108 outlaws
遺恨
二
孔亮が馬で、飛ぶように駆けていた。
孔亮は二竜山で休むように言われたが、白虎山へ戻るという名目ですぐに山を下りた。
だが孔亮は白虎山には戻らず、長王三らに早馬を手配させた。
呼延灼と実際に戦い、孔亮は思った。二竜山に助けを求めたものの、桃花山の力を加えたとしても、勝てぬかもしれないと。
楊志や李忠への信頼に対する裏切りのような、後ろめたい気持ちはあった。だが、それでも孔亮は駆けた。何よりも捕らわれた兄、孔明を救い出したかった。
ふと孔亮の脳裏に師である宋江の顔と共に、梁山泊という言葉が浮かんだ。そしてそのまま梁山泊まで一散に駆けたのだ。
梁山泊の威容に目を見張ったが、のんびりしている暇はなかった。
夜通しの強行軍であった。傷も浅くはなかった。蒼白な顔で、孔亮は一軒の酒店に、倒れこむように入った。
「おい、まだやってないんだ。また後で来てくれ」
店の奥から出てきた男が、無愛想に言った。南山酒店を任されている李立だ。
だが孔亮にはそんな時間はなかった。ふらつきながらも李立に詰め寄り、宋江に会わせてくれと言った。
「宋江どのだと」
「ここに、梁山泊にいるんだろ。頼む、俺の兄者が。頼む」
「おい、待て。離せったら」
梁山泊への入山希望者は後を絶たない。だがそれが玉石混淆で、その中から玉を選別するのも李立たち酒店の頭目の仕事だった。
この男のように宋江や晁蓋の知り合いを名乗る者は、それこそ数知れずいた。
しかし、この男は違うようだと、李立は感じた。
男は、孔亮はふいに李立にもたれかかるようにして、倒れた。
死んだのか。いや、脈はあるし、弱いが息はしているようだ。
「手間かけさせやがって」
慣れた手つきで孔亮の足を持ち、引きずりながら奥へと運んだ。
そこへ水汲みから、鄭天寿が帰ってきた。
「何事だい、李立」
李立は無言で顎をしゃくってみせた。卓の上に男が寝ていた。
「心配するな。そうじゃねぇよ」
鄭天寿が何か言う前に、李立が先に言ってにやりと笑った。
梁山泊に来る前、李立は掲陽嶺で店を構えていた。気に入らない客に薬を盛っては、その命を奪っていた。崔命判官、李立はそう呼ばれていたのだ。
「しかしどうするのだ、この男を」
「どうするもこうするも、目を覚まさなきゃ何も」
おい、と李立が鄭天寿を呼んだ。李立が埃と血で汚れた紙を持っていた。男の懐を探ると出てきたらしい。
それは手紙のようだったが年数が経っており、書かれた文字もかすれたり滲んだりして読みにくいものだった。
鄭天寿が驚きの声を上げた。何とか読んでみるとそこに、宋江という言葉があったのだ。
そして青州という文字。
読み進めるうちに鄭天寿は思い当たった。
鄭天寿や燕順、王英たちのいた清風山からやや離れた土地に白虎山があり、その麓に孔太公が治める孔家村という集落があった。
孔家村の孔兄弟と宋江は師弟の関係にあると聞いていた。
この男がそうなのか。一体、青州で何があったのか。
鄭天寿に促され、李立は湖に向けて鏑矢を放った。
ほどなくして迎えの舟が、音もなく現れた。
「宋江どの、本当にこいつを知っているんですかい」
梁山泊聚義庁、宋江の部屋であった。
店から運んできた男を見て、李立がそう訊ねた。
「ああ、知っているとも。間諜の心配はしなくて良い。確かにこの孔亮は私の弟子だ」
「なら良いんですが」
李立はそう言いながら、横目で孔亮と呼ばれた男を睨むように見ていた。孔亮は玉のような汗を浮かべ、うなされていた。
宋江の手には、手紙が握られていた。それは確かに、宋江が孔明と孔亮に宛てて出したものだった。
孔兄弟が押し掛けるように鄆城に来て、宋江を師匠と仰いだ。そしてしばらく滞在した後に、青州の孔家村へと帰っていった。そのしばらく後に、彼らに宛てた手紙だった。そんな昔のものを肌身離さず持っていたというのか。
いつでも訪ねてきなさい。
などと、いま思い出してもよくそんな事を書いたものだと、顔が熱くなる。
宋江の目が優しく孔亮を見つめていた。
「李立、鄭天寿、すぐに皆を集めてくれ」
「分かりました」
二人が出て行った後も、宋江は孔亮を見つめていた。
そしてゆっくりと寝台に背を向け、部屋を出た。
「この私のことを師と呼んでくれた。師ならば、弟子の仇は討たねばならんな」
うなされていた孔亮の呼吸が、、少しだけ落ち着いたように見えた。
久しぶりの、徒歩(かち)での行軍だった。
馬にばかり乗って、足腰が衰えたのか。生きて戻ったならば、鍛練をし直すか。
歩兵の装備をした韓滔が、あえぎながらも何とか行軍について行く。
「途中で休憩は取る。だが、それまでは必死で駆けるのだ。一刻も早く、青州に着かねばならん。頼んだぞ、お前たち」
先頭を行く燕順が馬上でそう檄を飛ばした。韓滔は、燕順の視線を感じた気がした。
これしきで、音を上げてたまるか。
周りの歩兵たちは、何事もないように駆けている。これが梁山泊の兵なのか。
ぎりりと韓滔は奥歯を噛みしめ、踏み込む足に力を込めた。
梁山泊が青州に軍を送ると聞いた。理由は詳しくは知らないが、呼延灼が関わっていると聞き、韓滔は決めた。
梁山泊に帰順し、兵としてこの軍に参加する。
捕囚の身では、兵役は課されない。
だから決めた。後の事がどうなるかは分からない。彭玘にも言われたし、自分でも短絡的な考えだと思った。だがどうしても、呼延灼に会いたかった。
呼延灼が生きていた。
だから会って自分が、そして彭玘も凌振も生きていると伝えたかったのだ。
梁山泊は宋江を大将として、約二十人の頭領。そして騎兵歩兵あわせて三千の軍勢を一路青州へと出陣させた。
韓滔はその前軍、燕順の隊に配されたのだ。
青州の手前で短い休息をとり、再び軍は進んだ。そして青州に着くなり、戦闘に入った。
青州の大将は、やはり呼延灼だった。
呼延灼は二竜山、桃花山といった青州の山賊に包囲されながらも、果敢に戦っていた。
思わず身を乗り出した韓滔だったが、この距離からでは声が届くはずもない。
許せ。そう思いながら、青州兵たちを倒してゆく。
二竜山軍が下がる気配を見せた時、ふいに呼延灼の隊が駆けだした。山賊のひとりに狙いをつけているようだ。
だが、そこに秦明の隊が突撃して行った。狼牙棒が唸りを上げ、呼延灼との一騎打ちとなった。
互角の勝負だった。韓滔は戦の最中という事も忘れ、二人の戦いに魅入ってしまった。
その時、呼延灼と目が合った気がした。
いや、間違いない。呼延灼は、自分を見た。
ほんの一瞬だけ、呼延灼の手が止まった。
ここに自分がいる事、生きている事が伝わった。
だが韓滔は同時に後悔をした。その一瞬の隙で、呼延灼は劣勢に立たされたのだから。
青州城から、退却の鉦が鳴らされた。
呼延灼が去ってゆく。それを韓滔は、ただ茫然と見ているだけだった。
鉦の音が、どこか遠くで聞こえているような気がした。
慕容彦達が、顔を紅潮させていた。
秦明と四十合ほど戦った時である。慕容彦達が鉦を鳴らさせたのだ。
「何という事だ。奴は、秦明だ。青州の元統制で、山賊の仲間入りをした男だ。私の命を狙いに来たに違いあるまい。呼延灼、お主は一度、梁山泊に敗れているのだ。呼延灼、どうも圧されておったではないか。鉦を鳴らせさせたのは、お主にもしもの事があっては困るからだ。お前が敗れたらどうするというのだ。側で私を守るのだ」
梁山泊に敗れた。そう言われると、呼延灼に反論の余地はなかった。慕容彦達が心配する気持ちも、分かる。
慕容彦達は、ぶつぶつと呟いている。
「梁山泊まで出てくるとは、一体どういう事だ。二竜山勢が奴らと手を組んだというのか。いや。まさか」
慕容彦達が呼延灼の顔を伺い見た。
呼延灼は梁山泊から青州へ向かう途中で、桃花山の連中に馬を奪われたと言っていた。
その後、この襲撃だ。
まさか、呼延灼が奴らの手引きを。
「お待ちください、知府さま。恐れながら申し上げます。呼延灼どのは、決して知府さまがお考えのような事をするお方ではありません。どうか冷静になってください。こうなってしまったからには、他州に援軍の要請を求めるのが良いかと」
副将だった。それを慕容彦達がぎろりと睨んだ。
「お前ごときに、私の考えが分かるというのか。ふん、まあ良い。お前の言う事も正しいな。よし、明日の朝に使者を三方へ送ろう。呼延灼、使者を無事に送り出せ。任せたぞ」
「ははっ」
慕容彦達は呼延灼を一瞥すると、寝所の方へと向かった。
「また助けられました。本当にかたじけない」
「おやめください、将軍。しかしあの秦明どのと互角に渡り合うなど、思わず感嘆の声を上げてしまいました」
副将はそう言って、下がろうとした。
孤立無援の青州で、この将には本当に何度も救われた。その背に、呼延灼は拱手をして見送った。
明日で戦も四日目だ。
兵たちも疲れてきているが、いまが正念場だ。相手の方がそろそろ疲弊するころだろう。
実際に、梁山泊軍が来なければ、と呼延灼は思ったが、首を横に振った。戦にもしもは無いのだ。連環馬(れんかんば)での敗北を思い返し、呼延灼は苦い顔になった。
しかしあの時、確かにいた。秦明の向こう側に、韓滔の姿を確かに見た。見間違えかと思った。梁山泊軍の姿をしていたが、あれは確かに韓滔だった。そしてこちらを、何かを訴えるような目で見ていたのだ。
生きていてくれたか。梁山泊軍にいた理由は何なのか。強制されたのか、それとも。
呼延灼は考えを巡らせる内に、いつの間にか眠ってしまっていた。
戸を叩く音で目が覚めた。まだ外は暗いようだ。
「何事だ」
「呼延灼将軍、失礼いたしました。見張りの者が、報告したいと」
うむ、と兵を中へと通す。
兵の報告を聞き、呼延灼が立ちあがった。報告の兵がびくりと肩をすくめた。
「本当か、間違いないのだな」
「は、はい。以前、清風山との戦いで目にした兵がおりますので、間違いありません」
「よし、馬を出してくれ」
百ほど兵を伴(ともな)い、呼延灼は静かに青州を出た。
空がほのかに明るくなる頃だった。
梁山泊の大将、宋江らが近くを偵察に訪れているという。
大将自らとは見上げた度胸だ。だがそれが仇となったな。
すぐにそれらしき影を見つけた。丘の上に三騎が佇んでいる。中央の白馬が宋江に間違いないという。一人は軍師のようで、もう一人は軍人だ。どうやら元青州軍の花栄のようだ。
花栄の矢は百発百中だと聞いている。
呼延灼の隊は隠れるように宋江らに近づいて行く。幸いにも気付かれてはいないようだ。
充分な距離まで来たところで、呼延灼の鞭が上がった。青州兵たちが喚声を上げ、一気に押し包もうとする。
宋江ら三騎は馬首を返し、駆けだした。だが逃げられる距離ではない。
「追え、追うのだ」
呼延灼が先頭となり、宋江を追った。
花栄が乗馬のまま半身(はんみ)を捻り、矢をつがえた。呼延灼が構える暇もなく、矢が飛んだ。それは正確に呼延灼の額を目がけていた。
呼延灼は辛うじて、その矢をかわした。どっと汗が噴き出した。
二の矢、三の矢が次々と青州兵を射抜いて行く。馬に乗りながら不安定な体勢であるのに、それを意に介さぬ弓の腕前。これが神箭将軍(しょうぐん)か。
だが、独りで食い止める訳には行くまい。
呼延灼は馬腹を蹴り、速度を上げた。
宋江が、呼延灼を窺うように振り返った。
その時、呼延灼の背筋がぞくりとした。
次の瞬間、馬が地面を踏み抜いていた。
呼延灼は、夜の帳が下りたような闇に包まれた。