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禍福

 死罪は免れた。情状酌量の余地を認め、北京大名府(ほくけいたいめいふ)への流罪と決まった。

 被害者が厄介者の牛二である事と、あくまで事故で偶然に刺し殺してしまった、という多数の証言者がいたためでもある。家宝の刀は証拠品として没収されてしまった。

 だが牛二には悪いが、彼を取り除いた楊志が罪人の身ながら、英雄扱いされたのは皮肉なのものであった。

 刑が執行されるまで、獄中の楊志へ差し入れする者や、獄卒や府尹に賂(まいない)を出して刑を軽くするよう取り計らう者までいたという。

 高俅もこの話を聞きつけ、早速楊志を迎え入れようとした。心の広い事を知らしめようとしたのだが、開封府尹が却下した。あくまでも刑を受けさせなければならない、というのだ。

 大方、孫仏子(そんぶつし)とやらの提案だろうが、気に食わん。いつか痛い目に合わせてやろう。高俅はそう考えるが、ここは楊志への寛容な態度を示しただけで十分良しとした。

 護送の任に就いた張竜(ちょうりゅう)と趙虎(ちょうこ)は、仲間の董超と薛覇から散々に脅されていたため不安で仕方なかった。だが反して北京までの道中は平和そのものだった。

 道々で、楊志の噂を聞きつけた人々が彼らに酒食を提供してくれたり、心付けをくれたりしたのだ。

 護送の任を終え、東京へ戻った彼らの話を聞いた董超と薛覇は悔しがるばかりであったという。

 

 北京大名府の留守司は梁世傑(りょうせいけつ)といった。梁中書(りょうちゅうしょ)とも呼ばれる彼は、有事には軍を統帥し、また平時は民事行政にあたる非常に大きな権力を有していた。

 また彼は、宰相である蔡京の婿でもあり、その権勢を確固たるものとしていた。楊志は彼の元へと送られたのだ。

 梁世傑は自ら軍を指揮する立場もあって優れた武人、軍人には目がなかった。楊志の話を聞くとすぐに目を輝かせ、自分の膝元で召し使う事とした。

 楊志も反省し、朝な夕な真面目に勤めていた。それを見て、一層彼を取り立ててやりたくなってしまった。だが罪人の身の楊志を簡単に取り立てては、周りが黙ってはいないだろう。誰にも文句を言わせない名目が必要だ。そこで一計を案じる事にした。

 二月、とある小春日和の朝にそれは行われた。

 東郭門の練兵場での武芸の調練であった。

 梁世傑が楊志をつき従え練兵場へと入る。兵たちはすでに二列で待機していた。鎧甲(よろいかぶと)を身に纏い、身に帯びた傷の数々は歴戦を物語るに相応しいものばかりだ。

 彼らの先頭で指揮台に控えているのが天王(てんおう)の李成(りせい)と大刀(だいとう)の聞達(ぶんたつ)だ。いずれも万夫不当、一騎当千の猛将で、その活躍ぶりは楊志の耳にも伝わっている。楊志は思わず胸の高鳴りを覚えた。

 梁世傑が手を上げ、鳴り響いていた楽(がく)の音(ね)が止まる。李成、聞達が鬨(とき)の声を上げ、梁世傑が命令を下した。

「このよき日に、調練を取り行う事ができて誠に幸いだ。まずは副牌(ふくはい)軍の周謹(しゅうきん)、前へ出てその武を見せてみよ」

 はっ、と応えた周謹が進みでる。練兵場に響き渡る大声はその胆力のほどを伺わせた。

 指名された周謹は副牌軍つまり副将軍である。ここは梁世傑の目に留まる好機とばかり、馬を右へ左へと馳せ巡らせ、槍の妙技を披露する。演武を終えた周謹に大きな喝采が贈られる。

「次に東京からの流人(るにん)楊志よ、前へ出よ」

 俺が、と慌てて梁世傑を見る楊志。彼は目で、行けと言っている。

 楊志だと、誰だそいつは、流罪人だと。ざわつく場内に楊志が現われた。

 鎧甲を纏った堂々としたその姿に、場内が一瞬にして水を打ったように静まりかえった。

 梁世傑だけが満足そうな笑みを浮かべていた。

 

 楊志と試合をして、そして勝った方に副牌軍の職を与えるというのだ。周謹は考える。何故だか知らんが、この楊志と言う男を登用したいらしい。この試合はその名目にすぎないのだろう。どこの馬の骨か知らないが、職を奪われる訳にはいかぬ。なに、かえって痛い目を見せてくれるわ。

 一方の楊志も、ここが正念場だと気合を入れる。勝負方法は槍と弓に決まった。

 聞達の提言で槍の穂先が外された。代わりに羅沙(らしゃ)布を巻き付け、それに石灰をつけた。これで相手の体に当たれば石灰の跡が残ることになり、その結果は一目瞭然だ。

 調練で大怪我を負い、不具になっては本末転倒だ。聞達の好判断と言えよう。

「俺は全然かまわんのだがな」

 と挑発する周謹に微笑みを返す楊志。

 喧騒に包まれたまま試合は始まった。

 馬上で向き合う二人。槍に絶対の自信を持つ周謹が先に駆けた。楊志も馬を駆けさせる。雄叫びを上げ、周謹が突進する。楊志も槍を構え突っ込んでゆく。馳せ違う二つの騎馬。観衆は目を見張り、石灰の跡を見る。まだどちらにも付いていない。

 両者とも馬首を返し、再び駆ける。今度はすれ違わず接近戦となった。

 必殺の技を繰り出す周謹。無数の槍先が楊志を襲う。しかし楊志は乱すことなくその全てを弾き返す。

 楊志はお返しとばかりに突きを無数に放つ。周謹もそれらを弾く。だが楊志の突きは止(や)むことなく周謹を襲い続ける。

 防戦一方となった周謹だったが、歯を食いしばり負けじと槍を繰り出した。馬も興奮し、足元の土を蹴り上げ、砂煙を舞いあがらせる。二人の攻防に兵たちは息も忘れて見入っていた。

 槍が幾度交差しただろうか。ようやく離れた二人を見て、兵たちも思い出したように息を吐き出す。梁世傑が身を乗り出す。砂煙が徐々に収まってくる。

 ああっ、と練兵場に悲鳴のような声が上がった。周謹の体には花を咲かせたように、十幾つもの白い斑点が刻まれていた。一方、楊志は肩にひとつだけ跡があっただけだ。

「ぐ、貴様」

 歯を砕かんばかりに噛みしめる周謹。

 一礼をする楊志に拍手を送る者は、梁世傑だけであった。

 

 続いて弓術の勝負が始まる。矢は三本とされた。

「梁中書どの、矢も当たってしまえば無事ではすみません。いかがしましょうか」

 楊志の申し出に周謹が吠えた。

「俺は構わん。戦場(いくさば)では死が隣り合わせなのが日常。ここは戦場も同じ。楊志とやら、怖くばやめても良いのだぞ」

 大恥をかかされた。次の勝負は何としても勝たなければならぬ。あわよくば射殺してやろうと周謹は虎視眈々と狙っていた。

「よし、そちらが良いのであれば問題はない。さあ勝負といこう。はじめは周謹どのからどうぞ」

 楊志はあっさりと承諾した。拍子抜けした周謹は気を取り直し、馬に乗りこんだ。

 逃げる楊志を追う周謹。矢をつがえ弓を引き絞る。楊志の背に狙いをつけ、放つ。

 観衆がどよめく。だが楊志は馬の横に身体を隠し、矢をかわしてしまった。しかも後ろも見ずに、である。

 二の矢はたたき落とされ、三の矢は、何と素手で掴み取られてしまった。矢を素手で取る、だと。馬上で愕然とする周謹。

 楊志の攻撃となった。前を駆ける周謹は気が気ではない。

 揺れる馬上で背を伸ばし、弓を引き絞る。ひょう、と空気を切り裂き飛んでゆく。

 周謹は避けられない。鈍い音と共に矢が周謹に当たり、その勢いで馬から転がり落ちる。誰もが惨事を思い浮かべた。 楊志は悠々と馬を止める。

 救護班が駆け寄ろうとした時、倒れていた周謹が起き上がった。無事なようだ。見ると、矢は肘からかけた楯に突き刺さっていた。

 青ざめる周謹は痛感していた。手心を加えられたのだ。

 楊志が進みでて礼をする。衆人には聞こえないような声でぼそりと、

「良い勝負だった。あんたが病明けじゃなかったら危なかったかもな」

 この男、自分の体調まで見抜いていたとは。これでは勝てるはずもない。周謹は負けた悔しさもあったが、同時に楊志への畏敬の念も感じていた。

「二人ともよく戦った。約束通り、副牌軍にはこの楊志をつけるとしよう」

 梁世傑が高らかに宣言する。

「しばし待たれよ。中書さまにお願いがございます」

 長年生死を共にしてきた兵たちの結束は固い。もし周謹が破れるような事があれば、異議を申し立てよう、と誰もが考えていた。

 しかし誰よりも早く声を上げたのは、正牌軍(せいはいぐん)の索超(さくちょう)という男だった。

 

 急先鋒(きゅうせんぽう)、そう呼ばれていた。

 索超は短気で、すぐに頭に血がのぼってしまう性格だった。正牌軍となってからは、こと国家の体面に関する事になるとその傾向が強くなったようだ。

 だがそれだけではなく、戦場でも誰よりも先に敵陣に突入してゆく怖れ知らずでもある。仲間の危機には己の危険を顧みず、その命を救った事も多々ある。敬意と親しみを込め、急先鋒と呼ばれる事が、索超は嫌いではなかった。

「何だ索超。願いとは」

「は、この周謹は病後間もなく、気力十分ではありませんでした。故にこの楊志どのに後れを取ったのでしょう。また彼は長年副牌軍を務めた身、そう簡単に異動させられては兵たちの士気にも影響を与えましょう。お許しいただければ、もう一度だけ、今度はこの私と勝負をさせていただきたい。私が負ければ、この正牌軍の職を彼に与えて構いませぬ」

 索超の進言に李成が助け船を出した。

「中書どの、聞けばこの楊志、東京で殿帥軍制司(でんすいぐんせいし)を務めていたとか。周謹の腕が劣るのではありません、この男の腕が非凡すぎるのです。この索超であれば良き勝負が期待できるかと」

 不満げな梁世傑。まだ楊志を認めないというのか。だが確かに圧勝すぎたところはある。索超と楊志との勝負は確かに見てみたい。知らず口元を綻ばせる梁世傑。

「よし認めよう、索超。楊志に異存はないか」

「はい、ご命令とあらば喜んで」

 笑顔で索超を見る楊志。索超は口を一文字(いちもんじ)に結び、肩をいからせ楊志をにらみ返す。

 筋骨隆々の体躯は楊志の一回りも大きいだろうか。二人は支度を整え、再び場内へ入って来た。

 太鼓が打ち鳴らされ喝采が起きる。兵たちの期待を受け索超が、梁世傑の期待を受け楊志が、馬上で向き合った。

 二人の手には武器が握られている。模擬戦ではない、真剣勝負だ。

 静まりかえる場内。はためく旗の音と馬の鼻息だけが聞こえる。

 開始の旗が振られた。

 それを待ちわびていたようにふたつの人馬が同時に動いた。

 

 金蘸斧(きんさんぷ)という、槍のような長柄の先に斧が据え付けられている武器だった。索超は金蘸斧を軽々と舞わせ雄叫びを上げる。戦場で一番槍、索超の場合は一番斧といったところか、その栄誉を最も多く得てきた急先鋒の名に恥じぬ騎乗だ。

 かたや楊志が手にするのは槍だった。先ほど周謹戦で用いたものに穂先を戻したものだ。

 練兵場のおよそ中央で二人は激突した。

 陽光を照り返し、金の斧が煌めく。負けじと銀の槍も華麗に舞う。

 斧を紙一重でかわし、放った槍も索超が微妙に身体を捻りかわす。斧と槍がぶつかり合い、すれ違い、弾きあう。両者の軍服が破けている。腕、足、脇など徐々にそれが増えてゆくが、どれも決め手にはならない。

「はは、強いな。先走るだけじゃないんだな」

「抜かせ。だが貴様も大した腕よ。周謹が負けるのも」

 頷けるわ、と索超が力押しで楊志を突き放す。なんとか馬を踏みとどまらせ、にやりとする楊志。

 誰ひとりとして野次ろうとする者はいなかった。索超と楊志が刃を交えて既に五、六十合になろうか。両者一歩も引かない戦いぶりに見蕩(みと)れ、声を発する事さえ憚られたのだ。

 楊志の実力は本物だ。一流は一流を知る。李成も聞達も、そして索超こそが、この楊志の実力を実感しているのだ。

 梁世傑もこの希代の名勝負に口を開けたまま見入っていた。瞬きする間も惜しいとばかりに目を見開いている。

 一旦離れた二人が機を窺っている。次にぶつかった時が決着の時だ。

 李成は終了の銅鑼を鳴らさせた。

 このままではどちらか重傷を負ってしまう。実力が拮抗した者同士の勝負は得てしてそうなる場合が多い。索超はもちろん、楊志もこの北京軍の強大な戦力となろう。今、どちらかを失う訳にはいかなかったのだ。

 だが二人は止まらなかった。戦いに集中していて聞こえなかったのか。はたまた武人の矜持がそれを良しとしなかったのか。

 索超は楊志だけを、そして楊志も索超だけしか見ていなかった。

 これで決まる。両者がそう思った刹那、二人は目の前に割り込んできた影を見た。

 

「そこまでだと言ったろう。聞こえなかったのか」

 目の前には聞達が両手を広げて立っていた。

 聞達の肩口に金蘸斧が、背中の中心あたりに槍が布一枚の所で止まっていた。

「聞達どの。飛び込んでくるとは、危ない所でしたぞ」

「お主に言われたくはない、索超」

 聞達は楊志と索超の顔を順に見やり、

「悪かったな。お前たちほどの腕なら止めてくれると信じていたよ」

「しかし、この男との決着が」

「勘違いするなよ、索超。我らは同じ軍人だ。味方同士傷つけあってどうする。やるなら宋に敵する者にその技を発揮せよ」

「申し訳ございません」

 うつむく索超を尻目に、聞達が言う。

「見事だった。お主の登用に誰にも文句は言わせない。そこの李成と、この俺が約束しよう」

「楊志、索超ともに素晴らしい戦いぶりだったぞ」

 梁世傑が言うと、堰を切ったように喝采が起こる。索超、楊志両者を褒めたたえる喝采であった。聞達が微笑んでいる。

「ようこそ、北京大名府軍へ。青面獣」

 楊志の背筋が震えた。索超といい、この聞達といいこれほどの豪傑に会えるとは。牛二を殺してしまった時はどうなるかと思ったが、運は開(ひら)けるものだ。

 聞達に微笑み返した楊志は、ふと周謹の方を見た。索超は楊志に負ける事はなかった。したがって周謹も副牌軍を奪われる事はなかった。

 しかし失態を演じた周謹はそれを恥じ、辞退しようとした。

 索超が周謹を制し、言った。

「病み上がりだろうが、いついかなる時も戦場(いくさば)に向かうのが我ら軍人だ。恥じる気持ちは充分わかる。だがお前がいなくてはこの軍は成り立たぬのだ」

 顔を伏せ、震える周謹。

「申し訳ございません、索超どの。大きな借りを作ってしまいました」

「はは、そうだな。では、その借りは戦場で返してもらう事にしよう。頼んだぞ、周謹」

「はっ、必ず。この借りは必ず返します」

 立ち去る索超に、片膝をつき見送る周謹。

 強くなる。必ず強くなって、この借りをお返しします。周謹は歯を食いしばりながら、そう心に誓った。

 周謹の足元の砂が、所どころ濡れているようだった。

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