けた。壁を見つめ、しばらく思案したのち、府尹は絞り出すように言った。

「わかった、ここで死罪とするのはやめよう。その代わり江州(こうしゅう)へ引き渡し、向こうでの判断に委ねる。わしができるのはここまでだ」

「はい、それが賢明なご判断と思います。江州にも公正な府尹さまと孔目がいる事でしょう。報告書を読めば、彼らも正しい判断を下してくれると信じております」

 府尹は裴宣を見つめた。本当にそんな事を信じているのか。本当に、法の力を信じているのか。府尹の自分さえ、信じてはいないというのに。

 裴宣は曇りのない目で、にこりと笑った。

 

 あの孔目、裴宣は鉄面孔目(てつめんこうもく)と呼ばれている。孟康は護送役人からそう聞いた。

「まったく鉄面孔目も物好きだよな。禁軍教頭を救ったという、開封府(かいほうふ)の孫(そん)仏子(ぶつし)に負けず劣らずって奴だな」

 三人は京兆府から南下、長江の支流である襄(じょう)水(すい)に到り、移管先の江州に向かう船の上であった。

「本当だな。まったく長いものには巻かれろ、って言葉を知らないのかねぇ」

 もう一人の護送役人が、げらげらと笑った。

「という事で、さっさと終わらせて帰ろうや」

「だな」

 護送役人二人が孟康の前後で水火根を構えた。

「ちょ、何をする気ですか。まさか」

 川に落そうというのか。

 うろたえる孟康。首には枷、両手もそれに固定され水に落ちれば、泳ぐことなど不可能だ。まして枷の重みだけで、水の底へと沈んでしまうだろう。

「堪忍してくれよ。上からの命令なんだ」

 府尹は裴宣の言葉を受け入れ、孟康を朱勔の元へと送り返す事とした。後の事は向こうに任せる事にする、という結論だった。

 しかし、である。府尹としても、蔡京から花石綱の任を引き継いだ朱勔に逆らう勇気はなかったのであろう。二人の護送役人に、孟康の始末を密かに命じたのだ。

 せっかく拾った命だ、こんな所で失ってたまるか。

 孟康は不格好ながらも、抵抗する構えをとった。

 じりじりとにじりよる護送役人。

 水火根が孟康を襲う。二人はまず足を狙った。足場の悪い船の上、孟康が体勢を崩したところへさらに二人は水火根を突いてきた。

 もう終わりだ。

 孟康がそう思った時、ひゅんひゅんと何かが唸る音がした。

 続いて大きな水飛沫(みずしぶき)が二つ。

「た、助けてくれぇ」

 孟康を襲った護送役人が、瞬く間に襄水に飲まれていった。

「まったく役人どもはいつも弱い者を寄ってたかっていじめやがる。無事かい、そこのでかいの。俺は鄧飛(とうひ)って者(もん)だ」

 孟康が振り向くと、男がいた。

 別の船に乗り、手に持った鉄鎖(てつさ)をひゅんひゅんと回していた。孟康が聞いたのはこの音だったのだ。この鉄鎖で役人ふたりをあっという間に水に落としたのだ。

「あ、ありがとう。俺は孟(もう)康(こう)だ、助かったよ」

 何だか誰かに救われてばかりだ、と思った。

 孟康は鄧飛と名乗った男の顔を改めて見た。

 目が血走ったように赤い、獅子のような男だった。

 

bottom of page