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禍福

 事の発端は蔡京(さいけい)だという。

 風流天子とも呼ばれる徽宗帝は国を治める事ではなく、書画や骨董収集などにその手腕を発揮した。

 蔡京がある日、奇石を献上した。もちろん帝の機嫌を取り、へつらうためである。この奇石が徽宗の心にはまった。以来、帝は造園に使用する奇石や珍花、名木などを集めるようになり、官僚たちはこぞってそれらを求め始めた。

 見つけられた花木奇石は都に運ばれる事になる。そのための船団が淮河(わいが)や汴江(べんこう)に縷々と連なった。これを花石綱(かせきこう)と呼んだ。

 この花石綱の調達方法は、民意をまったく無視したものであり大いに不満を買った。

 陸路で運ぶ際に輸送の邪魔になる民家があればそれを取り壊し、また巨岩などが多いため運河を使用するのだが、生活物資などよりも花石綱を優先とした。またその対象物を損傷させないための梱包など多大な労力と時間がかかった。そしてそれは庶民の負担でもあったのだ。

 この花石綱、主に江南地方を中心に行われた。

 蔡京に代わって主宰したのが宦官の朱勔(しゅべん)という男だった。朱勔の花石綱は横暴を極め、今まさに江南地方では民衆蜂起の萌芽が確実に育っていたのである。

 

 当時、楊志は花石綱の任務についていた。だが黄河にさしかかった所で、風にあおられ船は転覆。巨岩は川の底へと沈んだ。

 共に任務についていた他の者たちは都へ無事到着し、任務の失敗の責任をとり罰を受けた。だが失敗した楊志は処罰を怖れ逃亡し、雲隠れしてしまったのだ。

「今さらのこのこやって来て、職務に戻らせてくれとは、虫が良すぎるのではないのか。たとえ恩赦が出たからとはいえ、お前に任せる役など無いわ」

 高俅は立ち尽くす楊志に吼えた。

「しかし、大尉どの」

「まだいたのか。とっとと出てゆくのだな」

 高俅は一切聞く耳を持たず、楊志は仕方なく外へ出た。

 正論だ。悔しいが、高俅の言っている事は間違ってはいない。あの時、素直に戻って謝罪していれば、とも思うがすでに過去の話だ。

 ついていない。

 腰に手を当てる楊志。

 そこには肌身離さず持っている家宝の刀があった。

「先祖伝来の刀だが、背に腹は変えられぬ、か」

 楊志は刀に売り札をつけ、道端で買い手を待ったが一向に現われない。

 王倫の言った通りになってしまうとは。これならば梁山泊に残って、と途中まで考え、首を振る。

いや、自分は辺境で遼(りょう)国と戦った英雄楊業(ようぎょう)の子孫だ。山賊などに落ちぶれてたまるものか、と待ち続けた。

 しかしいくら待てども買い手がない。これほど往来が多いのに何故だ。場所を変えようか、と立ち上がった時だ。

「虎だ、虎が来るぞ」

 と、通りの向こうから叫び声が上がり、それを聞いた人々は一斉に逃げだした。

 この街中に虎だと。

 いぶかしんでいた楊志が見たのは実に奇怪な虎だった。

 

 没毛大虫(ぼつもうたいちゅう)の牛二(ぎゅうじ)。それが虎の名前だった。

 楊志は一瞬、鬼かと思った。しかし虎ではなく鬼でもなく、それは人だった。

 醜悪な面相に、隙間だらけの歯。髪がまばらに残っている頭もなにやら歪(いびつ)な形をしている。肩や背に瘤が盛り上がり、はだけた胸には黒々とした胸毛が渦を巻いていた。

 この牛二、開封府でも有名なごろつきで、する事と言えば乱暴と喧嘩。役人も手を焼くほどの男で、人々は牛二を見ただけで逃げるようになってしまっていた。

 牛二は手に瓢箪を持ち、通りの真ん中を吼えながら歩いて来た。いつの間にか周りには誰もおらず、そこには楊志だけが残されていた。

 牛二が近づいて来た。この男、酔っているな。

 酒臭い息が楊志の顔にかかる。

「おいお前、そこで何を売っているのだ」

 面倒くさいのに絡まれてしまった。適当に対応して立ち去ろう。

「これは家宝の刀だ。お前には売らんよ。では」

 去ろうとする楊志の着物を引っ張る牛二。思ったより強い力だ。

「いや、俺が買ってやる。いくらだ」

「三千貫だ」

 露骨に嫌そうな顔をする楊志。だが牛二はお構いなしだ。

「何だと、そんな刀が三千貫だと。こないだ三十文で買った刀でさえ、肉でも魚でも切れるんだぞ。その刀にそんな値打ちがある訳ねぇだろうが」

 楊志の目の色が変わった。

 これは先祖から伝わっている宝刀だ。馬鹿にする者は誰であろうと赦されぬ。例え取るに足らないごろつきでも、だ。

 楊志は、自分がそれを売ろうとしていたことなど棚に上げ、牛二に向き直った。

「こいつをそこらの鈍刀(なまくらがたな)と一緒にするんじゃない」

 楊志は説明を始めた。

 第一に、銅や鉄を斬っても刃こぼれがしない。

 第二に、吹きつけるだけで毛も斬れるほど鋭い。

 第三に、人を斬っても血がこびりつかない。

 そう言って誇らしげに刀を見つめる。

「そんな刀がある訳ねぇ。証拠を見せろ」

 怒鳴る牛二に、不敵に微笑む楊志。

 はじめは牛二を怖れ、避難していた人たちが二人のやり取りを見て集まりだした。

 牛二が持っていた銅銭を十枚ほど橋の欄干に重ねて置き、楊志が狙いを定める。

 気合一閃、銅銭は綺麗に真っ二つとなった。もちろん刃こぼれは無い。

 これに見物人は喝采を送る。さらに物見の客が集まりだす。

 次に楊志は刃を立てて、牛二に促す。

 牛二は自分の残り少ない頭髪を引っこ抜くと、刃に向かって吹きつけた。毛は刃に当たると二つになり、はらはらと地面に落ちていった。

 喝采が大きくなる。牛二はいよいよ面白くないが、この刀がどうしても欲しくなってしまった。

「やい、三つ目は何と言った」

「最後は、人を斬っても」

 楊志はそう言いさし、慌てて言い直す。

「おいおい人を斬れる訳がないだろうが。どこかから犬でも連れて来い。それで証明してやる」

「なんだとぉ、人を斬っても、と言ったじゃねぇか。犬じゃねぇだろぉ。できないなら俺に刀をよこしやがれ」

 難癖をつけやがって、このごろつきめ。

「聞き分けのない事を言うな。どうして俺に絡むんだ。あまりしつこいと、俺も黙ってはおらんぞ。もういいだろう、あっちへ行ってくれ」

「なんだと、こいつ。俺を殺そうってのか。いいぜ、そいつでばっさり斬ってみろよ」

 楊志はうんざりした。もう道理も理屈も通じない。

「おら、どうした。さっさと刀をよこせ」

 牛二が岩のような拳を振り上げ襲ってきた。それをかわす楊志。

 今度は両手を広げ突進してくる。再びかわそうとしたが砂利に足を滑らせてしまった。

 牛二は身体ごと楊志にぶつかり、二人はもつれあって倒れた。

 素早く起きた楊志だったが、手にしていた刀がないのに気付いた。

 観衆がざわめいている。

 楊志は見た。うつ伏せで倒れている牛二の首の後ろから、刀が顔を出していた。

 牛二は口から大量に血を流したまま絶命していた。自分に何が起きたのか、知る由もなかったろう。

 何という事だ。

 つくづく、ついていない。

 牛二の首から抜いた刃には、血の一滴もこびりついてはいなかった。

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