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遺恨

 縄はすぐに解かれた。空が明るくなり始めていた。

 訝しむ呼延灼の前で、色黒な小男が深々と頭を下げていた。呼延灼が追っていた相手、梁山泊軍を率いる宋江であった。

 梁山泊の陣中、見えるのは宋江と何人かの兵だけである。

 だが呼延灼は逃げようとはしなかった。見えないが、宋江を守るように幾つものただならぬ気を感じていたからだ。

「呼延灼どの、失礼な真似をして大変失礼いたしました」

「そのような言葉はいらぬ。わしは捕らわれた身、とっとと殺すが良い」

「ふふ、やはりあなたも同じ事を申すのですね。だがそれでこそ、呼延灼どのです」

「なにが可笑しい。わしを愚弄する気か」

「これは申し訳ありませんでした」

 宋江は真面目な顔になって、兵に何か命じた。兵が一人、現れた。梁山泊兵の姿をした韓滔がそこにいた。

 呼延灼は立ち上がっていた。やはり、あの時見たのは韓滔だったのだ。

 韓滔はしばらく言い淀んでから、やっと言葉を発した。

「間違ったことをしたとは、思っていません」

「わしは何も言わん。お前が決めた事だ」

「彭玘も、凌振も生きております。梁山泊に帰順したのは、俺だけです」

 呼延灼は目を瞑り、やや置いてから、そうかとだけ言った。

 韓滔が下がっていった。

「韓滔の姿を見せて、わしも帰順させようというつもりか。そうならばくだらん策だ。わしはそのつもりは無い。はやく殺すが良い」

「どうして、韓滔が帰順をしたと思いますか」

「さあな。さっきも言ったが、あいつの決めた事だ。わしに言う事はない」

「そうでしょうか」

 呼延灼は何も言わず、宋江を見つめる。

 自分よりもはるかに小さく、およそ武芸の心得などないであろう目の前の男に圧(お)されているのか。呼延灼は奥歯を噛んだ。

「韓滔も捕らわれた時、あなたと同じ事を言いました。とっとと殺せと。彭玘も、凌振もです。その韓滔が梁山泊に帰順すると決めました。それは、あなたに会うためなのです、呼延灼どの」

 梁山泊の捕虜は命を奪われず、役務を課されるという。ただ、兵役は課されない。兵となるには、梁山泊の兵となるしかないのだという。

 呼延灼に、生きていると伝えるためだった。たとえ敵の姿になっても、呼延灼のせいで命を落としたのではない、という事を伝えたかったのだろう。

「くだらん。いかにも韓滔が考えそうな事だ」

 そう言いながらも、呼延灼は嬉しそうな表情だった。

「力を貸していただきたいのです、呼延灼どの」

 突然の宋江の言葉に、呼延灼が顔を上げた。

 宋江は続ける。韓滔や彭玘にも話した事を、国を救うために力を貸してほしいという事を滔々と語った。

 呼延灼は大笑した。馬鹿な事を考える男だ。

 及時雨という名を知らぬ者はないというが、実際はこのような戯言を抜かす男だったとは。

 だが宋江はじっと呼延灼を見つめ、続けた。

「あなたはあえて開封府に留まらず、汝寧の地に赴いた」

「それが何だというのだ」

「あなたならば中央軍や禁軍でも充分に活躍できる実力をお持ちだ。だが、それをしなかった。なぜなら、中央には高俅や童貫といった連中がいるからです。彼らは実力のある者を決して認めないでしょう。自分の上に立たれては困るのですから。違いますか」

 呼延灼は黙っている。宋江を言下に否定できなかった。

 呼延灼は一人の男を思い浮かべた。

 その男も、童貫などに匹敵する実力を持ちながら、長いものに巻かれることを嫌い、浦東県の巡検に収まっているという。

「林冲、秦明、花栄しかり、あなたのような将軍が埋もれてしまうこの国のありようを、正したいのです」

 呼延灼は驚いた。宋江が泣いていた。

 敵であるはずの自分のために、涙を流すというのか。

 宋江の目が真っ直ぐに呼延灼を見つめている。決して偽りではない事がわかった。

 呼延灼の身体の内が、なにか熱くなってきた。

「本当か。その言葉、偽りではないな」

 言葉が口をついて出た。

 宋江というこの男に、どこか期待し始めている自分がいた。

 国のありようを正す、など途方もない絵空事だ。

 だがこの男ならば、と思わせる何かを感じるのだ。

「はい。この宋江、命を懸けて」

 宋江の背後から日が昇ってきた。

 宋江は嬉しそうな微笑みを、呼延灼に見せた。

 呼延灼は、眩しさに目を細めた。

 青州の城門に、兵の持つ松明がいくつか見えていた。

 ふいに松明の動きが慌ただしくなった。

 門の前に十人ほどがいて、何か叫んでいるようだ。やがて城門が開かれ、その者たちが城内へと入って行った。

 それは呼延灼(こえんしゃく)だった。

 呼延灼が十人ほどの兵を伴い、青州城へ帰還した。

「まずは、上手くいきましたね」

 その様子を見ていた呉用がぼそりと言った。横にいた宋江は、ただ闇の中の青州城を見つめていた。

 呉用は思う。

 宋江は、鄆城にいた頃から及時雨と呼ばれ、尊敬されていた。晁蓋と比べると温和で世話好きな性格で、人々はその徳にこそ惹かれているところがあった。

 だが呉用は、梁山泊に来てからの宋江を見ていると、かつてよりも力強さを感じるのが分かった。胸の中にある芯のようなものを、はっきりと感じるのだ。

 江州へ行ってからだ、と呉用は考えていた。

 江州から共に梁山泊入りした李俊や穆弘、張順や李逵などと、旅の中で宋江は親しくなっていた。

 どの顔もひと筋縄ではいかない連中ばかりだ。特に李俊などは、群れるのをあまり好まない無頼の男であった。そんな連中の心を掴んだ宋江に、呉用は正直驚いてもいた。

 そして今回の呼延灼だ。

 先に捕らえた韓滔がいた、という事も大きかったのだろう。それにしても、あの呼延灼を説得せしめるとは。

 呉用は宋江を横目で見ながら、羽扇をくゆらせた。

 すぐに城内から火の手が上がった。門が開かれ、橋が下ろされた。

 宋江が号令し、梁山泊軍が一斉に城内へとなだれ込んだ。

 呼延灼が帰還したと聞いて喜んでいた慕容彦達の顔色が、すぐに青白く変わった。

 慕容彦達の目の前に、秦明が仁王立ちしていた。

 呼延灼は梁山泊に捕らえられたという報告があった。だが呼延灼は、潜んでいた味方に助けだされた、と十名ほどを連れて戻ってきた。その十名というのは梁山泊の頭領たちだったのだ。

「し、秦明。そうだ、許してやろう。謀反の罪を許すから、いまからでも青州軍に戻って、国に尽くすが良い。私がとりなしてやる。どうだ、悪くないだろう」

 うろたえながらも、そう提案する慕容彦達を見て、秦明は何も言えなかった。ただ、悲しい目をしているだけだった。

 こんな男に、妻の命が奪われたのか。

 許してくれ。

 秦明の腕が少しだけ動いた。

 慕容彦達は、唸りを上げた狼の牙に引き裂かれた。

 秦明は肩から力を抜き、天井を見上げた。

 復讐は遂げた。

 思ったよりも呆気ないものだ、と秦明は思った。

 知らぬ間に、ひと筋の涙が頬を伝っていた。

 

 解珍と解宝がつけた火が、夜の城内を明々と照らし出していた。

 王英と欧鵬は、城壁の上の兵士を蹴散らしている。花栄がそれを援護していた。

 青州兵たちは花栄の腕を、嫌というほど知っていた。花栄がいると知るや、大方の兵たちは逃げだしてしまうようであった。

「それでいい」

 矢を放つ相手が逃げてしまったのを見て、花栄は満足そうにつぶやいた。

 人々が悲鳴を上げ、逃げ惑う間を梁山泊軍が駆け抜けてゆく。

 刃を交えるのは兵にのみ、ときつく命令されていた。青州の民は決して傷つけられることはなかった。

 場内で呂方、郭盛と合流した宋江は、一路牢城を目指して駆けた。

「あそこだ」

 宋江が叫び、呂方が牢を叩き壊す。すでに牢番は逃げた後のようだった。

「大丈夫か、孔明。助けに来たぞ」

「お師匠さま、どうしてここに」

 衰弱しているようだったが、孔明は無事だった。

「孔亮が梁山泊に来たのだ。お前の弟は、ほかに二竜山、桃花山も動かしたのだ。私は出来すぎた弟子を持って幸せだ」

「そうですか、亮が」

 孔明の目に涙が溢れ、言葉を詰まらせた。

 すぐに孔明の案内で、叔父の孔賓とその家族も救いだした。

「終わりましたぜ、宋江どの」

 慕容彦達の一族を打ち果たした燕順が合流した。秦明もその後ろにいる。

「よし、陣へ戻ろう。花栄や王英たちにも伝えてくれ」

 命令を受けた兵が城壁の方へと駆けてゆく。火を鎮火させた解兄弟も合流していた。徐々に夜の暗さが戻ってきた。

 殿(しんがり)を務めていた呼延灼が吊り橋を渡り終え、青州城を振りかえった。

「呼延灼どの」

 城門に青州軍副将がいた。他の兵は連れていない。独りでそこに立っていた。

「すまぬ。わしは死んだ。そう思ってくれないか」

「梁山泊軍を城内へと導いた時、私は呼延灼どのを恨みました。しかし梁山泊は民を殺めることなく、去って行きました」

 呼延灼は動かない。

「慕容彦達どのは、私が言う事ではないかもしれませんが、自業自得です。民の土地を奪おうとし、あまつさえ何の罪もない者を牢に閉じ込めました。知府にあるまじき行いの報いです」

 副将は、青州の誰もが胸に秘め、だが口にできない思いをはっきりと告げた。

 花栄や秦明がいなくなり青州軍は弱体化したと聞かされていた。だがそうではない。しっかりと彼らの意志を継ぐ者はいたのだ。

 呼延灼の目が優しく、副将を見つめていた。

 呼延灼はしばらくそこにとどまった後、やはり沈黙のまま馬首を返した。山賊の身となった己に、何を言うことができよう。

 呼延灼どの、と副将の声が聞こえた。

 呼延灼は振り向かない。

「この呂元吉(りょげんきつ)、また呼延灼どのと共に戦える時が来ると、信じております」

 呼延灼は、それに応えるかのように軽く右手を上げると、馬服を蹴った。

 呂元吉は見送っていたが、呼延灼の姿はすぐに闇へと消えた。そして、ふうと息を吐くと、城内へと戻って行った。

「さて、後始末をしなければならないな」

 さして大変な風でもなく、呂元吉はそう呟いた。

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