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遺恨

 楊志の見ている前で、青州城に火の手が上がった。

 昨日、青州軍との交戦中に何ものかが乱入してきた。

 それは梁山泊軍だった。

 養生しているはずの孔亮が二竜山を抜け出し、救援を求めに行ったのだという。

 すんでのところで周通は助けられたし、形勢も一気に逆転した。

 だが、楊志はどこか煮え切らない思いが渦巻いていた。我らだけで、勝てないというのか。思いあがりなのだろうか。

 今日は戦闘がなかった。青州城は水を打ったように静まり返り、ついに城門が開かれることはなかった。

 三日、戦い続けだった。敵も疲れ始めたのかもしれない。少し休息がとれたと考える事にしよう。

 火の手が上がったのは、そう考えながら青州城を見ていた時の事であった。

 梁山泊か。楊志は、ただそれだけを思った。

 夜が明け、二竜山の陣を、梁山泊軍が訪れた。

 孔明と孔賓は助けだされた。孔亮は、梁山泊で静養しているという。そして何と、どういう訳か呼延灼が梁山泊に降ったのだという。

 解せぬ楊志だったが、その呼延灼が目の前にいるのだ。戦は終わったのだ。

 二竜山、桃花山の頭領たちと梁山泊軍の頭領たちが挨拶をかわし、楊志は一同を二竜山へと招いた。

「宋江の兄貴、驚きましたよ。まさかこんなところで会えるなんて」

 武松が嬉しそうに宋江に駆け寄った。武松のあんな顔を、楊志は初めて見たかもしれない。

 魯智深と曹正は、清風山にいた燕順、王英といつの間にか意気投合し、酒を呷って大笑している。

 張青、孫二娘も一同の帰還を喜び、腕を振るっていた。

 杯をちびりとやっていた呼延灼は、気配に振りかえった。

 そこに周通がいた。そして周通は一頭の馬を連れていた。

 紛れもない、踢雪烏騅がそこにいた。

「これ、あんたの馬なんだろ。残念だけど、返すよ」

 苦笑しながら、周通が手綱を渡してきた。

 ためらいながらも、呼延灼はそれを引き取った。

「本当に、良いのか」

「へへ、何度か乗ったんだけど、まったく動かないのさ。やっぱり、あんたが良いみたいなのさ」

「そうか」

 踢雪烏騅は、周通の顔に鼻を軽く寄せると、呼延灼の元へ歩きだした。

「はは、馬に慰められちまったな」

 周通はそう笑いながら李忠の元へと戻って行った。呼延灼の前に、入れ替わるように孔明が現れた。

「あんたが叔父さんの救出に手を貸してくれたんだってな。お師匠さまに聞いたよ」

 お師匠さまとは宋江のことらしい。

「わしは捕えられ、梁山泊に降った。ただ、それだけだ」

「そうか」

「ひとつはっきりしている事がある。お前の叔父、孔賓どのには何の罪もない、という事だ」

「すまない。いや、ありがとう」

 孔明は拱手をして、呼延灼の元から離れた。

 すこし離れたところにいた楊志と、呼延灼の目が合った。呼延灼はどう反応して良いか分からなかった。

 すると楊志の方が、手にした杯を軽く上げてみせた。呼延灼も同じように、ぎこちない仕草だったが、それに応えた。

 あれほど命のやりとりを繰り広げた相手だ。どう思われていても仕方あるまい。呼延灼はそう覚悟していた。だが楊志の讃えるような微笑みに、呼延灼は背筋が伸びる思いだった。

 楊志と話がしたい。そう思った呼延灼は酒瓶を手にし、歩きだした。

 しかし突然、楊志の表情が変わった。

 先ほどの笑顔が、敵を前にしたような、厳しいそれに変わっていた。

 楊志がそのまま歩きだした。そしてひとりの男の前で立ち止まった。

 呉用の前だった。

「貴様、よくも俺の前に顔を出せたものだな」

 楊志の右手が刀の柄に触れていた。

 呉用は動かなかった。いや、動けなかった。下手をすれば即、首と胴が離ればなれになることが分かった。

「後生だ。言い訳くらい聞いてやろう」

「おい、どうしたのだ、楊志。この男が何をしたというのだ」

 異変に気付き、魯智深が駆け寄ってきた。宋江も、武松も、二人を囲むように集まり始めた。

「覚えているぞ。貴様、あの時の賊のひとりだな。まさかこんな所で会えるとは」

「生辰綱を奪ったことを、悪いことだとは思っていません」

 なんだと、と楊志が刀を抜き放った。

 楊志を止めるためにいた魯智深や武松も動く事ができない。

 少し離れた場所で、花栄が弓に手をかけた。だが、この距離で間に合うかどうか。

「待ってくれ」

 ふいに大声がした。一同が声の方向を見た。

「この件は、わしに話させてくれないか」

 宋江の顔が明るくなった。

 梁山泊の頭領、晁蓋がそこにいた。

 四年前、暑い日だった。

 楊志は生辰綱を護送し、東京開封府へと向かっていた。

 だが生辰綱は黄泥岡で、棗売りに扮した賊にまんまと奪われた。あの時のしびれ薬入りの酒の味を、楊志は覚えている。いや忘れることができなかった。

 生辰綱を強奪したのは東渓村の保正である晁蓋とその仲間だった、と後になって知った。

 あの時、生辰綱を無事に運んでいたならば。いまではもう考えなくなっていたが、その当時は何度も考えた。

 ぼんやりとした視界に映る男が、自分に何か話しかけているようだった。その男が、いま目の前にいる。間違いない。この男、晁蓋だ。

 焦るな。

 楊志は目を閉じ、心を落ち着かせようとした。

「晁蓋どの、あなたは梁山泊にいてくださいと言っていたはずですが」

「来てしまったものを、いまさら言うな、呉用。それに」

 晁蓋が楊志に近づいてゆく。楊志は目を開け、刀を少し動かした。

「すまなかった、楊志」

 晁蓋が頭を下げた。

「あの生辰綱は民の血と汗だったのだ。だから大義のため、民の苦しみの上にのうのうと胡坐をかいている奸臣(かんしん)への見せしめのために奪ったのだ」

「大義だと。ならば奪った物はどこへやったのだ」

 二竜山のかつての頭領、宝珠寺の鄧竜はその前年の生辰綱を奪っていた。それは寺の奥に隠され、賊たちが好きなように使っていた。

「生辰綱は手放した。とある者を通じて、様々な形で民の元へ還(かえ)させた。決して、私欲のために使ってはおらぬ」

 太い眉の下にある大きな目が、まっすぐに楊志を捕らえていた。

 楊志の手が動いた。

 刀が晁蓋の首を狙って、振り下ろされた。

「晁蓋どの」

 呉用が叫んだ。

 だが目の前の晁蓋は、まだそこに立っていた。

 楊志の刀は、晁蓋の首すれすれのところで止まっていた。

 呉用の顔から、どっと汗が噴き出した。

 晁蓋の目は揺るぎなく、楊志を見つめていた。

「止めると信じていた。お主が、八つ当たりのように恨みを晴らすような男ではないと信じていた」

「俺を、信じていたというのか」

 それに答えずに、晁蓋はにっこりと笑みを浮かべた。

 楊志は周りを見た。

 武松がいた。張青が、孫二娘がいた。

 施恩や曹正も、みな自分を見ていた。

 そしてそのどれもが、晁蓋と同じ目をしていた。

 晁蓋を斬る気などなかった。晁蓋の度量を見てやろうとした。だが反対に、自分自身が測られていたのだ。

 楊志は、自分がとても小さく思えた。

「これで貸し借り無しという事にしてはくれぬか、楊志よ」

 断るなどと言えるいえるはずもない。

 黙っている楊志に晁蓋は続ける。

「お主たちの力を借りたい。いや、ぜひとも二竜山、桃花山、白虎山の力を合わせ、共に大きなお宝を奪おうではないか」

「お宝、とは」

「この国だ」

 楊志の頭の中は真っ白になり、晁蓋を見つめることしかできなかった。

 晁蓋は悪戯をする前の少年のような笑顔だった。

 

「久しぶりだな、青面獣。青州での勇猛ぶりは、聞き及んでいたぞ」

「お主こそ、豹子頭。梁山泊になくてはならない将だと聞いているぞ」

 林冲と楊志、二頭の獣が再会を祝し、杯を交わした。

 二竜山、桃花山そして白虎山の一同は梁山泊へと合流する運びとなった。

 孔兄弟は宋江の弟子であり、武松は義弟であった。

 楊志が決意したのは晁蓋の言葉と、そして宋江の言葉が大きく影響したようだ。

 国を獲る。晁蓋はそう言った。

 だが宋江は、国を救うと言った。

 山賊に堕ちた身として、楊志は忠国の英雄である先祖に対しての負い目がどこかにあったのだろう。そして逡巡する楊志の背中を押したのは、やはり魯智深だった。

「面白いことを言う男がいたものだ。なるほど国を、民を救うのが僧たる者の本分だったわい。お主も手伝ってくれ、楊志」

 救われていた。この豪快さ、明快さにいつも楊志は救われていたのだ。

 その魯智深が、まだ梁山泊に来ていなかった。

 もちろん、林冲に会えるのを楽しみにしていたのだが、ぜひとも連れて来たい男がいる、と言って、別の場所へ行ってしまったのだ。

 その男の名は史進。

 華州の少華山の頭領である九紋竜の史進である。

 わしも行こう、と李忠が言ったが、魯智深はそれを断った。

「桃花山の連中も梁山泊へ行くのだ。奴らも慣れない土地で不安だろうて。周通がいるとはいえ、支えはやはりお前なのだよ。なあに、大丈夫だ。戻ったら一緒に飲もうではないか」

 がはは、と大笑し魯智深は出立した。

 だがさすがに一人ではと、楊志は武松もついて行かせる事にした。

「なんだ、ずいぶんせっかちな野郎がいたもんだなあ。ねえ、戴宗の兄貴」

「おい、李逵。お前が言える事じゃないぞ」

 一同が笑い、李逵がぷりぷりと怒っていた。

 微笑む呼延灼の側に三人が歩いてきた。

 韓滔、彭玘、凌振であった。

「呼延灼どの」

 それ以上、何といって良いか分からないという顔の韓滔。

 呼延灼は黙って、杯を差し出した。

 三人も黙って受け取る。

 言いたい事は山ほどあるだろう。

 わしも同じだ。

 だが、いまはまず飲もうではないか。

 四人の、杯が満たされた。

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