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断罪

 戴宗は驚いて足を止めた。

 梁山泊を出て三日め、とある県境での事である。

「神行太保どのではありませんか」

 神行法を使い、疾駆しているところを呼び止められたのだ。無茶な事をする者がいたものだ。

 振り向くと、少し離れた所で男が拱手していた。鼻筋が通り、肩幅の広い偉丈夫であった。背には筆管槍(ひつかんそう)が見えた。

 男は楊林(ようりん)と名乗った。

「して楊林どの、どうして俺だと分かったのかね」

「はい、実は」

 楊林は人好きのする笑顔で話し始めた。

 楊林は河南(かなん)彰徳府(しょうとくふ)の生まれで、ひとつ所に留まらず全国を流浪しながら盗賊稼業をしてきたと笑った。そして流れた先の土地土地で、好漢と思しき人物に積極的に話しかけては親交を結んでいるのだという。

 なるほど晁蓋などと同じなのだろう。盗賊だと言いながら、戴宗も感心するほどの社交性の高さだった。

「数か月前に薊州にいた際、公孫勝先生とお会いしたのです。その時に梁山泊の話を聞き、ぜひとも加わろうと向かっている途中でした」

 戴宗の話も公孫勝から聞いたという。

 曰(いわ)く、神行法という術で一日に八百里を踏破する者がいる、と。

 楊林は、そこで街道をものすごい速度で行く影を見つけた。これこそ神行太保に違いない、と戴宗に声をかけたのだという。

 しかし戴宗は楊林を見ながら思う。梁山泊も近ごろ入山希望者が増えており、各居酒屋にも有象無象の輩が集まってきているという。だけならばまだ良い。その中には朝廷からの間者らしき者も紛れ込んでおり、その判別と排除にひと苦労だ、という朱貴の言葉を思い出した。

「当然、疑っておいででしょう」

 戴宗の思いを見透かしたかのように、楊林が言った。

「公孫勝どのから言質(げんち)をいただいたとはいえ、手紙などはいただいておりません。戴宗どのには、私の言葉を信じていただくしかございません。それで駄目ならば」

「わかった、信じるよ」

 戴宗は楊林の言葉を遮り、言った。腐っても牢役人の長をして、罪人たちを嫌というほど見てきたのだ。楊林が嘘をついていない事は、戴宗には分かった。

 楊林の目は真っ直ぐに戴宗を見ていた。その目は、あの李逵を思わせるものだった。それだけで信じるに足るものだった。

「それで、実はこれからその公孫勝どのを迎えに行くところだったのだ」

「なんと、そうでしたか。ご迷惑でなければ、私もお供させていただけませんか。薊州あたりの地理ならそこそこ存じておりますので」

 戴宗は薊州は初めてでもあり、それは願ったりだ、と楊林を同行させる事にした。

 楊林がぜひにと乞うので、その場で義兄弟の契りを結んだ。戴宗が兄、楊林が弟である。楊林は実に嬉しそうな顔をしていた。

 その日は近場の宿屋に泊まった。

 翌朝、旅支度をしながら楊林が言った。

「そう言えば、兄貴は神行法を使うのですから、私が追いつけるはずもありませんよね。かと言って、私にあわせていては遅れが出るだろうし」

「心配いらんよ」

 戴宗は、にやりとしてそう言った。

 

 景色が後ろへ飛んでゆく。

 足が、あり得ないほどの速さで動いている。

 おおお、と楊林は驚きと喜びとが混じったような声を出していた。

 楊林の脛には甲馬が貼られていた。戴宗が神行法で用いるのと同じものであった。

「実は神行法は、別の人間にもかけられるのさ」

 そう言って戴宗は笑った。

 はじめは驚いていた楊林だったが、次第に慣れてきたようだ。

「これは凄いですね、兄貴」

 と笑う余裕も出てきたようだ。さすがは江湖を渡り歩いていると言うだけの事はあった。神行法をかける際も嫌がらなかったし、やはり肝が据わっているのだろう。

「さあ、急ぐぞ。道はこっちで良いのだな」

 そう言って戴宗は前を見据え、ふと呉用の顔を思い浮かべた。

「その神行法とやらは、別の人間にもかけられるのですか」

 江州での事である。

 戴宗に向かって、この術を知ったばかりの呉用がそう聞いた。

「え、それはどうかな。考えた事もなかったが」

 戴宗はじっと札を見つめた。

 

 戴宗がまだ院長になる前、牢役人の下っ端だった頃である。

 小汚い身なりをした道士風の男が牢に入れられた。どこかから流れてきたようで、無銭飲食をやらかしたらしい。

「この世の物はすべて天からの授かり物だ。だから銭など払う必要はない」

 取り押えられた時に、悪びれることなくそう言っていたという。

 戴宗は何となくその道士が気になった。もちろん、道士は賄賂になる金など持っていなかった。戴宗は身銭を切り、獄卒に頼んで棒打ちを免除してもらった。

「ふむ、なかなか見込みのある奴だ」

 助けてもらった礼もせず当然のように構える道士を、戴宗はますます面白い男だと思い、仕事の合間を見ては道士の話を聞きに行った。

 道士はよくこう言っていた。この世に悪がはびこる時、天から落とされし魔王たちが悪を断つために現れる、と。

 戴宗も半信半疑で聞いていたのだが、他の者は耳を傾ける事さえしなかった。だからだろうか、道士も戴宗を気に入ったようだった。

「お前には世話になったな。そうだ、世話になった礼といっては何だが、ひとつ術を教えて進ぜよう」

 数月後、放免となった道士は、戴宗に向かってそう告げた。

 そして道士は札を戴宗に渡し、術を教えてくれた。そしてある日、忽然と姿を消していたのである。その道士が結局何者なのかは分からずじまいだった。しかし、戴宗は知ろうとも思わなかったし、気にもしなかった。

「なるほど、神行法という訳ですね」

 道士から術の名前は聞いていなかったが、とある書生風の男がそう勝手に名づけた。

 その男は呉用といった。

 

 まだこの術に慣れていなかった戴宗が、道を歩く呉用とぶつかりそうになったのだ。

 本を手に歩いていた呉用は戴宗に気付かず、戴宗も急には止まれなかった。

 だが、すんでの所で衝突は避けられた。呉用が、咄嗟に銅鎖を戴宗の足に絡めたのだ。戴宗は地面を勢いよく転がったが、人を傷つけずに済んで良かったと思った。

 戴宗は礼を言い、二人は笑いあった。

 聞くと、呉用は知識と見聞を広めるために各地を旅している、と言った。そのため智多星などという渾名をつけられた、と満更でもない様子で笑っていた。

 またこの術、神行法は初めて知ったがこの広い世界には様々な術があるのです、などとしたり顔で言っていた。

 そこでもう一度神行法を見せた時である。別の人間にかけられるのか、と呉用が聞いて来たのだ。

 試しに、と同僚に札を貼り術をかけてみた。呉用は、嫌だと言って頑(かたく)なに断ったからである。しかし別の者に貼りつけただけでは、術は効果を示さなかった。

 何度か繰り返して試してみると、この術がどういうものか分かってきた。そして呉用は、神行法とはどういうものかを結論づけた。

 まず、戴宗が自身に術をかける。そうしてから別の人間にも術をかける。そうすれば、術をかけられた相手の体の動きを、戴宗の意思で動かす事ができる術だ、と。

 道士は全てを伝えてはくれなかったし、戴宗も速く歩ける術としか考えていなかった。しかし、つまるところ体の動きを操る術という事がわかった。

 だが戴宗は滅多に人にかける事もせず、神行法としてのみ、この術を習練してきた。

 神行法を他人にかけるのは久方ぶりだった。少し心配だったが、上手くいったようで戴宗も安心した。

 道々世間話をしながら、二人は早くも薊州に達した。

 戴宗は術を一旦解き、足を休めるため大きな石に腰をおろした。

 周りを大きな山に囲まれた中へ道が続いていた。近くには川が流れているのだろうか。流れの音から察するに、大きな川のようだ。

「この山は川にぐるっと囲まれてましてね。その川は流れが激しく馬でも飲みこまれてしまう事から飲馬川(いんばせん)と呼ばれています」

 楊林が言って、山を見上げた。

 そこへ銅鑼と軍鼓の音(ね)が鳴り響き、わらわらと山賊が姿を現した。先頭には頭目らしき二人の男が馬に乗っている。

 髪をざんばらにふり乱した獅子のような男と、背の高い男であった。

「まずい逃げるぞ、楊林」

 駆けようとする戴宗を尻目に、なんと楊林は山賊の元へと歩いてゆく。そしてまるで旧友に挨拶でもするかのように手を上げ声をかけた。

「やあ、俺だよ、楊林だ。久しぶりだなあ、鄧飛(とうひ)。こんな所にいたのか」

 鄧飛と呼ばれた、獅子のような男が遠くから覗き込むように楊林を見ると、弾けたような笑顔になった。

「なんだお前か、楊林。あれきり会えなくって、元気だったかい」

 鄧飛は部下たちに武器を収めさせると、馬を下り近づいてきた。背の高い男も一緒だった。

「昔つるんで一緒に悪さをしていた、火眼狻猊(かがんさんげい)の鄧飛という奴です。凶暴な男ですが心配ありません、兄貴」

 旧友のように、ではなく本当に旧友だったとは。楊林の顔の広さに命を拾った戴宗は、ふうとため息をついた。

 鄧飛の顔がはっきりと見える距離になった。獅子という第一印象通りの、確かに凶暴そうな顔だった。よく見ると眼が血走っているのか、赤く見える。赤目の狻猊か、と戴宗がつぶやいた。

 その鄧飛が拱手した。

「こっちは孟康(もうこう)だ。背が高いから玉旛竿(ぎょくはんかん)なんて呼ばれてるぜ」

「はは、玉の旗竿(はたざお)か。上手いこと言ったもんだな」

 紹介された孟康が、よろしくとぺこりと頭を下げた。

 戴宗が楊林に紹介され、鄧飛と孟康が驚いて顔を見合せた。二人は頷(うなず)きあうと一転、神妙な面持ちになった。

 寨(とりで)で頭領に会っていただきたい。鄧飛にそう告げられた。

 公孫勝を迎えに行かなければならない。しかし戴宗は名乗った途端、二人の態度が変わったのが気にかかっていた。頭領とやらに会えば、その理由が分かるかもしれない。

 楊林と鄧飛が示し合わせていない事は、二人が再会した様子を見ていて分かった。本当に偶然、この飲馬川で再会したのだ。

 険しい山道を登り、山寨へとたどり着いた。

 中央の床几にはとても山賊の頭領には見えない、生真面目そうな顔の男が座っていた。鄧飛と孟康が帰還の報告をし、楊林と戴宗を紹介した。

 頭領がすっくと立ちあがり、きびきびした動作で拱手をした。

「ようこそ飲馬川へお越しくださいました。私はここで頭領を務める裴宣(はいせん)と申すもの。以後お見知りおきを」

 飲馬川の頭領、裴宣は微笑む事もなく、しかつめらしい話し方だった。

 だがそれよりも戴宗は驚くことになる。

 続けて、裴宣は言ったのだ。

 戴宗を、いや梁山泊を待っていた、と。

 戴宗が聞き取れていないと思ったのか、裴宣はもう一度ゆっくりと、そしてはっきりと言った。

 梁山泊が来るのをずっと待っていたのだ、と。

 

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