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禍福

 蓬(よもぎ)で作られた人形が飾られ、門には菖蒲(しょうぶ)が捧げられている。邸宅内の大きな卓で梁世傑と妻の蔡夫人が端午の節句を祝っていた。

 粽(ちまき)や酒などを運ぶ女中たちが忙しく立ち働き、やがて二の膳となった頃、夫人が言った。

「早いもので、もう端午ですわね。ところであなた、お忘れではありませんよね」

「もちろん、覚えているさ。来月の十六日、義父上(ちちうえ)の誕生日の事だろう。私は木石(ぼくせき)ではない、義父上のご引き立てで得られた、この功名と豊かな暮らしのご恩は忘れるものか」

 北京で権力を握る梁世傑も、蔡京の娘であるこの妻には頭が上がらない。自身の実力もさることながら、今の地位につけたのは蔡京の力によるところが大きいのだから。

「安心しなさい。もうひと月前から準備はしてある。ただ心配なのは、昨年のようにならないか、なのだが」

 梁世傑は、昨年の蔡京の誕生日にも贈り物をした。この生辰綱(せいしんこう)と呼ばれる誕生日祝いは、いわゆる賄賂にすぎないのだが、それが東京への道中で賊に奪われてしまったのだ。

 梁世傑の落胆はもちろん、蔡京の怒りはいかばかりか。徹底した捜索にもかかわらず、未だに強奪犯はただのひとりも捕える事ができないでいるという。

「今回は同じ轍を踏む訳にはいくまい。どうしたら良いものか」

「あなた、お忘れですか。今年はあの男がいるではありませんか」

 蔡夫人が、ふふふと微笑んでいた。

 

「お言葉ですが、それではお受けする事ができません。誰か他に相応しい方をお探し下さい」

 楊志は梁世傑の依頼を断ると、渋い顔で心に思う。

 昨年は賊に強奪されたというが、それも当たり前だ。なにせ大仰な荷車に誕生日祝いの旗を立てて行くというのだから、奪ってくれと言わんばかりではないか。いかに己の武芸に自信があろうと、そんな狼の群れの中を裸で歩くような真似はできない。

「何故だ、楊志よ。この生辰綱を無事届けたあかつきには、お前をさらに引き立ててやろうと、蔡京さまへの手紙もしたためておるのだぞ」

 楊志は警告する。

「梁中書さま、東京への道のりは陸路のみ。そしてその道中にある紫金山(しきんざん)、二竜山、桃花山、傘蓋山(さんがいざん)、黄泥岡(こうでいこう)、白沙塢(はくさう)、野雲渡(やうんと)、赤松林はまさに盗賊どもの巣窟となっております。たとえ五百の兵をお付けになっても、彼らは賊を見れば先を争って逃げてしまうでしょう」

 腕を組み思案する梁世傑。

「ならばどうすれば良いというのだ」

「よろしければ、私に策がありますが」

「わかった。楊志よ、お前に一任するから引き受けてくれぬか」

 はい、と楊志は引き受けた。

 楊志にはある秘策があった。これならば、うまくいくはずだ。

 三日後、梁世傑が見守る中、生辰綱が出発した。

 楊志の頭に花石綱の失敗が思い浮かぶ。生辰綱の額は十万貫。途方もない莫大な金額だ。今度は失敗できない。失敗すれば確実に死罪が待っているだろう。

いや、大丈夫だ。きっとうまくゆく。

 

 待ちうけるは悪鬼羅刹か、魑魅魍魎か。

 だが進むしかないのだ、いま目の前にあるこの道を進むしかないのだ。

 楊志は己を鼓舞し、迷いを断つように頭を振ると、力強い一歩を踏み出した。

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