108 outlaws
玄女
三
一陣の風が松明の火を吹き消した。
灯りを失い闇に没した古廟の中で、趙得が喚いた。
「うわあ、きっと神様が怒ってるんだ。早く出ようぜ、兄貴」
「慌てるな、得(とく)。あいつは、宋江はこっちに来たんだ。隠れる場所なんて、ここぐらいしかないんだ」
趙能はそう言って、手にした槍を厨子に向けた。つま先に力を入れ、槍を突こうとした時だ。
再び、風が巻き起こった。
その風はさらに強く、飛んできた砂や小石が彼らの顔や体を打ちつけた。
風は次第に強くなり、やがて廟自体がぐらぐらと揺れるほどに吹き荒れ始めた。
ここにいたり、趙能も背筋にひんやりとしたものを感じた。
「これは、やはり神の祟りなのか。仕方ない、お前ら早くここから出るんだ」
趙兄弟と配下の者たちは一目散に外へと飛び出した。
少し離れた所で廟を振り返る趙能。
しかし先ほどの風など無かったかのように、積もった埃が少しも落ちてはいなかった。
ちっ、と唾を吐き趙能は配下と村の入り口で待ち伏せる事にした。
月には再び雲がかかり始め、古廟は眠っているかのように静かに佇むだけだった。
宋江は人の気配を感じた。
厨子の外に二人の者が立っているのが分かった。
趙能と趙得ではない。何故かそれが宋江には分かった。
警戒する事なく厨子の扉を開けた。
青い服を着た二人の童女だった。
闇の中にも関わらず、宋江にはその童女の姿が見えていた。
童女たちは宋江を見ると礼をし、微笑みを浮かべた。
「星主(せいしゅ)さま、お迎えにあがりました」
二人はまったく同時に、同じ口調でそう言った。
星主、とはどうやら自分を指しているようだが、その後の言葉の方が気にかかった。
迎えに、だと。
そうか自分は死んだのだ。宋江は、はたと気づいた。
趙能が槍を構えていた。きっとそれに突き殺されたのだ。
宋江は深く嘆息すると、諦めたような顔になった。
「そうですか。晁兄貴の言う事を聞かなかったばかりに、ついに父も家族も救う事ができなかったか」
「星主さま、こちらへ」
そんな宋江の気持ちなどお構いなしに、童女はどこかへ歩き出した。ついて来い、というのだろうか。
滑るように歩く童女を追う宋江。童女は祭壇の裏へ回ると、そこにあった潜(くぐ)り門を指した。
「この先です」
こんな抜け道があったのか。見つけていれば、厨子の中で殺されずともすんだのに。
そう思ったが、すでにあとの祭りだ。一度、宋江は廟の扉を振りかえり、思いを巡らせた。
ここを潜れば、あの世なのだろう。
梁山泊の晁蓋や呉用、花栄。宋家村の父と宋清。
李俊の顔が浮かんだ。及時雨になると言った。しかしどうやら志(こころざし)半ばで果ててしまうようだ。すまない。
宋江は思いを振り切るように踵(きびす)を返すと、狭く暗い門に身を潜らせた。
門を抜けて見上げると、一面の星空だった。
先ほどまで黒雲が立ち込めていたのが嘘のようだ。
門からは大きな道が一本伸びていた。両脇は大きな木立と竹藪で、童女はその道を先に歩いていた。
一里ほどだろうか、宋江はそこで川のせせらぎを聞いた。
見ると道の先に朱の欄干をあしらった石橋がかかっており、その下を流れる川は銀を転がしたかのようにきらきらと輝いていた。
童女たちはどんどん先へと行ってしまう。
宋江は橋を渡り、さらに先にある大きな朱塗りの門を潜った。
「おお」
思わず宋江は声を上げてしまった。
目の前に荘厳な宮殿がそびえ立っていたのだ。
柱には竜があしらわれており、屋根の縁(へり)には鳳凰が鎮座している。
江州の翠雲楼を思わせたが、さらにそれよりも絢爛な設(しつら)えである。風に乗って、鼻腔をくすぐる香りが漂ってくる。香(こう)が焚かれているのだろうか。
この鄆城県にこのような建物があったとは、と思った宋江だったが己が死んだ事を思い出すと苦笑した。
そうだ、ここはこの世ではないのだ。しかし、てっきり地獄へと行くものと思っていたが。
宋江はさらに進み、宮殿の奥へと向かった。
童女はやっと止まり、宋江を振り返るとまた二人同時に言った。
「星主さま、こちらでございます」
奥の間の先が少し高くなっており、そこに御簾(みす)が掛けられていた。その横には宋江を案内した童女と同じ姿をした別の二人が控えていた。
御簾の奥に誰かがいるようだ。
「なにゆえ、この宋江をお呼びでございましょうか」
宋江は御簾の前で平れ伏した。
「星主どの、どうか顔をお上げくださいませ」
優しく、どこか懐かしい女性の声が宋江の耳に響いた。
御簾が巻き上げられる音がした。
宋江はゆっくりと顔を上げた。
女神。
まさにそうとしか形容のしようがない姿の女性がそこに立っていた。
口を半開きにし、見蕩れたような顔の宋江に向かって女神が言った。
「お懐かしゅうございます、星主どの」
ふふ、と女神は優しく牡丹の蕾(つぼみ)のような唇をほころばせた。
天に替(かわ)って道を行うのです。
女神は微笑みを浮かべたまま、だがどこか厳しい瞳で宋江にそう言った。
ごくり、と宋江は頬張っていた棗(なつめ)を飲み込んだ。
口から種を手に出すと、女神に咳こむように尋ねた。
「天に替って、などとおっしゃられましたが、私はすでに死んだ身。どうしろというのですか」
「星主どの、そなたは死んではおりません。ここへは、そなたに用があって私が呼んだのです」
宋江は今度は唾を飲み込んだ。
自分は、死んではいない。確かに女神はそう言った。
「あれを」
と女神が言うと、童女たちが奥から何かを持って来た。
それを丁重な仕草で宋江へ手渡した。
それは本だった。厚さ一寸ばかりであろうか、それが三巻あった。
「それは天書です。この先、そなたたちは危難に会う事もあるでしょう。その時、それが役に立つはずです」
宋江は何度も天書と女神とを見比べた。
一体、自分に何を成せ、というのか。
苦しむ民衆のため戦う事を決意したが、天に替って道を行う、などとそんな大それた気持ちは毛頭ない。
自分ができる事を、やるだけだ。
しかし、この天書とやらには何が書かれているのだ。宋江が本を開こうとした時である。
「ご覧なさい、星主どの。橋の下で竜が戯(たわむ)れていますよ」
宋江は欄干にもたれかかり、下を覗いた。なんと本当に、小さな竜が水の中で遊んでいるのが見えた。
思わず身を乗り出した時、二人の童女が手を伸ばし、宋江を突き落としてしまった。
ああ、と悲鳴を上げ落ちてゆく宋江。
川に落ちるもの、と思っていた。だがいくら落ちても、落ち続けて行った。
うわあ、と悲鳴を上げる宋江の耳に女神の声が聞こえてきた。
「その天書はそなたと、天機(てんき)の星以外の者に見せてはなりませぬ。しかして功成った暁には、その天書は燃やし尽くしてしまいますよう」
宋江はその声を聞きながら、天書を腹に抱えるようにして川に落ちた。
体に衝撃を感じた。
夢から覚めたように、宋江は体をびくりとさせた。
目の前は暗闇だった。そこは宋江が隠れた厨子の中だった。
夢、だったのか。
確かに趙能らが廟に押し入ってきたはずだったが。どこからどこまでが夢だったのだろうか。
趙能に刺されたと思った腹を撫でた。
そこには厚さ三寸ほどの書物が三冊、入っていた。
恐る恐る宋江は厨子に差し込む光で、表紙を照らした。
間違いない。夢で見た、女神に授けられた物と全く同じ物だった。
ゆっくりと深呼吸をする宋江。
死んではいなかった。
しかしあの宮殿と女神は一体なんだったのだ。
夢ではなかったのか。
外に人の気配は消えていた。
ゆっくりと厨子の扉を開け、外へ出る。その時、何かを踏みつけた。宋江が拾って見ると、それは棗の種だった。
宮殿で女神に振る舞われたものだ。その味さえ宋江は覚えている。
やはり夢ではないのか。
背を伸ばし、祭壇を振り返った。
そこには埃が積もった女神の塑像が据えられていた。
廟に据えられた同じく埃まみれの額に、剝げかけた金文字で玄女之(げんじょの)廟(びょう)と刻まれていた。
この九天(きゅうてん)玄女(げんじょ)が、助けてくれたというのか。
その時、宋江にはその九天玄女の塑像が、先ほどの夢の中そのままの美しさで微笑みかけているように見えた気がした。